条件付きの生
条件付きの生
副長に再び呼ばれたのは、日が完全に落ちてからだった。
詰所の奥。
灯りは一つ。
昼間の検分よりも、さらに人目を避けた場所だ。
名を持たぬ者は、呼び出しの意味を理解していた。
処断ではない。
だが、許しでもない。
——条件の提示。
部屋に入ると、副長は一人で座っていた。
机の上には、書付も地図もない。
つまりこれは、公式な会合ではない。
「座れ」
名を持たぬ者は、静かに正座した。
脇腹の傷は、まだ熱を持っている。
副長は、しばらく彼女を見ていた。
剣を測る目ではない。
人を量る目だ。
「……お前は、池田屋で死ぬはずだった」
唐突な言葉。
「だが、生きた。
それだけで、十分すぎる理由になる」
名を持たぬ者は、黙って聞く。
「そして、お前を止めた隊士も、
本来なら罰を受ける立場だ」
副長は、そこで一拍置いた。
「だが、二人とも生きている」
それは事実であり、
同時に警告だった。
「理由は分かるな」
「……はい」
使えるからだ。
副長は、ゆっくりと言葉を続ける。
「お前は、刃として優秀だ。
だが同時に、危うい」
影之剣。
制御を誤れば、組織そのものを傷つける。
「だから、条件を付ける」
名を持たぬ者の背筋が、わずかに緊張する。
「これから先、
お前は単独行動を禁ずる」
予想通りだった。
「必ず、あの隊士と組め。
例外は認めん」
それは、監視であり、
同時に保護でもある。
「傷の管理も、俺の管轄だ。
勝手な治療、勝手な隠蔽は許さん」
副長は、目を細めた。
「——そして」
一番重要な条件が、来る。
「もし、
お前が組に害をなす存在になったと判断した場合」
副長の声は、低く、揺らがない。
「理由は問わん。
即刻、斬る」
名を持たぬ者は、息を吐いた。
恐怖は、なかった。
それは、すでに知っていた未来だ。
「……承知しました」
副長は、満足そうでも、不満そうでもない。
「よし」
それで、話は終わりだった。
名を持たぬ者は、頭を下げ、部屋を出る。
廊下に出た瞬間、
身体の力が、すっと抜けた。
——生き延びた。
だが、それは自由を意味しない。
部屋の外で、あの隊士が待っていた。
呼ばれていたのは、彼女だけではない。
「……条件付き、だな」
彼は、すでに理解している。
「はい」
二人は並んで歩き出す。
言葉は、少ない。
庭に出ると、夜風が冷たい。
星が、いくつか瞬いている。
名を持たぬ者は、ふと立ち止まった。
「……もし」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
「もし、私が剣を捨てたら」
彼は、足を止めた。
「……何だ」
「剣を捨てて、
ここを去ったら」
ありえない仮定。
だが、初めて考えた。
「あなたは……
助かりますか」
彼女の声は、静かだった。
それは、逃げたいという願いではない。
逃がしたいという思考だ。
彼は、しばらく黙っていた。
「……助からないな」
即答だった。
「お前が去れば、
疑念は残る。
俺も、いずれ処理される」
事実だ。
共犯は、片方だけでは成立しない。
名を持たぬ者は、目を伏せた。
剣を捨てる。
それは、自分だけの救いだ。
だが同時に、
この人を斬る選択でもある。
「……そうですね」
短く答えた。
夜の静けさが、二人を包む。
名を持たぬ者は、胸の奥で、何かがはっきりするのを感じた。
——剣を捨てる理由は、ある。
生きたい。
自由になりたい。
女として、名を持ちたい。
だが。
それ以上に、
剣を取る理由が、今は明確だった。
「私は……」
名を持たぬ者は、言葉を選ぶ。
「ここで剣を取ることしか、
自分を証明できません」
彼は、黙って聞く。
「剣を捨てたら、
私は、何者でもなくなる」
それは、悲観ではない。
受容だ。
「だから……
私は、剣を持ちます」
それは、忠義ではない。
恋でもない。
存在の選択だ。
彼女は、彼を見る。
「あなたがいる限り」
それだけ付け加えた。
彼は、深く息を吐いた。
「……なら、俺も剣を持つ」
対等な言葉。
守る者と守られる者ではない。
共に斬る者同士だ。
二人は、再び歩き出す。
新撰組の夜は、まだ終わらない。
血の匂いも、消えない。
だが、
名を持たぬ女剣士は、迷いを捨てた。
剣を捨てる可能性を知ったうえで、
それでも剣を取る理由を、選び取った。
——それは、
誰かに与えられた誠ではない。
自分で決めた、生き方だった。
条件付きの生。
条件付きの愛。
条件付きの未来。
それでも、彼女は歩く。
影のまま。
名を残さぬまま。
だが確かに、
歴史の中で剣を振るい続ける。




