息の合わぬ影
息の合わぬ影
夜の壬生は、音が少ない。
遠くで犬が吠え、どこかの屋根で瓦がきしむ。風が一度抜けるたび、闇がかすかにざわめく。それ以外は、息を潜めたような静けさだった。
宿舎の廊下を歩く足音は、いつもより軽くなる。
誰かの部屋の前を通るとき、自然と呼吸も浅くなる。壁一枚隔てた向こうに、刃が眠っている。怒りも、恐れも、焦りも、すべてが刀の中で冷えている。
若い浪士——名を持たぬ者は、灯りを落とした部屋で膝を抱えた。
稽古で乱れた息は収まっている。だが胸の奥の鼓動だけが、まだ終わらない試合の続きを叩いていた。
昼間のざわめき。
宙を舞った木刀。
驚きと嘲りが入り混じった視線。
そして——一つだけ、異質な視線。
(見ていた)
見られていた、ではない。
見抜こうとしていた。
名を持たぬ者は、喉の奥の渇きを無視して息を整えた。ここでは水を飲む仕草さえ、油断になる。部屋の隅に置いた手拭いで首筋の汗をぬぐい、袖口を引き直す。男の身なりを、男の癖を、体に馴染ませるように。
男たちの中に紛れるのは、身体よりも先に、所作が試される。
歩幅。膝の抜き方。肩の力。視線の落としどころ。
それらが少しでも違うと感じ取る者は必ずいる。
昼間、彼だけは違った。
剣筋ではなく、呼吸を見ていた。
勝ち負けではなく、間を測っていた。
名を持たぬ者は、壁に背を預け、目を閉じた。
薄暗いまぶたの裏に、男の輪郭が浮かぶ。
歳の頃は二十代半ば。
体格は良いが、力で威圧するタイプではない。
騒がぬ。笑わぬ。輪の中心にも立たぬ。
だが、視線だけは鋭い。
(あれは、危うい)
危ういのは彼の剣ではなく、彼の目だ。
この場所では、目が生き残る。
目が、人を殺す。
——けれど。
名を持たぬ者は、そこで自分の思考が止まるのを感じた。
「恐怖」と呼ぶには熱が足りない。
「安心」と呼ぶには根拠がない。
ただ、妙に静かな感覚が、胸の内に残っている。
名を持たぬ者は立ち上がり、刀の柄に指を置いた。抜かない。抜かないことのほうが、今は重要だった。刀は抜けば誠実に光るが、光は秘密を照らす。
廊下の向こうで、誰かの足音が止まった。
息が止まる。
身体が硬くなる。
それでも耳だけが働く。
戸は開かれない。
足音は一拍遅れて、また歩き始め、遠ざかった。
名を持たぬ者は、ゆっくり息を吐く。
背中に冷たいものが伝っている。汗か、恐怖か、それともその混じったものか。
この場所では、眠りが浅いほど長く生きる。
そういう夜が続くのだろう。
――そして翌朝。
宿舎の庭に、薄い朝霧が降りていた。
木々の枝先に水滴が揺れ、地面の土は湿っている。隊士たちはすでに起きており、無言で身支度を整えていた。
名を持たぬ者は、隊列の端に立つ。
周囲の男たちが、時折こちらに目を向けるのを感じる。昨日の試合が尾を引いている。噂は、刀より早い。
しかし彼らの視線には、まだ決定的な刃がない。
ただ「使えるかもしれない」という期待と、「気に入らない」という嫉妬が交互に映るだけだ。
そのとき、霧の向こうから一人の隊士が歩いてきた。
昨日の目。
名を持たぬ者は視線を上げない。
だが気配だけで分かる。足音が静かすぎる。わざと消している。消す足は、相手の呼吸を奪う。
彼は列のすぐ外で立ち止まり、何も言わずにこちらを見た。
その沈黙だけで、名を持たぬ者の喉が乾く。
隊士は、ほんのわずか顎を引いた。礼にも見えるし、確認にも見える。
そのまま彼は、何事もなかったように列の向こうへ歩き去った。
名を持たぬ者は、指先が冷たくなるのを感じた。
言葉がないぶん、彼の視線は刃に近い。
やがて指揮役の声が響き、今日の任務が告げられた。
巡察。聞き込み。密偵まがいの探索。
壬生浪士組は、ただの浪士の集まりではなくなる。京都の闇に手を突っ込む役目を負い始めていた。
名を持たぬ者は班を割り当てられ、数名の隊士とともに市中へ出ることになった。
表の任務は「治安の保持」。実際は「恐れを形にすること」だ。
京の町に出ると、空気が変わる。
人の匂いが濃く、視線が多い。商人は袖の中で金を握り、芸妓は笑みの裏に身を隠す。武士は歩き方に誇りを含ませ、町人は誇りを隠す。
隊士たちは黙って歩いた。
声を出す必要がないほど、羽織が喋っていた。
名を持たぬ者は、羽織の重みを肩に感じながら、周囲の顔を見ないようにした。
顔を見ると、心が動く。
