第3話 時給交渉
17世紀オランダ、デルフト。
この街の北向きの窓から差し込む光は、世界で最も柔らかく、そして残酷なほどに真実を映し出すとヨハネスは信じていた。
「旦那様、お水をお持ちしました」
その日、フェルメール家に雇われたばかりの新しい下女、ハンナ(仮名・16歳)がアトリエに足を踏み入れた瞬間、ヨハネスの時間は完全に停止した。
実家が貧しい農家で、幼い弟妹たちを養うために出稼ぎにやってきた彼女は、飾り気のない質素な衣服を身にまとい、髪も無造作に白い布で覆い隠している。
しかし、水差しを机に置こうと彼女が振り返ったその一瞬。窓から差し込んだ淡い光が、彼女の顔の左半分を優しく撫で、右半分を深い陰影の中に沈み込ませた。
その完璧な明暗のグラデーション、そして何気なくこちらを見つめ返した瞳の奥に宿る、小さくも鮮烈な白い光の反射。
(……これだ!!)
ヨハネスの脳内に、雷鳴のようなファンファーレが鳴り響いた。
風景画でもない。裕福なパトロンの肖像画でもない。名もなき素朴な少女が、ふと振り返った瞬間の、永遠にも似た静寂。これこそが、あの「ウルトラマリン」の青を注ぎ込むべき究極の器である!
「……あの、旦那様? 息、止まってますよ? 大丈夫ですか?」
ハンナは、水差しを持ったまま目をひん剥いて硬直している雇い主を見て、本気で心配になり声をかけた。この家の主人は絵を描く天才だと聞いていたが、ただの不審者ではないかと疑い始めている。
「動くな!!」
「ひっ!?」
ヨハネスの突然の大声に驚き、ハンナは危うく水差しを落としそうになった。
「そのまま! その角度! 顎をあと数ミリ引いて、視線は私の左肩のあたり! ああ、なんという奇跡だ。光の粒子が君の頬の上でワルツを踊っている! 影との境界線にある、あの僅かな赤み……光学的な魔法だ!」
「は、はあ……? あの、私、1階の床磨きに戻らないと奥様に怒られるんですが……」
戸惑うハンナをよそに、ヨハネスは狂ったようにパレットと筆を掴んだ。
「君のその頭に巻いている布! それを取り払って、代わりにターバンを巻こう! トルコ風の異国情緒あふれるターバンだ。そして、そこに私の全財産……いや、魂である『ウルトラマリン』の青を乗せるんだ!!」
ヨハネスが興奮の絶頂に達し、顔を真っ赤にして叫んでいたその時である。
バンッ!! と、アトリエの扉が親の仇のように勢いよく開け放たれた。
「ヨハネス!! あんた、新入りの子に何叫んでるのよ!!」
両手に洗濯物の山を抱えた妻、カタリーナの登場である。その背後からは、いつものように子供たちの泣き声と叫び声がBGMとして流れてきている。
「カ、カタリーナ! 違うんだ、聞いてくれ! 私はついに見つけたんだ。あのラピスラズリの青を、永遠の光に変えるための完璧な構図を! 彼女にモデルになってもらう。青いターバンを巻いた少女だ。これは歴史に残る大傑作になるぞ!」
ヨハネスは歓喜の涙を浮かべながら妻に熱弁を振るった。しかし、カタリーナの反応は氷河のように冷たかった。
「……で? その絵、いつ完成するの?」
「い、いや、それは……光の加減を慎重に見極めながら、薄く、薄く絵の具を塗り重ねていくから……最低でも半年、いや1年は……」
「馬鹿言ってんじゃないわよ!!」
カタリーナの怒号が再びアトリエを震わせた。
「お母様がなんて言ったか忘れたの!? 『明日までにパパッと描いて売れ』って言われたでしょ! 半年もこんな金にならない絵にかまけてたら、私たち本当に餓死するわよ!」
「芸術に妥協は許されないんだ! 頼む、カタリーナ。この絵が完成すれば、きっと……きっと高く売れるから!」
「あんたの『きっと』ほど信用できない言葉はこの世にないわ!」
夫婦の壮絶な口論を前に、モデルに指名された当の本人であるハンナは、極めて冷静に状況を分析していた。彼女は貧しい実家で鍛え上げられた、超現実主義のリアリストである。
ハンナは静かに手を挙げた。
「あの、お話の途中で申し訳ありませんが」
「なんだいハンナ! 君もこの歴史的瞬間に立ち会える喜びを感じているだろう!?」
「いえ、そうではなくて。私がモデルとしてここに座っている間、1階の掃除や洗い物ができなくなりますよね?」
「えっ? ああ、まあ、そうなるね」
ハンナは、ヨハネスの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「ポーズを取る間の『特別手当《モデル代》』は、おいくら出していただけるんでしょうか? もちろん、時給換算で割増しになりますよね? 私、実家に仕送りをしないといけないので、タダ働きはちょっと困るんです」
「…………えっ?」
ヨハネスは絶句した。
芸術の神聖なる女神だと思っていた少女の口から、「特別手当」や「時給換算」という生々しい単語が飛び出してきたからだ。
「い、いや、君は歴史的な名画のモデルになるんだよ? 名誉なことじゃないか……」
「名誉じゃお腹は膨れませんし、弟の靴も買えません。1時間につき、銅貨3枚の割増し。それ以下なら、私は下に行って鍋を磨きます」
ドライすぎる。あまりにもドライだ。
しかし、ヨハネスはもはや彼女のあの「光を反射する瞳」の虜になっていた。どうしても彼女を描きたい。だが、彼のお小遣いはすべてウルトラマリンの購入に消えており、銅貨1枚すら持っていなかった。
ヨハネスは、すがるような目で妻を見た。
「……カタリーナ。お願いだ。銅貨を……」
「あるわけないでしょ!!」
その時、1階から地獄の底から響くような、重低音の声が聞こえてきた。
「……騒々しいわね。何の騒ぎ?」
義母、マリア・ティンスの登場である。ヨハネスの顔から、スッと血の気が引いていった。




