7.夫の誕生日
朝、というよりお昼くらいに目を覚ました私は、すぐさまベッドの目覚まし時計に目をやった。
「あ!」
時計を見て思わず声を出す。針は一時を回っていた。
それから勘違いでないよう確認のため、カレンダーを見る。
間違いない。今日は美容院へ行く日だ。四日前に予約したから忘れかけてた。
『美容院。ディナー』としっかり書かれている。
とりあえず何か食べよう。あ、その前に顔を洗って着替えなきゃ。
そう思って洗面所に向かい、水道の蛇口をひねり石鹸で泡立ててから顔を洗う。十一月にも入るとさすがに水だと冷たい。石鹸を綺麗に洗い流してから、後ろに掛けてあったタオルで素早く顔を拭く。一瞬にして水滴がなくなる。この瞬間がたまらなく好きだ。そして、丁寧にてのひらも拭いた。
それからカットソーの上からカーディガンを着てから、ジーパンを履く。
時間がないから、化粧も簡単に済ませようとする。化粧をする前に洗濯機を回し、スタートさせ、昨日パン焼き機で焼いたパンの残りをトースターに入れる。チークが塗り終ったところで、トースターがチン!という軽やかな音を出した。
少しのバターをぬってから食べる。周りがカリッと香ばしく焼けてバターがそれになじむ。
うん、美味しい。
食べ終わってから、眉カットも自分ですることに決めた。自分で出来ることは出来るだけお金をかけない。
その時、洗濯終了の音が鳴り、ワイシャツや下着類をパンパンとはたいて、手早く干していく。天気がいい。太陽の日当たりが特にいい。思わず歌を口ずさむ。
ストレートのロングだけど、今日は巻いてもらおうかしら。
悩みつつ、眉の太さをハサミで切り細くしていく。このバランスが難しい。おまけに美容院に予約してあるのは二時半だ。心に焦りが交る。本当は五分もあれば着くけれど、危ない運転はしたくないから。
やっとのことで左右のバランスを整え、髪の毛と全身をチェックしてから靴をはき、自転車に乗る。
美容院「MIKI」は今時のオシャレな窓張りの外観で、ちゃんと自転車を置くスペースもある店だ。駅前だし人目に付きやすいのはもちろん、対応も親切だから私はここ二年くらい「MIKI」以外ではカットしていない。おまけに夕方にはチラシも配り、それを持っていけば半額になるから主婦の強い味方だ。当然常連客も多い。
重いガラスのドアを開けたらすぐに名前を呼ばれ、簡単に希望を聞かれる。
「傷んでるところをカットして、すいてください。あと前髪もこの辺までお願いします」
と、顔の頬に指を指した。
ではこちらへと、シャンプー台の方に移動するのに、気持ち的に足元で転ばないように気をつける。
髪が濡れ、シャンプーが泡立つのを感じて、ほんのりと静かな時に耳を澄ませる。
「いらっしゃいませー」の店員の声。行き交う足音。シャワーの流れ出る音。時折訊かれる質問に頷きながら、髪をマッサージしてもらった。
再度鏡に向かいながら、美容院独特の前掛けをかけてもらい、カットに入ってもらう。
シャリン、シャリン。ハサミが素早く髪の毛を切りそろえていく。時には長く時には短く。ハサミを魔術師の様に手が操っている。
心地良くなり、私は目を閉じてみた。
「……さん」
「……橋本さん」
肩を軽くゆすられ、自分の名前を呼ばれて我に返った。
ああ、本当に寝ていたのか、私は。
カットしてもらった髪のチェックもしたけれど問題はなかった。
「こんなにすいたんですよ」
茶色い髪のお兄さんが苦笑いして言った。
私は小さく「ありがとうございました」と言って会計を済ませた。
表まで出て見送ってもらうと、セレブになった気がする。
家路に帰るまで事故をおこさないよう細心の注意を払っていたせいか、家に着いたら、一気に疲れが出たので一息つくことにした。
ちょっとしたティータイム。……それにしても、主人はどうして今日私を起こさなかったのかしら?
……まさか、気付いたのかしら。
ううん、そんなことはないはず。
思考を回す。
何だかんだで、時計は五時を回るところだった。
ディナーに行くのは、夫の誕生日だから。欲しいのが特に何もないという、今どき珍しい彼のために「じゃあフレンチのレストランで」という成り行きになったわけだ。
ジーパンで行くわけにもいかないので、ワインレッドのセーターに黒のべロアのフレアースカート。首元と耳にはパールのネックレスとピアスをつける。その上からウールのコートを着て、駅まで迎えに行く。今日は定時に終わるらしいからちょうどいい。
だんだん踏切の音が耳に近づくにつれ、階段を昇る足にも力が入る。電車が通り過ぎ、人が溢れるように出てきた。
いた!
軽く手を上げて自分の居場所を告げる。下でメールで知らせても良かったのだけど、どうしても顔が見たかった。しかも今日は特別な日。
パープルのチェックのマフラーをキレイに巻いて、私の前にくる人は二歳年上今日三十歳の優しい堅実な人。出会ったのが合コンってのが流行りかもしれない。
見慣れた背広の上のコートがやけに愛おしい。
照れくさそうに近づく彼に「お疲れ様」と声をかける。
「ありがとう」
穏やかな声に微笑み返す。
「お誕生日もおめでとう。……あのね、実はね」
レストランへ向かいながら会話する。
会話の言葉と言葉のやり取りが、吐く息とともに空気に溶けて白くなる。
「うーん。…どうしようかな。やっぱり言っちゃおう」
頬が緩むのが抑えきれない。
「とっておきのバースデープレゼント」
「なに?」
私の話し方に彼が興味を引いたようだ。
私は立ち止まり、背伸びしてつま先立ちになり耳打ちする。
「赤ちゃんが出来たみたい」
「うそ!?」
「ホント。五週目だって」
彼が頭を抱えてびっくりしているから、私は声を上げて笑ってしまった。
「そっか、そっかー。いつ分かったの?」
「昨日」
「そうかー。ありがとう! 嬉しいよ。子供かあ。俺達の子供かあ」
彼はにこやかな笑顔で繰り返し言う。
「そっかそっか」
それからこちらを向いて一言、
「俺、頑張るよ」
力強い言葉だった。
「私も頑張る! 丈夫な子を産まなきゃね」
夫のお陰で女から妻へ、そして母親へと変わっていく。
それはとても大きな喜びだった。一人では得られない喜び。
女でいた時は彼と釣り合うように努力していた。結婚後は出来るだけ彼の力になりたいと願う主婦になった。そして今、一人の体じゃなくなり新たな命を大事に、大切に生きなければという心構えができた。
小さな命が芽生えただけで、心が晴れやかに穏やかになり、彼に話したことで現実味を帯びてきた。お互い顔に笑みが広がる。
ディナーの会話は、早くも子供の名前選びに入っていた。
私は、食事と共に幸せをかみしめた。
【終】
《初出》
2012年8月12日発行「宝箱」収録




