嘘に刃を乗せる
嘘に刃を乗せる
壬生浪士組の空気が、明らかに変わったのは、その翌日だった。
朝の点呼が、短くなった。
命令が、簡潔になった。
そして何より、説明が消えた。
理由を告げない命令は、疑いの始まりを意味する。
名を持たぬ者は、隊列の中で背筋を伸ばしながら、その変化を肌で感じていた。
視線が、増えている。
露骨ではない。だが、確実に。
誰が見ているのかではない。
見られているという事実そのものが、刃だった。
「——前へ」
呼ばれた名はない。
呼ばれたのは、位置だ。
名を持たぬ者は、一歩前に出る。
その瞬間、庭の空気が張り詰めた。
正面に立つ男は、副長格の人物だった。
声を荒げることはない。
刀を抜くこともない。
だがこの男が問いを発するとき、すでに半分は結論が出ている。
副長は、名を持たぬ者を上から下まで見た。
視線は冷静で、感情を挟まない。
——測っている。
「最近、妙に目立つな」
それだけだった。
名を持たぬ者は、即座に答えなかった。
沈黙は、時に最良の防御になる。
だがここでは、沈黙は罪でもある。
「……任務を、こなしているだけです」
声は低く、抑えた。
余計な響きを含ませない。
副長は、頷きもしなかった。
ただ一歩、距離を詰める。
「町医者に診せたそうだな」
空気が、裂けた。
名を持たぬ者の胸の内で、何かが音を立てて崩れる。
来た。
ついに、来た。
「……はい」
否定はしない。
否定できるほど、材料は揃っていない。
「なぜだ」
「……古傷が、開きました」
副長の目が、ほんのわずかに細くなる。
「浪士は、怪我を医者に診せる前に、組に報告する」
それは掟だった。
掟であり、罠でもある。
報告すれば、身体を調べられる。
調べられれば、終わる。
「……次からは、従います」
副長は、名を持たぬ者の返答を遮るように言った。
「次はない」
庭が、静まり返る。
副長は振り返り、列の中を一瞥した。
その視線が、誰かを探している。
「お前」
呼ばれたのは、あの隊士だった。
気づいた男。
一歩、前に出る。
その背中は、微動だにしない。
「お前は、昨日の巡察に同行していたな」
「はい」
「この者の動きに、何か気づいたか」
問いは、単純だ。
だが答えは、どれも刃になる。
——黙れば、疑われる。
——正直に言えば、彼女は終わる。
——嘘をつけば、自分が終わる。
名を持たぬ者は、視線を伏せたまま、ただ立っていた。
ここで目を向ければ、縋る形になる。
縋りは、弱さだ。
隊士は、一瞬だけ呼吸を深くした。
「……気づきました」
庭の空気が、さらに冷える。
副長の口角が、ほんの僅かに上がった。
「ほう」
名を持たぬ者の指先が、かすかに震えた。
終わりだ、と心が告げる。
だが、隊士は続けた。
「剣の使い方が、慎重すぎる」
副長は黙って聞いている。
「斬るより、止める。
抜くより、崩す。
——臆病に見える」
嘘だ。
だが、成立する嘘だった。
臆病な剣は、ここでは疑われる。
だが異質よりは、まだ安全だ。
副長は腕を組み、しばらく考えるように黙った。
「……臆病か」
「はい。
命令に逆らわない代わりに、自分から踏み込まない」
名を持たぬ者は、息を殺した。
隊士は、自分の剣を腐すことで、彼女を守っている。
それがどれほど危険な行為か、理解しているはずだ。
臆病な剣は、粛清の対象になりやすい。
副長は、名を持たぬ者へ視線を戻す。
「そうか。
ならば使いどころを誤るな」
それだけだった。
命令でも、赦免でもない。
ただの、猶予。
「下がれ」
二人は、同時に一礼し、列へ戻った。
足が、重い。
だが倒れない。
点呼が終わり、隊は解散した。
だが解散は、自由を意味しない。
名を持たぬ者は、宿舎へ戻る途中、庭の端で足を止めた。
胸の内が、まだ収まらない。
あの嘘。
あの一言。
守られた。
守られたという事実が、剣より重い。
背後で、足音が止まる。
振り返らずとも、分かる。
「……さっきの」
声は低く、短い。
名を持たぬ者は、言葉を探さなかった。
探せば、溢れる。
「礼は、要らない」
隊士は先に言った。
「聞かれたから、答えただけだ」
それも、嘘だ。
だが、必要な嘘だった。
名を持たぬ者は、初めて、視線を向けた。
ほんの一瞬だけ。
隊士の目は、いつもと変わらない。
だがその奥に、覚悟が沈んでいる。
「……あなたは」
言いかけて、止める。
名前を呼ぶことも、問いを投げることも、できない。
できるのは、感じることだけだ。
——この人は、もう引き返せない。
自分を庇った瞬間から、
この男もまた、組織に背を向けた。
それが、恋だと気づくには、まだ早い。
だが、名を持たぬ者の胸の奥で、何かが確かに形を持ち始めていた。
(この人のためなら)
思考が、そこで止まる。
続きを考えるのが、怖かった。
この場所では、誰かのために剣を振るう者から死ぬ。
歴史が、そう証明している。
それでも。
名を持たぬ者は、夜の部屋で刀を抜き、月光に刃を晒した。
《影之剣》。
守るための剣。
斬らない剣。
だが今日、初めて思った。
——この剣は、
誰かを守るために、
誰かを斬る日が来るかもしれない。
その誰かが、
この人のためである可能性を、
否定できなくなっていた。
外では、また足音が消える。
処断の夜が、近づいている。
誠の旗の下、
嘘をついた二人は、
もう同じ側に立ってしまった。
逃げ場は、ない。




