第1話 青に憑かれた男
17世紀、オランダの美しい古都デルフト。
運河のきらめきが街を優しく包み込むこの街で、ヨハネス・フェルメールの家だけは、優雅さとは無縁の阿鼻叫喚に包まれていた。
「マリア! ヨハネスからおもちゃを取り上げないの! フランシスカ、そこにある絵の具は舐めちゃダメ!! ああっ、誰よ鍋を焦がしたのは!」
フェルメールの妻、カタリーナ・ボルネスは、大きなお腹を抱えながら(現在なんと妊娠7回目である)、家の中を縦横無尽に駆け回っていた。
フェルメール家はとにかく子沢山だ。
最終的に11人もの子供が育つことになるこの家は、毎日が戦争である。
しかし、これだけ子供が泣き喚き、妻が家事と育児で発狂寸前になっているというのに、一家の大黒柱であるはずの男は、家の中で最も日当たりの良い二階の静かなアトリエに引きこもったまま、微動だにしなかった。
ヨハネス・フェルメール、御年30代半ば。
彼は天才的な画家である。
しかし、同時に「極度の完璧主義者」であり「究極の遅筆」、そして何より「金銭感覚が完全にバグっている男」であった。
「……おお、なんという深淵。なんという宇宙……」
アトリエのドアを蹴破るように開けたカタリーナの目に飛び込んできたのは、イーゼルの前で恍惚とした表情を浮かべる夫の姿だった。彼の視線の先には、小指の先ほどの小さな青い石の欠片がある。
「ヨハネス! あんたまたそれ見てニヤニヤしてるの!? 早くパン屋のファン・ボイテンさんのところへ行ってちょうだい! 今月のツケを払わないと、もうパンを売らないって言われてるのよ!」
カタリーナの悲痛な叫びに、ヨハネスはゆっくりと振り返った。その目は、完全に現実世界から遊離している。
「カタリーナ、見てごらん。この青を。ただの青じゃないんだ。海を越え、シルクロードを渡り、遥かアフガニスタンの険しい山奥からしか採掘されない、まさに神の恩寵たる石……ラピスラズリだ」
「だから何よ! その石、いくらしたの!?」
「……銀貨50枚ほど」
「ご、ごじゅうっ!?」
カタリーナは白目を剥いて倒れそうになった。
銀貨50枚。それは、この家の一家全員が数ヶ月は腹一杯にご飯を食べられる金額である。
「あんたって人は……! なんでいつもいつも、そんなバカ高い絵の具ばかり買うの!? 隣町の画家さんは、スマルトとかアズライトみたいな安い青の絵の具を使って、パパッと月に何枚も絵を描いて稼いでるわよ! なのにあんたは年に2、3枚しか描かないし!」
ヨハネスは、信じられないものを見るような目で妻を見た。
「スマルト? アズライト? 冗談じゃない。あんなものは数年で退色して黒ずんでしまう。私が描きたいのは『永遠』なんだ。聖母マリアの純潔を象徴する、この高貴な『ウルトラマリン』でなければ、光は表現できない!」
「永遠より明日のパンよ!!」
カタリーナの怒号がアトリエに響き渡る。
だが、ヨハネスは意に介さず、ガラスの板の上にラピスラズリの粉を乗せ、乳鉢でゴリゴリとすり潰し始めた。亜麻仁油を数滴垂らすと、粉はねっとりとした、吸い込まれるような深い青色の絵の具へと変わっていく。
その美しさは、怒り狂うカタリーナでさえ、一瞬言葉を失うほどだった。窓から差し込む北側の柔らかい光を反射し、まるで液体の宝石のように輝いている。
「……ねえ、ヨハネス。そのバカ高い青色を使って、次は一体何を描くつもりなの? よっぽどのお金持ちのパトロンに高く売れる絵を描いてくれないと、私たち、本当に路頭に迷うわよ。お母様(義母のマリア・ティンス)にも、これ以上借金のお願いはできないわ」
カタリーナのトーンが、怒りから哀願へと変わった。実家が裕福なカトリックである彼女の母マリアは、しぶしぶ娘夫婦を経済的に援助してくれていたが、それも限界に近づきつつあった。
ヨハネスは絵の具から目を離し、ふと窓の外を見た。デルフトの街並み。行き交う人々。
彼の頭の中には、常に「光」と「構図」しかない。しかし、まだ「これだ」という決定的な主題が見つかっていなかった。
「……まだ分からない」
「分からないって……」
「ただ、この青に見合うだけの『何か』を描かなければならない。このラピスラズリの青を、キャンバスの片隅ではなく、世界で一番美しく輝かせるための『何か』を」
ヨハネスの真剣な横顔を見て、カタリーナは深い溜め息をついた。この男はダメだ。画家としては天才かもしれないが、夫としては落第点だ。
しかし、彼がキャンバスに向かう時の、あの神がかった美しさを知っているからこそ、彼女は見捨てることもできなかった。
「分かったわよ。パン屋には私が頭を下げてくる。お母様のところへ行って、銀器をいくつか担保にお金も借りてくるわ。……その代わり、絶対にとんでもない傑作を描きなさいよ。パン屋の親父が、絵を見ただけで借金を帳消しにしてくれるくらいのやつをね!」
カタリーナがバンッ! と音を立ててドアを閉め、1階へと続く階段をドタドタと降りていく。
再び子供たちの泣き声と、彼女の怒鳴り声が家中に響き渡り始めた。
静けさを取り戻したアトリエで、ヨハネスはパレットに乗った高価な青の絵の具を見つめた。
彼には、まだ『真珠の耳飾りの少女』の構想の欠片すらない。ただ、とてつもない借金と、神のように美しい青色だけが、彼の手元にあった。




