3.家族の形
(またか……)
隣の部屋から両親の言い争う声が聞こえる。
(もうやめてよ……)
カレンダーの日付にバツをつけて、恭子は小さく肩を落とした。
三月もあと一週間で終わる。外はだいぶ暖かくなり、道端には花も咲き始めている。季節が春を迎えるからというだけでなく、浮き足立つのは六月に結婚が決まっているからだ。
……それなのに、うちの親は。
(どうしてこうなんだろう)
台所の方から皿が割れる音がした。今日は特にひどい。
恭子は長いまつ毛を伏せ、影を作った。そのまま長い髪の毛が肩から落ちる。自然に胸が苦しくなり、泣きたくなった。唇を震わせ、必死にこらえる。
入社三年目、それでも元々恭子は、感情の起伏が激しい子供のような性格をしている。泣きださないだけまだましだろう。
しかし自分で限界を感じ、部屋着のニットの上からスプリングコートを着て、外へ飛び出た。走りながら、ボタンを留める。これで多少は目立たないはずだ。
近所の公園に向かいつつ、婚約者に電話をする。
トゥルル、と短い呼び出し音が聞こえ、心臓が跳ねるようにばくばくした。
(早く出ないかな)
不安になりつつ目からは涙がこぼれそうになる。電話口から愛しい人の声が聞こえた。
「恭子?」
「明、もうやだよ。なんでうちの親はケンカばっかりなのかなあ」
「今、どこにいるの?」
穏やかな声に心が休まる。
「近くの公園……」
言ってから気付く。夜なんだから危ないはず。街灯も少ないからいるだけで不安になる。
明は小さくため息をついてから言った。
「そこが安全とは限らないんだから、早くうちにおいで。待ってるから」
「行ってもいいの?」
期待していた言葉だったが本当にそうなるとは。明に会えば落ち着くはずだ。
明と知り合ったのは、ちょうど入社したての頃。右も左も分からず、そのまま飲み会に誘われ参加した。しかし、あまりお酒が飲めない恭子は緊張していて、片隅にいた。そんな恭子と同じようにソフトドリンクばかり注文していたのが明だった。黒ぶちの四角いフレームのメガネが恭子には堅苦しく見えた。が、明から話しかけてきた。そして、音楽や映画の趣味なども合う事から付き合い始め、婚約に至った。一見、物静かで穏やかそうな印象の明だが、言うべき所でははっきり言う強さも持っている。
今は結婚の準備をすることが多いため、歩いて十五分程度の場所に引っ越してきた明の家に泊まり込むことも多くなってきている。
毎度おなじみのこの悩みに、明はなんと言うだろう。
考えているうちに明のマンションに着いた。割と新しく建てられたというマンションは、小ぎれいでお洒落な外観だ。頭金は親が出してくれたという、恭子の親とは正反対に見える。
いくら温厚で、誠実さが取り柄の明でも、いい加減疲れてきてはいないだろうか。
二つ年上の明は怒ることをほとんどしない。会話でその糸口を見つける。
恭子も両親に対して『怒る』感情よりも『悲しい』感情が混ざっているのだが。
せっかく人生のパートナーになった相手に、なぜそんな嫌な思いをしなければいけないのか。
そういえば、と恭子は思い出す。
先日もう主婦となった友人の瑛子はこんなことを言っていた。
※
「主婦になってから時間に追われてねえ、ごめんね、なかなか会えなくて」
マイペースな口振りで、ショートカットの毛先を右手の人差指でくるくると転がす。
「結婚はね、『妥協と忍耐』よ。お互い人間なんだから、衝突することもあるわ。けどずっとそればかり、恨んでも憎んでもだめ。長く続かないわよ」
(なるほど、既婚者の言葉は違う、妙な説得力があるなあ)
そう恭子は感じた。
「何か悩んでる?」
心配そうに尋ねた瑛子に、恭子は小さくかぶりを振った。
「ううん、明には何の問題もないの」
恭子の言葉に、瑛子は不思議そうな顔をして眉を細めた。
「じゃ、他に何があるの?」
「……うん、落ち着いたら話すよ」
「そう」
瑛子はそれ以上聞いてこなかった。それが恭子には救いだった。
(妥協と忍耐か…)
※
まさにその通りだと思う。というより、一度本気で心から愛し合った仲なら、話し合えば問題は解決すると思うのだけれど、うちの両親は違うのだろうか。
まとまらない考えを押しのけ、インターホンを押す。
カチャリ、と内側からカギが外れる音がする。そしてドアノブが回される。
「寒かったろ。おいで。……またそんな恰好で」
手を引かれ部屋に導かれる。
(何で明はこんな優しいのだろう)
