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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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19/25

斬らないという刃

斬らないという刃


 その命令は、夜明け前に届いた。

 副長から、名を持たぬ者へ。

 内容は、短い。

 ――「密偵として、一人で出ろ」

 場所の指定もある。

 京の外れ、川沿いの集落。

 尊攘派ではない。

 浪士でもない。

 ただの、商人と百姓が混ざる場所。

 名を持たぬ者は、

 その文字を見た瞬間、理解した。

(……これは)

(情報収集ではない)

(役割を与えるための任務だ)

 つまり、

 彼女を再び「剣士の位置」に戻すか、

 あるいは、

 完全に「駒」にするための踏み絵。

 あの隊士には、何も知らされていない。

 配置の都合で、

 彼は前線任務のままだ。

 副長は、

 意図的に二人を切り離した。

 名を持たぬ者は、

 一人で、詰所を出た。

 夜の空気は冷たく、

 町はまだ眠っている。

 人の声もない。

 剣の音もない。

 ——誰にも、見られていない。

 だが、

 その感覚こそが、

 最も恐ろしかった。

 見張りがいないのではない。

 見張る必要がない状況に置かれているだけだ。

 集落に着くと、

 川のそばに小さな家が一軒あった。

 副長の書付には、こうある。

 「この家の男を、監視せよ」

 「必要なら、処理せよ」

 処理。

 その二文字が、

 異様に重い。

 名を持たぬ者は、

 ゆっくりと家に近づいた。

 中から聞こえるのは、

 咳と、女の声。

 子供もいる。

 障子越しに見えたのは、

 刀を持たない男と、

 病気の妻、幼い子供。

 尊攘派でもない。

 浪士でもない。

 ただ、噂話をしただけの商人。

(……副長は)

(私に、

 何を選ぶかを見せたいのだ)

 この男を斬れば、

 彼女は再び「剣士」になる。

 斬らなければ、

 「役割を拒否した存在」になる。

 どちらを選んでも、

 副長の実験は成立する。

 名を持たぬ者は、

 家の前に立ったまま、

 しばらく動けなかった。

 剣を抜く理由はない。

 だが、戻る理由もない。

 彼女は、初めて、

 剣を持ちながら、

 斬る意味を完全に失った。

(……私は)

(この人たちを斬っても、

 何も取り戻せない)

(斬らなくても、

 副長には利用される)

 それでも。

 それでも、

 彼女の身体は、

 家に背を向けた。

 斬らない。

 それは、

 勇気ではない。

 優しさでもない。

 選択そのものを拒否するという行為だった。

 彼女は、

 何もせず、

 その場を離れた。

 詰所に戻る途中、

 あの隊士と鉢合わせた。

 彼は、

 彼女の顔を見た瞬間、

 すべてを察した。

「……任務、行ったな」

「はい」

「斬ったか」

 名を持たぬ者は、

 首を振った。

「……いいえ」

 その一言で、

 彼の表情が変わった。

 驚きではない。

 安堵でもない。

 覚悟の顔だった。

「副長は、

 それを想定してる」

 名を持たぬ者は、

 静かに頷く。

「だから、

 これで私は、

 剣士ではない存在になりました」

 あの隊士は、

 しばらく黙っていた。

 やがて、

 低く言う。

「……それでいい」

 名を持たぬ者は、

 少しだけ目を見開いた。

「それで?」

「剣を捨てたわけじゃない」

「だが、剣で生きる必要もなくなった」

「それは」

 一拍。

「俺たちが、

 選ばない側になったということだ」

 その言葉で、

 彼女は、はっきり理解した。

 副長の実験は、

 成功でも失敗でもない。

 拒否されたのだ。

 それは、

 最も予想されていなかった結果だった。

 副長は、

 斬るか、斬らないかを見ていた。

 だが彼女は、

 「その問い自体を無効化した」。

 詰所に戻ると、

 二人はすぐに呼び出された。

 副長の部屋。

 今回は、幹部が全員揃っている。

 空気が、

 露骨に重い。

「……報告は」

 副長が言う。

 名を持たぬ者は、

 正直に答えた。

「監視対象に、

 異常はありませんでした」

「処理は」

「していません」

 その瞬間、

 空気が一段、沈む。

 副長は、

 初めて、明確に不快そうな顔をした。

「……なぜだ」

 問いは、短い。

 名を持たぬ者は、

 はっきり言った。

「斬る理由が、

 私にはありませんでした」

 副長は、

 あの隊士を見る。

「お前は」

 あの隊士は、

 一歩前に出た。

「俺も、

 その判断を支持します」

 幹部の一人が、

 苛立った声を上げる。

「貴様ら……

 命令の意味を分かっているのか」

 副長は、

 その声を手で制した。

 そして、

 二人を見据えて言った。

「……なるほど」

 それは、これまでと違う響きだった。

「お前たちは、

 剣を捨てたわけでもない」

「逃げたわけでもない」

「だが」

 声が、低くなる。

「斬るという役割を、

 拒否した」

 名を持たぬ者は、

 初めて、副長の目に、

 わずかな揺らぎを見た。

 それは、怒りではない。

 失望でもない。

 計算の狂いだ。

「……面白い」

 副長は、

 そう言って笑った。

 だが、その笑みは、

 これまでで最も危険だった。

「お前たちは、

 斬らない剣になった」

「ならば」

「次は、

 斬らないことで誰かが死ぬ場面を、

 用意しよう」

 その宣告で、

 すべてが理解された。

 副長は、

 実験をやめない。

 むしろ、

 一段、深い領域に踏み込んだ。

 名を持たぬ者は、

 部屋を出ながら、

 静かに思った。

(……私は)

(剣で人を斬らなかった)

(だが、

 この選択のせいで、

 誰かが死ぬ未来が来る)

 それでも。

 それでも、

 彼女は、

 この選択を後悔しなかった。

 斬らないという行為は、

 逃げではない。

 世界に対する、最初の拒否だった。

 そして、

 あの隊士は、

 彼女の隣に立ちながら、

 はっきりと決意していた。

 次に誰かが死ぬなら、

 それは、

 彼女の代わりに自分が背負う。

 守るためでもない。

 正義のためでもない。

 ただ、

 一緒に選ばない側に立ち続けるために。

 ここで、

 剣を振るう物語から、

 「拒否する意志の物語」へと、

 完全に位相を変えた。

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