心が動くと、剣が鈍る。
剣が鈍ると、生き残れない。
角を曲がったとき、子どもが一人、石を蹴って遊んでいるのが見えた。
その子は浪士たちを見て、すぐに視線を逸らし、足早に路地へ消えた。
名を持たぬ者は、その背中を見送りながら、胸の内で短く呟いた。
(怖がられている)
恐れは、役目だ。
だが恐れられるほど、存在は歪む。
隊士の一人が小さく舌打ちし、道端の男に肩をぶつけた。
男は頭を下げる。理不尽への慣れが、町の底に沈んでいる。
名を持たぬ者は、足を止めなかった。
余計なことはしない。余計な感情は持たない。
そう決めたはずだった。
——しかし。
裏通りに差し掛かったとき、事件は起きた。
薄暗い路地から、二人の男が飛び出してきた。着流しの裾を乱し、目が据わっている。浪士に対する敵意が、隠す気もなく滲んでいた。
「壬生の犬が、何の用だ」
言葉は荒いが、声は震えていた。
恐れを怒りで包む者の声だ。
班の隊士が一歩前へ出ようとした瞬間、相手の男の片方が懐に手を入れた。刃物の気配。短刀だ。抜く前に間合いを詰められれば、血が出る。
名を持たぬ者の体が、先に動いていた。
——抜かない。
昨日から繰り返している誓いが、瞬間に破れるのを感じた。
だが刀を抜かなければ、こちらが斬られる。斬られれば、衣が裂ける。裂ければ、隠したものが露わになる。
名を持たぬ者は刀に手をかける代わりに、足を滑らせるように踏み込み、相手の肘を押した。
押しただけだ。
だが肘は人の武器であり、肘が崩れれば手首も崩れる。
短刀は抜けず、男の手から落ちた。
次の瞬間、班の隊士が男の胸倉を掴み、地面へ押し付けた。
名を持たぬ者は、その間合いから外れる。
呼吸は乱れていない。
乱れていないことが、恐ろしかった。
(いまの動きは——)
見られたくなかった。
だが路地の端に、もう一つの影があった。
昨日の目。
彼が、そこに立っていた。
班が違うはずなのに、まるで最初からこの路地を選んでいたかのように、霧の残る影に溶けている。
名を持たぬ者の背中が、僅かに硬くなる。
隊士は何も言わない。
ただ、短刀の落ちた位置と、名を持たぬ者の足運びを交互に見た。
——そして、視線が一瞬だけ、名を持たぬ者の襟元に触れた。
そこに答えがあるわけではない。
しかし彼は答えの在処を探している。
班の隊士が男たちを縛り上げ、乱暴に引き立てていく。
路地の空気が、ようやく動き始めた。
名を持たぬ者は、その流れに合わせて歩き出そうとした。
だが、背後から低い声が落ちる。
「……今の」
声は短い。
それだけで、距離が詰まった気がした。
名を持たぬ者は振り返らない。
振り返れば、顔色が出る。目が出る。心が出る。
返す言葉は一つしかない。
「……偶然です」
自分の声が、思ったより低く出た。
それがまた男らしさとして聞こえたのか、隊士はそれ以上言わなかった。
ただ、足音が一歩近づく。
名を持たぬ者は、皮膚の内側が冷えるのを感じた。
隊士は横を追い越さず、斜め後ろに立ったまま、静かに言う。
「……刀を抜かない癖がある」
名を持たぬ者の喉が詰まった。
癖。
それは、隠すべきものだ。剣の癖は、そのまま人生の癖になる。人生の癖は、正体へ繋がる。
名を持たぬ者は歩き続けながら、短く返した。
「抜けば騒ぎが大きくなる」
「……確かに」
それだけ。
会話は、それ以上伸びない。
だが沈黙のあいだ、隊士の視線は背中に残り続けた。
触れてはいない。近づきもしない。
ただ、そこにいるという圧だけが続く。
名を持たぬ者は、妙な感覚に襲われていた。
恐い。
けれど、この男は怖がらせようとしていない。
見抜く。
けれど、暴こうとしていない。
それがいちばん、不気味だった。
——ここから、少しだけ視点が移る。
路地の石畳を踏みながら、隊士は名を持たぬ者の背を見ていた。
背は低い。だが猫背ではない。肩が力まない。足が音を立てない。歩幅が一定だ。市中の雑音の中で、体の中心が揺れない。
(妙だ)
昨日、試合を見たときから思っていた。
剣の冴えよりも、躊躇のなさが異質だった。
力任せの浪士は多い。
技を誇る浪士もいる。
だが、あの剣は誇らない。
誇らない剣は、理由を隠している。
隊士は名を持たぬ者の所作を思い出す。
木刀を交える前、深く礼をしたときの手首の角度。
踏み込みの際に膝が外へ開かないこと。
体が前へ倒れないこと。
