影が抜かれる夜
影が抜かれる夜
命令は、夜に下った。
それは壬生浪士組の常だった。
昼は規律を整える時間であり、
夜こそが、誠を試す時間だった。
名を持たぬ者が呼び出されたのは、消灯の鐘が鳴ってからしばらく経った頃だった。
廊下に立つ使いの隊士は、名も用件も告げない。
ただ一言、「来い」と言った。
部屋に残した灯りが、やけに遠く感じる。
連れて行かれたのは、宿舎の奥、普段は使われない詰所だった。
雨戸は閉められ、灯りは一つ。
空気は澱み、血の匂いがかすかに残っている。
そこにいたのは、副長だった。
机の前に立ち、腕を組み、名を持たぬ者を待っていた。
脇には、あの隊士が控えている。
逃げ道はない。
「座れ」
名を持たぬ者は、畳に正座した。
膝が床に触れた感覚が、やけに生々しい。
「聞きたいことがある」
副長は、淡々と切り出した。
「お前は、使える」
それは褒め言葉ではない。
生かすか、殺すかを決める前置きだ。
「だが、使いにくい」
名を持たぬ者は、黙って聞く。
「剣を抜かない。
踏み込まない。
命令を守るが、期待を裏切る」
副長は、一拍置いた。
「——そこで、試す」
そう言って、副長は一枚の紙を机に置いた。
簡素な地図。
赤い印が、一つ。
「今夜、この場所で、不穏な集まりがある」
名を持たぬ者は、視線を落としたまま聞く。
「賊か、浪士か、尊攘派かは分からん。
だが、放置すれば面倒になる」
副長の目が、鋭くなる。
「行って、潰せ」
短い命令だった。
潰せ。
捕縛ではない。
追い払えでもない。
潰せ。
「人数は?」
あの隊士が、低く問う。
「五、六。
腕は立つらしい」
副長は、名を持たぬ者を見る。
「二人で行け」
——踏み絵だ。
一人ではない。
だが、多くもない。
この任務で、
・臆病なら切られる
・目立ちすぎても切られる
・正体が露見すれば即死
生き残る道は、一つしかない。
「……承知しました」
名を持たぬ者は答えた。
声は、震えていなかった。
副長は、それを見て、ほんのわずかに口角を上げた。
「戻れなかった場合、
最初からいなかったことにする」
それが、壬生浪士組の慈悲だった。
詰所を出ると、夜の空気が冷たく肺に入る。
月は薄く、雲が速い。
二人は、言葉を交わさず歩いた。
町は眠っている。
だが、闇は起きている。
名を持たぬ者は、歩きながら、胸の奥で静かに整理を始めていた。
(隠すな)
今夜は、隠してはいけない。
剣を。
呼吸を。
——そして、正体を。
角を曲がった先、廃寺の影に、灯りが見えた。
人影が、確かに動いている。
二人は、自然に距離を取る。
あの隊士が、低く囁いた。
「……正面から行く」
名を持たぬ者は、頷いた。
選択肢はなかった。
奇襲は、剣を隠す者のやり方だ。
今夜は、違う。
踏み込んだ瞬間、男の怒号が飛んだ。
「誰だ!」
次の瞬間、刃が抜かれる音が重なる。
五人。
確かに、腕はある。
最初の一合で、名を持たぬ者は理解した。
(……甘い)
だが、甘さを突くには、隠す剣では足りない。
名を持たぬ者は、初めて、刀を深く抜いた。
月光が、刃を走る。
《影之剣》は、本来、見せる剣ではない。
だが今夜は違う。
斬る。
斬らなければ、終わる。
一人目。
正面から踏み込み、刃を合わせる。
速い。
だが、それ以上に——正確だ。
相手の剣が止まる前に、名を持たぬ者の刃が、肩口を裂いた。
深くはない。
だが、致命的に動きを奪う。
二人目が来る。
間合いが近い。
名を持たぬ者は、迷わない。
腰を落とし、体重を預け、一歩も退かずに斬り上げた。
その動きは、
男の剣ではなかった。
重さではなく、芯で斬る。
力ではなく、流れで斬る。
あの隊士は、その瞬間を見た。
(——ああ)
言葉にならない理解が、胸を貫く。
女だ。
疑いではない。
確信だった。
体の使い方。
刃の通し方。
そして何より——
恐れの位置が違う。
彼女は、
自分が斬られることを恐れていない。
斬り損ねることを恐れている。
それは、生きるための剣だ。
戦いは、短かった。
残った者たちは、逃げる間もなく地に伏した。
生きているかどうかは、どうでもよかった。
二人は、言葉なく立ち尽くす。
血の匂いが、夜に溶ける。
名を持たぬ者は、肩で息をしながら、刀を納めた。
今さら、隠す意味はない。
あの隊士は、彼女の横顔を見る。
月に照らされた頬。
汗に濡れた襟元。
そして、剣を持つ手。
すべてが、答えだった。
だが、彼は何も言わなかった。
言えば、終わる。
言わなくても、もう戻れない。
帰路、二人は並んで歩いた。
距離は、昼より近い。
宿舎が見えたとき、名を持たぬ者は、ふと立ち止まった。
「……今夜のこと」
声は、静かだった。
あの隊士は、答えない。
代わりに、短く首を振る。
見なかった。
聞かなかった。
それが、彼の選択だ。
名を持たぬ者は、それ以上、何も言わなかった。
言えば、感情になる。
感情は、ここでは死だ。
だが、心は、もう引き返せなかった。
(この人のために、剣を振るう)
はっきりと、そう思った。
それが愛かどうかは、どうでもよかった。
ただ——
この人が斬られるなら、
代わりに、自分が斬る。
それだけで、十分だった。
宿舎の闇に、二つの影が溶ける。
誠の旗の下、
嘘と秘密を抱えた剣士が、
歴史に名を残さぬまま、歩き始めた。
——仮面は、もう戻らない。




