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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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誠の刃

誠の刃


 壬生浪士組に、「掟」という言葉が染み込むのに、時間は要らなかった。

 最初は、ただの決まりごとだった。

 無断外出の禁止。

 私闘の禁止。

 上命への絶対服従。

 だがそれらは、日を追うごとに形を変えていく。

 破れば「注意」では済まなくなり、

 「詰問」となり、

 やがて「処断」という言葉が、当たり前のように使われ始めた。

 誠——。

 誰かが掲げたその二文字は、いつの間にか、剣よりも重いものになっていた。

 名を持たぬ者は、宿舎の廊下を歩きながら、背中に貼りつくような視線を感じていた。

 それは特定の誰かではない。

 組織そのものの目だ。

 夜の見回り。

 昼の稽古。

 市中の巡察。

 そのすべてが、試されている。

 誰が規律に従い、誰が逸脱するのか。

 誰が疑わしく、誰が切り捨てられるのか。

 名を持たぬ者は、常に列の端を選んだ。

 目立たず、遅れず、突出しない。

 だがそれは、刃の上を歩くことでもあった。

 突出しなければ「役立たず」と見なされる。

 目立てば「異物」と見なされる。

 異物は、いずれ排除される。

 ——その兆しは、突然やってきた。

 ある日の夕刻、隊士の一人が戻らなかった。

 名を呼ばれ、返事がなく、

 宿舎の名簿に朱が引かれる。

 理由は簡単だった。

 市中での勝手な私闘。

 浪士としての面目を汚した——そう記されていた。

 だが、誰もそれを信じてはいなかった。

 私闘は、ここでは珍しくない。

 むしろ、黙認されてきた。

 違ったのは、その隊士が、近頃「疑われていた」ことだ。

 動きが鈍った。

 酒に溺れた。

 不満を口にした。

 ——それだけで、十分だった。

 夜、宿舎の奥から、短い悲鳴が聞こえた。

 すぐに、何事もなかったかのように静まる。

 名を持たぬ者は、布団の中で目を閉じたまま、動かなかった。

 息の数を数え、心拍を抑える。

 耳は、開いたままだ。

 足音。

 木が擦れる音。

 そして、湿った何かを引きずる音。

 ——処断。

 それが現実の言葉になった夜だった。

 翌朝、誰もその話をしなかった。

 話さないことが、掟になった。

 名を持たぬ者は、顔色を変えずに稽古場へ向かう。

 剣を握る手が、わずかに冷たい。

 剣を振るう理由は、ただ一つだ。

(生き延びる)

 誠のためではない。

 組織のためでもない。

 ——自分の命のためだ。

 だが、その日、事件は起きた。

 市中巡察の最中、名を持たぬ者の班は、裏長屋の一角で足を止めた。

 聞き込みの相手は、若い町医者だった。

 医者は浪士を見るなり、顔を強張らせた。

 当然だ。壬生浪士組の評判は、すでに町に染み渡っている。

「……何のご用でしょう」

 名を持たぬ者は一歩下がり、班の隊士に任せる。

 自分は、聞く側でいい。

 話すほど、声が出るほど、危険は増す。

 だが医者の視線が、名を持たぬ者に引っかかった。

 じっと、首元を見ている。

 (……まずい)

 名を持たぬ者は、無意識に襟を押さえた。

 その動きが、逆に視線を呼ぶ。

 医者は一瞬、口を噤み、やがて意を決したように言った。

「……失礼ですが」

 班の隊士が睨みを利かせる。

「この方、先日、傷を診せに来られましたね」

 空気が、凍った。

 名を持たぬ者の背中を、冷たいものが走る。

「何を言っている」

「いえ……間違いでしたら、すみません」

 医者は慌てて頭を下げたが、もう遅い。

 診たという言葉が、ここに残ってしまった。

 班の隊士が、名を持たぬ者を見る。

 疑念が、形を持ち始めている。

「……怪我をしていたのか」

 名を持たぬ者は、短く答えた。

「転びました」

 声は、震えていない。

 だが、喉の奥が焼けるように痛い。

 医者は、それ以上何も言わなかった。

 だが、視線だけが、確かに違和感を拾っていた。

 巡察は、予定より早く切り上げられた。

 帰路、班の隊士たちは無言だった。

 無言は、考えている証だ。

 宿舎に戻ると、名を持たぬ者はすぐに部屋へ下がろうとした。

 だが、背後から低い声が落ちる。

「……待て」

 あの隊士だった。

 気づいた男。

 名を持たぬ者は立ち止まる。

 振り返らない。

 周囲に人はいない。

 それが、いちばん危険だった。

「今朝の件だ」

 言葉は短い。

 責める調子ではない。

 だが、逃げ道もない。

「医者に……診せたのか」

 名を持たぬ者は、間を置いた。

 ここで言葉を誤れば、終わる。

「……昔の話です」

「いつだ」

「……入隊前」

 沈黙。

 風が、庭の砂を擦る音がする。

 隊士は、名を持たぬ者の横顔を見た。

 目は伏せられ、睫毛が影を落としている。

 女だ——。

 その確信は、もう揺るがない。

 だが、隊士は踏み込まなかった。

「……怪我は、もういいのか」

 それだけだった。

 名を持たぬ者は、胸の奥で何かが崩れるのを感じた。

 問い詰められると思っていた。

 暴かれる覚悟も、していた。

 だが、この男は——選んだ。

 見なかったことにする、という選択を。

 その選択が、どれほど危険かを、彼は知っているはずだ。

 知っていて、なお。

「……問題ありません」

 それが精一杯の答えだった。

 隊士は、短く頷いた。

「そうか」

 それ以上、何も言わない。

 守るとも、誓わない。

 ただ、踏み込まない。

 それは、情ではない。

 情だと名付けた瞬間に、二人とも死ぬ。

 名を持たぬ者は、その距離に救われながら、同時に追い詰められていた。

(限界だ)

 隠しきれない。

 身体も、過去も、所作も。

 そして何より——

 この男の沈黙が、心を揺らす。

 揺れは、刃よりも危険だ。

 その夜、再び処断があった。

 今度は、逃げようとした者だった。

 掟を破り、組織から離れようとした。

 「誠を裏切った」

 その一言で、命は消えた。

 名を持たぬ者は、闇の中でその話を聞き、膝を抱えた。

 逃げても、死ぬ。

 残っても、死ぬ。

 では、どうすればいい。

 答えは、まだない。

 だが一つだけ、確かになったことがある。

 この組織は、

 剣が強い者ではなく、

 疑われない者だけが、生き残る。

 そして——

 疑われないためには、

 誰かに見なかったことにしてもらう必要がある。

 名を持たぬ者は、暗闇の中で目を閉じる。

 あの隊士の沈黙が、

 いつ刃に変わるかは分からない。

 だが今は——

 その沈黙だけが、命綱だった。

 恋と呼ぶには、あまりに冷たい。

 誓いと呼ぶには、あまりに脆い。

 それでも、二人は同じ秘密を抱えた。

 誠の旗の下で、

 互いの名を奪い合うように。

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