そして何より、相手に触れる瞬間の柔らかさ。
柔らかさは、弱さではない。
柔らかさは、剣の芯だ。
(……守るための剣)
守るために剣を振る者は、たいてい長生きしない。
守りたいものがある者は、必ずどこかで足を止める。
足を止めた者から死ぬ。
——それでも。
隊士は、名を持たぬ者の背に、奇妙な引力を感じていた。
仲間としての期待でもない。
敵としての警戒でもない。
確かめたいという衝動。
それは、剣客同士の興味に似ている。
だがもっと、危うい種類のものだった。
隊士は自分の胸の内を切り捨てるように思考を戻す。
壬生浪士組は、これから血の道を行く。個の感情は邪魔になる。
まして、他人の秘密に踏み込むなど、無用な刃を増やすだけだ。
だが、目が離れない。
目が勝手に追う。
名を持たぬ者が、捕縛した浪士たちに視線を向けないことにも気づいた。
憎しみがない。
軽蔑がない。
そして、正義もない。
代わりにあるのは、冷えた覚悟だけだ。
(あれは……)
隊士は一つの可能性に触れ、すぐに自分でそれを否定した。
馬鹿げている。
だが馬鹿げているほど、この世では真実に近い。
名を持たぬ者が、ほんのわずか襟元を押さえる仕草をした。
風が入り込んだのかもしれない。
汗が冷えたのかもしれない。
隊士の胸の奥で、確信に似たものが鳴った。
(——女、か)
思った瞬間、隊士は自分の内側に走った熱を恥じた。
それは驚きではない。
恐れでもない。
……興奮だ。
剣の世界に、そんなものを持ち込むな。
隊士は心の中で自分に命じ、呼吸を整えた。
名を持たぬ者がこちらを振り返りかけて、やめた。
振り返らないことで、相手は何もないと示している。
その強さは、硬さではなく、柔らかい壁だ。
隊士は、その壁を壊したいと思った。
同時に、壊せば二人とも終わるとも思った。
——その危うさが、胸に残った。
宿舎へ戻る道すがら、班は散り散りになった。
名を持たぬ者は一人になる瞬間を選び、すっと角を曲がる。
隊士は追わなかった。
追えば崩れる。
崩れれば死ぬ。
だから追わない。
追わないまま、ただ見送る。
それが今の距離だ。
夕刻、宿舎の庭では再び稽古が始まった。
木刀が打ち合う乾いた音が響く。
名を持たぬ者は、目立たぬよう列の端で相手を受けた。強すぎず、弱すぎず。勝ちに行かず、負けもしない。
だが隊士の目には、隠している部分が逆に浮き彫りになる。
(抜かない。斬らない。崩さない)
それは戦場の剣ではない。
だが、戦場で生き残る剣だ。
稽古が終わり、皆が散ったあと。
庭の端に残った影が、二つだけになった。
名を持たぬ者は、桶の水で手を洗い、袖で濡れた指を拭った。
その仕草が、ほんの一瞬だけ、男のものではない柔らかさを持つ。
隊士は、その瞬間を見てしまった。
声はかけなかった。
かけるべき言葉もない。
ただ、名を持たぬ者が立ち去る背に、短く頭を下げる。
礼ではない。
宣告でもない。
——知ったという合図だ。
名を持たぬ者の歩みが、ほんの僅かに揺れた。
止まらない。振り返らない。
だが、揺れた。
その揺れだけで、隊士の胸は静かに満たされた。
秘密を握った満足ではない。
同じ危険を分け合った者だけが持つ、奇妙な連帯感。
それは誠とは別の、しかし誠に似た形をしている。
闇が降りる。
壬生浪士組は、さらに規律を強めていく。
粛清の匂いも、遠くない。
その中で、この秘密は刃になる。
守れば刃。
暴けば刃。
抱え込んでも刃。
隊士は自分の掌を見た。
そこに血はない。
だが、もう一つの命の重みが乗っている気がした。
(——俺は、どうする)
答えは出ない。
答えが出ないまま、夜が深まる。
名を持たぬ者は部屋へ戻り、戸を閉め、背を預けた。
心臓が、またうるさく鳴っている。
怖いのは、暴かれることではない。
暴かれたあとに、あの目が何を選ぶのかだ。
そして、もっと怖いのは。
その目が、こちらを裁くのではなく、
こちらを守る可能性があることだった。
守られたら、終わる。
心が揺れたら、剣が揺れる。
剣が揺れたら、ここでは死ぬ。
名を持たぬ者は、灯りを落とし、闇に沈む。
——だが闇の中で、ふと、思ってしまう。
あの隊士の沈黙が、
なぜか、冷たくなかった、と。
秘密の夜が、二人のあいだに一枚、薄い布のように垂れた。
触れれば破れる。
離れれば凍える。
その布の上を、彼らは歩き始めていた。




