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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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名を捨てる

第1章 仮面の剣


名を捨てる


 京の空は、低く沈んでいた。

 春を迎えたはずの都に、まだ冬の名残の冷気が漂っている。

 壬生村の外れ、土埃の立つ空き地で、数十人の浪士が整列していた。誰もが無言で、ただ前を向いている。足音、咳払い、衣擦れ——そうした小さな音さえ、この場では不必要なもののように思えた。

 列の中ほどに、一人の若い浪士が立っていた。

 年の頃は十八か、十九か。

 背は低く、肩幅も広くはない。だが腰は据わっており、無駄な動きが一切ない。羽織の下に隠した刀は、決して軽いものではないはずだが、まるで体の一部であるかのように馴染んでいた。

 名は、ない。

 少なくとも、ここでは。

 浪士組が解体され、新たに壬生浪士組が名を変えようとしている——そんな噂が広がる中、この場に集められた者たちは皆、同じ覚悟を胸に秘めていた。

 ここで生き残れるのは、剣を持つ者だけだ。

 若い浪士は、視線を伏せたまま、静かに息を整える。

 周囲の男たちの呼吸、体温、緊張が、波のように伝わってくる。

(——剣を、見せるな)

 胸の奥で、何度目かもわからぬ言葉を繰り返した。

 己の剣は、目立ってはならない。

 斬れすぎても、動きが違ってもいけない。

 ここで求められているのは、己ではない。

 求められているのは、「使える男」だ。

 前方に立つ指揮役の浪士が、低い声で言い放つ。

「これより、試合を行う。一人ずつ前に出ろ」

 ざわり、と空気が揺れた。

 若い浪士の喉が、わずかに鳴る。

 その音さえ、隣の男に聞かれたのではないかと不安になるほど、神経は研ぎ澄まされていた。

 順に名が呼ばれ、男たちが前に出ては、木刀を交えていく。

 乱暴な太刀筋、力任せの打ち込み、己を誇示するような雄叫び。

 若い浪士は、それらをただ、見ていた。

(違う……)

 剣は、振り下ろすものではない。

 ぶつけ合うものでもない。

 剣とは、本来——

「次」

 呼ばれた。

 一歩、前に出る。

 視線が集まる。

 好奇と疑念と、わずかな侮り。

 若い浪士は、深く礼をした。

 動きは簡素で、無駄がない。

 相対する相手は、年嵩の浪士だった。体格も良く、腕に自信があるのだろう。鼻で笑うような気配が伝わってくる。

「……名は?」

「……」

 一瞬、間があった。

「——ありません」

 場が、わずかに静まる。

 年嵩の浪士が眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。

 ここでは名など、どうでもいいのだ。

 合図。

 木刀が交わる。

 ——否。

 交わったように、見えただけだった。

 次の瞬間、年嵩の浪士の木刀は宙を舞い、地面に転がっていた。

 誰も、何が起きたのか理解できなかった。

 若い浪士は、すでに間合いを外し、元の位置に立っている。息は乱れていない。汗一つ浮かんでいない。

 ただ、視線だけが伏せられていた。

「……今のは」

 ざわめきが広がる。

 だが、その中で、一人だけ。

 若い浪士の足運びを、

 肩の沈みを、

 剣を振らぬ瞬間の間を、

 じっと見ていた者がいた。

 鋭くも、静かな視線。

 その男は、声を上げなかった。

 ただ、薄く目を細めただけだった。

(……妙だ)

 その剣は、力ではない。

 技でもない。

 ——守る剣だ。

 若い浪士は、何事もなかったかのように列へ戻る。

 心臓の音が、耳の奥で響いていた。

(危なかった)

 一歩でも踏み込みを誤れば、

 一瞬でも体重移動を見誤れば、

 女である剣が露見していた。

 夜、壬生の宿舎。

 若い浪士は、一人、灯りを落とした部屋で刀を抜いた。

 月光を受けて、刃が淡く光る。

 この剣は、《影之剣》。

 構えを見せず、斬撃を誇らず、

 相手の殺意だけを断つ剣。

 女であるがゆえに、

 正面からの剣を許されなかったがゆえに、

 生きるために磨き上げた、己だけの流派。

「……まだだ」

 呟きは、誰にも聞かれない。

 新撰組という名の渦は、これから本当の牙を剥く。

 規律、忠誠、誠。

 そして——血。

 その中で、自分は生き延びられるのか。

 ふと、昼間の視線が脳裏をよぎる。

 見られていた。

 確かに、あの男だけは。

 だが、不思議と恐怖はなかった。

 それよりも——

 胸の奥に、微かな違和感が残っていた。

 若い浪士は刀を納め、静かに目を閉じる。

 名を捨て、性を隠し、

 それでも剣を選んだ夜だった。

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