嘘は骨に食い込む
嘘は骨に食い込む
噂が走るのに、時間はかからなかった。
池田屋の翌日。
壬生浪士組の中で、囁きが生まれる。
——あの剣士は、深手を負っている。
——だが、医者を呼んでいない。
——おかしい。
英雄は、常に見られる。
称賛と同時に、検分される。
名を持たぬ者は、その視線の中心にいた。
詰所の庭を横切るだけで、
何気ないふりをした目が、背中をなぞる。
歩き方。
姿勢。
呼吸の深さ。
左脇腹の痛みは、隠しようがなかった。
深く息を吸えば、焼ける。
立ち止まれば、崩れる。
それでも、歩いた。
止まれば——
終わる。
その日の昼、ついに呼び出しがかかった。
副長の詰所。
名を持たぬ者が入ると、すでに数名が揃っていた。
副長。
組頭格の隊士。
そして——医者。
町医者ではない。
組に出入りする、検分役の男だ。
名を持たぬ者の喉が、わずかに鳴る。
「……座れ」
副長の声は、いつもと同じだ。
感情を含まない。
畳に正座した瞬間、脇腹に痛みが走る。
だが、顔には出さない。
「池田屋で負傷したと聞く」
「……はい」
否定は、できない。
「見せろ」
短い命令。
逃げ場は、なかった。
名を持たぬ者は、ゆっくりと羽織を外した。
帯に手をかけ、衣を緩める。
その動作一つ一つが、
検分だった。
布がずらされ、
白い肌——
否、剣士の肌が、露わになる。
傷は、すでに血を止めている。
だが、素人目にも分かるほど、深い。
検分役の医者が、無言で近づく。
指が、傷口の周囲に触れる。
名を持たぬ者は、歯を食いしばった。
声は、出さない。
「……銃弾ではない」
医者が言う。
「刃物。
斬り下ろしではなく、横薙ぎ。
相手は、かなり近かったはずだ」
副長の視線が、鋭くなる。
「前に出すぎたな」
責めているようで、
評価でもある。
だが次の言葉が、問題だった。
「……しかし」
医者は、眉をひそめた。
「この傷、
普通なら、もっと裂ける。
筋肉の逃がし方が——」
言葉が、止まる。
名を持たぬ者の背中に、冷たい汗が流れる。
——見抜かれる。
この傷は、
女の身体の柔軟さがなければ、
ここまで浅く済まなかった。
副長が、医者を見る。
「何だ」
「……いえ」
医者は、言葉を選んだ。
「相当、身体の使い方に慣れている。
普通の浪士の傷ではない」
沈黙。
それは、疑念の沈黙だ。
名を持たぬ者は、視線を伏せた。
ここで弁解すれば、余計に怪しまれる。
副長は、しばらく考えるように黙り込んだ。
——そして。
「この者は、池田屋で最前に立った」
副長が言った。
「死線を越えた。
それだけだ」
断定。
だが、それでも完全ではない。
副長は、名を持たぬ者を見る。
「医者を呼ばなかった理由は?」
「……自分で、処置できると思いました」
半分、嘘。
半分、真実。
副長は、視線を外した。
「愚かだ」
それで、終わりにするつもりだった。
——そのとき。
「……一つ、よろしいでしょうか」
声が上がる。
あの隊士だった。
場の空気が、一段冷える。
副長が、彼を見る。
「何だ」
短い。
拒否は、していない。
隊士は、一歩前に出た。
それだけで、
賭けだった。
「この者は、
私が止めました」
名を持たぬ者の胸が、跳ねる。
「……何を」
「前に出すぎた。
だから、私が引き戻した」
嘘だ。
だが、重い嘘だった。
医者の目が、隊士に向く。
「あなたが?」
「はい」
副長が、ゆっくりと口を開く。
「つまり」
間を置く。
「この傷は、
お前が止めなければ、
死んでいたと?」
「……そうなります」
その言葉で、
嘘は、もう引き返せなくなった。
副長は、じっと隊士を見つめた。
長い。
息が詰まるほど、長い沈黙。
「……命令は」
「破りました」
即答だった。
場が、凍りつく。
命令違反。
池田屋の最中に、持ち場を離れた。
それは、
処断の理由になる。
名を持たぬ者は、思わず顔を上げた。
「……私が」
声を出しかけて、止める。
今、言えば、すべてが無駄になる。
副長は、二人を交互に見た。
そして、ふっと息を吐いた。
「……なるほど」
それだけ。
怒りでも、許しでもない。
「お前は、この者を庇った」
隊士は、否定しない。
「……池田屋での働きは、帳消しにできん」
副長は言った。
「だが、命令違反は、覚えておけ」
それは、
猶予だった。
医者は、何も言わなかった。
言えなかった。
場は、そういう空気になった。
「傷は、私が管理する」
副長が告げる。
「勝手な治療は許さん。
だが——
外の医者も呼ばせん」
名を持たぬ者の胸が、締め付けられる。
守られた。
同時に、
完全に監視下に置かれた。
検分は、終わった。
部屋を出たとき、
名を持たぬ者は、足が震えた。
廊下の角で、隊士が立ち止まる。
二人きり。
彼は、低く言った。
「……これで、後戻りはできない」
それは、謝罪ではない。
確認だ。
名を持たぬ者は、静かに頷いた。
「承知しています」
声が、少し掠れた。
「あなたは……
もう、逃げられません」
彼は、目を逸らさなかった。
「元から、逃げる気はない」
それが、答えだった。
この嘘は、
彼女一人のためではない。
二人で背負う嘘だ。
秘密ではない。
共犯という言葉すら、生ぬるい。
それは、
運命の共有だった。
名を持たぬ者は、脇腹の痛みを押さえながら、歩き出す。
英雄として。
監視される刃として。
そして、
誰か一人を守るために、
誰よりも危険な嘘を抱えた剣士として。
息苦しさは、
まだ、始まったばかりだった。