部屋に上がり、恭子のやるせなさと我慢していた分が爆発する。涙が止まらない。
「辛いだろうね、恭子にしか分からないかもしれないけど、分かりたいと思ってるよ。だって、悲しいことばかりじゃなかっただろ? 小さい頃は楽しいこともあったんじゃない?」
諭すような口ぶりだった。
そうね、と恭子は呟く。
幼い頃の記憶へ想いを馳せる。
小さい頃、両親が休みの日は、動物園に行って父の肩車でキリンを眺めた。父の肩の大きさ、硬さ、今でも微かに憶えている。
水族館ではイルカショーを観て、タッチもして写真も撮った。楽しいことばかりだった。みんなが笑顔でいた。
それなのに。いつからだろう。言い争うようになったのは。
だから。
「だから余計悔しいの。なんで今なの? 私たちの結婚前なのに」
明は恭子の背中をさすり、子供のように丸くなっている恭子をずっと慰めていた。
「だったら、どうすればいいのかな」
「私が一人暮らしすればいいのかな。でも出来るかな。それにたった三か月で明と一緒に暮らすのに」
明の両親は同棲には反対だった。事情を話せば許してくれるかもしれない。けれどどうしても話したくなかった。それは恭子のギリギリの境界線でもあった。
「やっぱり親がいなきゃいいのよ!」
子供じゃあるまいし、恭子自身何を口走ってしまったかと思ったが、明の口からは思ってもいない言葉が出た。
「じゃあ、殺しちゃう?」
(え? 殺す?)
恭子は自分の耳を疑った。当然だ。今までそんな物騒な言葉を明は一度も口にしたことがなかったのだ。表情も硬くこわばり、いつもの優しいオーラがない。
(私が彼を追い詰めたんだわ。どうしようどうしよう……)
顔が引きつるのを感じる。初めて明のことを怖いと思う。
頭の中が真っ白になる。
背筋がぞっとし、腕には鳥肌が立つ。血液が体を逆流していくような感覚に襲われる。
自然と声が出た。
「なん……で?」
震える声で零れた言葉は、相手に届いたようだ。
「だって恭子がこんなに苦しんでるんだもの。……いらないなら殺す?」
「……え?」
まじまじと明の顔を見つめる。自分が追い詰めたことへの恐怖が、体を支配していた。
(彼は本当に両親を殺してしまおうと思っているのかしら?)
訝しげに体を震わせながら、明を凝視する。
(本気なの? どうしたらいいの?)
恭子は親が殺される図を想像しようと、努力してみた。しかし全く想像できない。
こんな時なのに、恭子の目から涙が溢れた。自分が結婚しようと思っている人は、そういうことを感じさせない、誠実でまっすぐな人なのだ。そんな人が『殺す』だなんて口にする。
恭子の心に深い罪悪感が残った。
明を見つめ続ける。
どのくらいそうしていただろうか。
「ね? 出来ないでしょ」
にっこりと微笑んで明が言った。いつもの明だった。
また恭子はびっくりした。明は自分を試したのだ、と悟った。
しかし恭子は心から安堵していた。
親が死ぬことなんて考えられなかった。
それを、明が教えてくれた。
どんなにひどい親でも、昔は愛し合っていたはず。そして自分を産んでくれたのは確かなのだ。それなら、自分は親のようにならないと誓えばいいのではないか。明とずっと仲良く暮らせるように努力すればいいのではないか。時には、妥協や忍耐をして。
自分が昔、楽しかったことを思いだして、それを実行すればいいのではないか。
春の日にはお花見をしよう。駅前の桜通りを手を繋いで歩こう。
夏にはプールに行こう。海岸沿いをドライブするのもいいかも知れない。
秋の日には公園で、落ち葉を踏みながら銀杏並木を歩こう。
冬には炬燵でみかんを食べて、お正月には二人で初詣に行こう。
そう、気づいた。
(でも……もう一度両親と話し合ってみようかな。また昔のように笑えるように)
その恭子の心の変化を見抜いたように、明が言った。
「話しにくいなら、一緒に行くよ?」
「ううん」
恭子は力強く首を振る。
「私の問題だから一人で大丈夫」
「恭子、君こそが二人が愛し合って産まれた証なんだ。君が二人を信じなくてどうするんだ。そうでなくちゃここにはいないんだよ? 僕とも一緒になれない。それを忘れないで」
恭子は「ありがとう」と言い、明の体を強く抱きしめた。その温もりが、さらに恭子を勇気づけた。
そう、たとえ今はケンカばかりしていても。
昔の感情を思い出してもらおう。
『愛情』というこの世で一番大切な感情を。
【終】
《初出》
2011年8月14日発行「家族の形」




