影は火を断つ
影は火を断つ
池田屋の灯りは、遠目にも異様だった。
二階の窓から漏れる橙色が、闇に滲んでいる。
笑い声。
酒の匂い。
そして、刃の気配。
——ここだ。
名を持たぬ者は、路地の影で足を止めた。
背後に、仲間の気配が連なる。
呼吸を殺し、羽織の内で刀を確かめる。
夜気が、肺に冷たい。
副長の指示は簡潔だった。
正面突破。
逃がすな。
斬れ。
それ以上は、ない。
名を持たぬ者は、自然と前に出ていた。
誰かに押されたわけではない。
役目を与えられたわけでもない。
——選んだのだ。
池田屋の戸が、乱暴に蹴破られる。
怒号。
悲鳴。
刃が抜かれる音。
そのすべてが、同時に爆ぜた。
名を持たぬ者は、迷わず踏み込む。
躊躇は、死だ。
一階。
畳の上に、男が三人。
最初の一人が、振り向きざまに刀を抜く。
遅い。
名を持たぬ者は、影之剣・第一式を解く。
踏み込みは浅く、重心は低い。
刃は横に走り、相手の手首を断つ。
血が噴き、刀が落ちる。
叫ぶ暇は、ない。
二人目が突く。
力任せだ。
名を持たぬ者は、刃を受けない。
受ければ、体が裂ける。
代わりに、体を入れ替える。
肩を滑り込ませ、相手の肘を押し、首元へ刃を通す。
深くは斬らない。
だが呼吸は止まる。
崩れ落ちる。
三人目は、すでに逃げ腰だった。
背を向けた瞬間、名を持たぬ者の刃が、背中を裂く。
斬る。
止めない。
階段が、軋む。
二階だ。
名を持たぬ者は、血を払う暇もなく、踏み出した。
——そのとき。
背後で、鋭い気配が動く。
銃。
火薬の匂い。
あの隊士が、名を持たぬ者の背を押した。
次の瞬間、銃声。
板が弾け、壁が砕ける。
名を持たぬ者は床を転がり、柱の影へ滑り込んだ。
一歩遅れていたら、胸を撃ち抜かれていた。
あの隊士は、命令に背いた。
前へ出るな。
持ち場を離れるな。
——それを、破った。
名を持たぬ者は、一瞬だけ彼を見る。
視線が交わる。
言葉は、ない。
だが、はっきりと分かった。
守られた。
——ならば。
名を持たぬ者は、もう隠さなかった。
《影之剣》を、完全に解く。
構えを捨てる。
型を捨てる。
そして、己の身体そのものを刃にする。
影之剣・奥。
斬らずして、断つ。
二階に踏み込む。
室内は、混乱の坩堝だった。
尊攘派の浪士たちが、刀を振るい、叫び、逃げ惑う。
火薬箱。
松明。
炎が上がる。
名を持たぬ者は、炎の縁を走る。
熱を恐れない。
恐れているのは、ただ一つ。
——彼が斬られること。
一人、背後からあの隊士へ斬りかかる影。
名を持たぬ者は、叫ばない。
叫べば遅れる。
踏み込む。
刃を走らせる。
相手の首筋に、一直線。
男が崩れ落ちる。
あの隊士が、息を呑む。
——見た。
完全に、見た。
力の使い方。
刃の走り。
体のしなり。
男の剣ではない。
だが弱さでもない。
生き残るために研ぎ澄まされた、女の剣。
疑いは、消えた。
確信だけが、残った。
名を持たぬ者は、さらに踏み込む。
斬る。
斬る。
斬る。
影のように。
血を浴び、火を越え、
刃を止めない。
階段の上で、副長の視線が交錯する。
——見られた。
隠す余地は、もうない。
副長は、何も言わない。
ただ、理解した。
使い潰せる。
だが同時に、
制御を誤れば、噛みつく刃だと。
斬り込みは、長くは続かなかった。
数刻後、池田屋は血と煙に沈んだ。
名を持たぬ者は、廊下に膝をついた。
息が、荒い。
体が、震えている。
恐怖ではない。
解放の反動だ。
あの隊士が、そっと近づく。
周囲に、人はいない。
彼は、名を持たぬ者の手を見る。
血に濡れた手。
そして、ゆっくりと目を上げる。
何も言わない。
問わない。
だが、その沈黙は、すべてを知っていた。
名を持たぬ者は、初めて目を逸らさなかった。
剣士としてではなく、
人として。
——あなたのために、剣を振るった。
その事実を、否定しなかった。
外で、夜明けの気配がする。
池田屋事件は、終わった。
だが二人の関係は、
もう後戻りできない地点に立っていた。
嘘で守る段階は、終わった。
これからは、
命で選び続けるしかない。
名を持たぬ女剣士は、血の匂いの中で立ち上がる。
歴史が、動いた。
そして彼女もまた、
歴史の闇の中で、確かに剣を振るった。
——名を残さぬまま。




