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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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使い潰される刃

第2章 血の前夜


使い潰される刃


 京都の夜は、妙に静かだった。

 梅雨の気配が近づき、空気は湿り気を帯びている。

 風が止まり、虫の声も遠い。

 まるで都そのものが、息を潜めているようだった。

 壬生浪士組の詰所では、灯りがいつもより多く点いていた。

 人の出入りが激しく、足音が重なる。

 低い声で交わされる報告が、途切れ途切れに廊下へ漏れてくる。

 ——何かが、始まる。

 名を持たぬ者は、庭の端に立ち、夜空を仰いでいた。

 星は少ない。

 雲が速く、月を隠している。

 胸の内が、落ち着かない。

 理由は分かっている。

 あの夜から、視線が変わった。

 向けられる数が増えたわけではない。

 だが質が、違う。

 ——測る目。

 剣の腕ではない。

 忠誠でもない。

 どこまで使えるか。

 どこで折れるか。

 そういう目だ。

 副長の視線は、とくに露骨だった。

 正面から見ることはない。

 だが、気配がある。

 名を持たぬ者は、無意識に背筋を正した。

 正す必要など、もうないはずなのに。

 (……駒だ)

 自分は、もう「試される存在」ではない。

 「消耗させる存在」になった。

 役に立つ限り、使われる。

 壊れた瞬間、切り捨てられる。

 ——それが、この組織だ。

 背後で、足音が止まった。

 振り返らなくても、分かる。

 あの隊士だ。

 夜の気配に溶け込むように立ち、距離を詰めすぎない。

 いつもと同じ。

 だが、その「同じ」が、今は支えだった。

「……呼ばれたか」

 低い声。

「いいえ」

 名を持たぬ者は答えた。

「まだです」

 「まだ」という言葉に、意味がある。

 呼ばれるのは、時間の問題だった。

 二人は並んで庭を見た。

 言葉は、それ以上要らない。

 詰所の中で、誰かが地図を広げる音がした。

 指で叩く音。

 短い指示。

 ——場所が、決まった。

 名を持たぬ者は、喉の奥が乾くのを感じた。

(池田屋)

 口に出されてはいない。

 だが、空気がそう告げている。

 尊攘派の集まり。

 武器。

 火薬。

 そして——斬り込み。

 あの夜、京都が血に染まることを、

 誰もが薄々知っていた。

「……行くなら」

 隊士が、短く言った。

 名を持たぬ者は、視線を向けない。

「正面だ」

 それは助言ではない。

 覚悟の確認だ。

 正面から行く者は、戻らないことが多い。

「……分かっています」

 声が、少し低くなった。

 自分でも分かる。

 今の返事は、前夜までのものとは違う。

 守られる側ではない。

 選ぶ側の声だ。

 隊士は、そこで初めて名を持たぬ者を見た。

 横顔。

 闇に溶ける輪郭。

 剣を持つ者の顔だ。

 女でも、男でもない。

 ただの——剣士。

「……無理をするな」

 それは命令ではない。

 願いに近い。

 名を持たぬ者は、わずかに口元を緩めた。

「無理は……します」

 それが、正直だった。

 この場所では、

 無理をしない者から死ぬ。

 その言葉を、隊士も知っている。

 だから彼は、それ以上何も言わなかった。

 詰所の戸が開き、名前が呼ばれる。

 複数だ。

 名を持たぬ者の位置も、含まれている。

「——来い」

 副長の声だった。

 室内に入ると、地図が広げられていた。

 池田屋。

 赤い印が、幾つも重なっている。

 副長は、淡々と指示を出す。

「今夜、踏み込む。

 相手は数十。

 逃がすな。

 斬れ」

 それだけ。

 捕縛ではない。

 説得でもない。

 斬れ。

 名を持たぬ者の胸が、静かに冷えていく。

 副長の視線が、こちらを向いた。

「お前は、先頭だ」

 理由は、言わない。

 言う必要もない。

 速い。

 止める。

 躊躇がない。

 ——使い潰すには、最適だ。

「はい」

 答えは短く。

 副長は、満足そうでも、不満そうでもない。

 ただ決めただけだ。

 会合はすぐに終わった。

 準備の時間は、ほとんどない。

 外に出ると、空気がさらに重くなっている。

 名を持たぬ者は、刀の柄に触れた。

(今夜、私は——)

 隠さない。

 逃げない。

 そして。

 ふと、思う。

 もし、自分がここで死ぬなら。

 ——この人の前で死ぬなら。

 その考えが、心を満たした。

 恐怖ではない。

 静かな納得だった。

 背後に、あの隊士が立つ。

「……戻ったら」

 彼は言いかけて、止めた。

 戻る前提が、甘い。

 名を持たぬ者は、ゆっくり振り返った。

「戻れたら……話しましょう」

 それが、精一杯だった。

 約束ではない。

 誓いでもない。

 ただの、可能性。

 だが、その可能性に、

 初めて命を賭けてもいいと思った。

 恋という言葉は、まだ遠い。

 だが選択は、すでに終わっている。

 副長の視線が、背中に刺さる。

 ——使い潰すつもりだ。

 それでいい。

 名を持たぬ者は、刀を確かめ、歩き出した。

 池田屋へ向かう夜。

 京都が、息を止める。

 そして、

 嘘で守ってきた関係は、

 命を賭ける選択へと変わった。

 もう、戻れない。

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