表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/9

英雄の檻

英雄の檻


 池田屋の朝は、異様な静けさで始まった。

 夜明けとともに、血の匂いが冷えていく。

 板に染み込んだ赤は、拭われる前に色を変え、

 昨日まで人が笑い、酒を飲んでいた場所を、

 ただの現場に変えていた。

 名を持たぬ者は、裏口の柱にもたれ、深く息を吸った。

 肺が痛む。

 だが、それは煙のせいだけではない。

 左脇腹に、鈍い熱が残っている。

 斬られた。

 致命傷ではない。

 だが、浅くもない。

 斬り込んだ瞬間、気づいていた。

 だが止まれなかった。

 止まれば——

 彼が斬られる。

 その一心だけで、身体は動いた。

 足音が近づく。

 名を持たぬ者は、反射的に体を正した。

 だが、次の瞬間、視界がわずかに揺れる。

 ——まずい。

「……座れ」

 低い声。

 あの隊士だった。

 名を持たぬ者は、否定しなかった。

 柱の陰に腰を下ろす。

 羽織の内側で、血が滲んでいるのが分かる。

 動くたびに、傷口が開く。

「……斬られたな」

 事実の確認。

 責める響きは、ない。

「……掠っただけです」

 嘘ではない。

 だが、真実でもない。

 あの隊士は、それ以上追及しなかった。

 視線を落とし、彼女の手元を見る。

 血に濡れた指。

 震えは、もう止まっている。

「医者は」

「呼べません」

 即答だった。

 呼べば、終わる。

 池田屋の後始末は、迅速だった。

 死体は運び出され、

 生き残った者は捕らえられ、

 町には、こう触れが回る。

 ——新撰組、尊攘派を一網打尽。

 英雄譚が、朝のうちに出来上がる。

 詰所へ戻る道すがら、

 町人たちの視線が変わっていた。

 恐れ。

 畏敬。

 そして、期待。

 人々は、剣に守りを求める。

 だが剣は、人を守らない。

 名を持たぬ者は、羽織の襟を正し、歩き続けた。

 身体が、重い。

 詰所では、すでに処理が始まっていた。

 名簿。

 戦果。

 報告。

 副長は、淡々と名前を読み上げていく。

「——この者、先頭に立ち、二階制圧に貢献」

 名を持たぬ者の位置で、声が一瞬止まった。

 そして、副長は続けた。

「……見事だった」

 それだけだった。

 だが、その一言で、空気が変わる。

 視線が集まる。

 称賛。

 羨望。

 ——嫉妬。

 英雄は、妬まれる。

 名を持たぬ者は、頭を下げた。

 その動きで、脇腹に痛みが走る。

 だが顔には出さない。

 出せば、疑われる。

 副長の目が、こちらを見た。

 ——鋭い。

 あの夜の剣を、覚えている目だ。

 副長は、何も言わなかった。

 だがその沈黙は、

 もう隠すなと告げていた。

 英雄であれ。

 使える刃であれ。

 それが、檻だ。

 報告が終わり、解散となった。

 名を持たぬ者は、人目を避けるように詰所を出た。

 足取りが、少し重い。

 角を曲がったところで、膝が折れた。

 ——限界だ。

 次の瞬間、腕を掴まれる。

 あの隊士だった。

 彼は、何も言わず、彼女を抱え上げた。

 力強く、だが急がない。

 人目のない裏手の部屋へ運び込む。

 戸を閉める。

 ようやく、息を吐いた。

「……見る」

 短い言葉。

 名を持たぬ者は、拒まなかった。

 羽織を外し、帯を緩める。

 その動き一つ一つが、痛む。

 衣をずらすと、脇腹に走る斬創が露わになった。

 血は、もう止まりかけている。

 だが深い。

 あの隊士の目が、わずかに細くなる。

 「……派手だな」

 感情を抑えた声。

「死にません」

「……問題は、そこじゃない」

 彼は、布を取り、水で濡らし、傷口を押さえた。

 その手つきは、慣れている。

 戦場で、人を何度も見てきた手だ。

 名を持たぬ者は、歯を食いしばる。

 声は、出さない。

 出せば、何かが崩れる。

 処置が終わるまで、二人は言葉を交わさなかった。

 静かだった。

 外では、英雄譚が広がっているというのに。

「……なぜ、庇った」

 唐突に、彼が言った。

 名を持たぬ者は、答えを探さなかった。

「……斬られると思ったから」

 それだけ。

 だが、それでは足りない。

 彼は、分かっている。

「俺は、命令を破った」

 淡々とした声。

 だが、その事実は重い。

 命令違反は、処断の理由になる。

「……知っています」

 名を持たぬ者は、視線を上げた。

 初めて、正面から彼を見る。

「それでも、後悔はしません」

 それは、剣士の言葉ではない。

 人の言葉だ。

 彼は、黙って彼女を見返した。

 長い沈黙。

 やがて、彼は言った。

「……俺は、お前を見なかったことには、できない」

 それは、告白ではない。

 選択だ。

 名を持たぬ者の胸が、静かに締め付けられる。

「だから……共犯だ」

 その一言で、世界が変わった。

 秘密では、ない。

 守る沈黙でも、ない。

 共に嘘を背負う関係。

 逃げ道は、完全に消えた。

 名を持たぬ者は、目を閉じた。

 そして、静かに頷く。

「……それで、構いません」

 恋という言葉は、まだ要らない。

 だが、もう分かっている。

 この人が斬られるなら、

 自分が斬る。

 この人が疑われるなら、

 自分が疑われる。

 それが、共犯だ。

 外で、太鼓の音が鳴る。

 勝鬨だ。

 新撰組は、英雄になった。

 そして彼女は、

 英雄という檻に閉じ込められた。

 共犯者とともに。

 血の匂いは、まだ消えない。

 それが、次の戦いの予兆だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