義兄と朝ご飯
伊織が熱を出した翌日になって、凛は伊織の部屋の前に立っていた。体調はどうだろうかとか、病院に行かなくていいのかとか、色々と聞きたいことがある。昨日の様子だとジンが十分に看病をするだろうとは思ったけれど、凛はなんとなく少しだけ早く起きて、身支度を整えて、そして扉の前でどうするべきか考えていた。普段の伊織たちならもうそろそろ起きるはずだ。扉をノックしたいけれど、体調がまだ優れないのなら無理に起こしたくはない。
しばらくの間そこでうろうろしていたら、突然茶色い扉からジンの顔だけがニュッと現れた。凛は思わずビクリと体を震わせる。こんなの、海外のホラー映画みたいだ。
「凛くん、おはよう」
「……伊織くんの体調は」
「今の所熱はないけど、一応今日は休ませるつもり」
「ふーん」
「伊織、昔から体が弱くてね。雨にも濡れたし、新しい生活で神経使ってただろうからさ」
それはつまり、凛が悪いということだろうか。伊織が気を使わなくても良いように凛が配慮してあげなかったから、だから伊織は体調を崩したと言いたいのかもしれない。それでいて彼が雨に濡れたのもほとんど凛のせいだった。凛が渋い顔をしてジンの顔を見ていたら、ジンは「まあ、君には関係ないけどね」と言った。
「……食事、運んでこようか」
凛が提案すると、ジンは眉毛をピクリと上げる。
「へえ、思ったより気が利くね」
「……うるさい」
「こら、君は随分と神様に失礼だね」
ジンはそう言うと顔を引っ込めて姿を消した。と思ったらガチャリと扉が開く。そこから現れたのはジンではなく、ぼんやりとした伊織だった。
「凛?おはよう」
「おはよう」
髪はボサボサで、昨日と同じスウェット姿だ。目もほとんど開いていない。
「体調は」
「割と元気」
「でも休むんだって?」
「いや、行くよ。熱は下がったし他はなんの症状もないから」
そう言った伊織の後ろから、ジンが改めて姿を現した。彼も昨日と同じ藍色のジャージ姿だけれど、伊織とは異なり、その姿はかなり様になっている。
「伊織は疲れてるんだよ。俺とお留守番」
「でも、今日はバイトもあるし」
「ああ、そっか」
「バイトに行きたいから、学校にも行かなくちゃ」
「それなら仕方ないね」
ジンはそう言うと部屋の奥に引っ込んで、次の瞬間には凛と同じ制服姿で現れた。
「ほら、シャワー浴びなきゃ。着替え持っておいで」
こくりと頷いた伊織が部屋に戻ったのと同時に扉がパタリと閉まる。と思ったら、そこから再びジンが現れた。今度はきちんと全身で出てきてくれたからホラー感はあまり感じない。
「商店街の煉瓦造りの喫茶店わかる?」
突然のジンの言葉に、凛は「なんとなくなら」と答えた。
「なら良かった」
「なんで?」
「そこが伊織のバイト先」
「……ふーん」
「今日は金曜日で忙しいだろうからさ、暇なら助けに来て」
「俺が?」
凛が思わず聞き返すと、ジンは当然のような顔をして「そう」と言った。
「あんたがいるじゃん」
「俺は接客できないから」
ジンと話してたら、伊織が制服の一式を持って部屋から出てきた。そして凛とジンを交互に見て、「仲良しになったんだ」と嬉しそうに笑った。
「なる訳ないでしょ。幽霊か神かもわからないやつと」
凛の言葉に、「それは懸命な判断だね」とジンがしみじみと言った。
三人で階段を降りて、一階へ向かう。伊織はシャワーを浴びに行ってジンもそれについて行ったから、凛は味噌汁の鍋を火にかけながら二人分のおかずを温めた。一人分でも問題はないだろうと思ったけれど、せっかくなら一緒に温めた方が効率が良い。それに、彼は病み上がりだからなるべく世話を焼くべきだと思ったし、これは一昨日凛を不良から助けてくれたお礼でもある。何かと言い訳をしながら食卓を整えたら、制服を身につけてリビングへやって来た伊織が目をキラキラと輝かせた。
「凛、用意してくれたの」
「別にたいしたことしてないけど」
「ありがとう。誰かに朝ご飯用意してもらうなんて、すごく久しぶり」
そう言ってウキウキと席についた伊織を見ると、なぜだか心が満たされる。ジンも定位置に座りながら、伊織の様子を見てゆるく口角を上げていた。今後、もし凛が早く起きられることがあれば、伊織の分の食事を整えるくらいはしてもいいかもしれない。だって、今すごく良い気分なのだ。作れはしないもののそう思っていたら、伊織が先に手を合わせた。それから箸を手に持つと、伊織の分の卵焼きを一つ凛の皿に置いた。なんのつもりかと伊織の顔を見ると、彼はやけにニコニコしている。
「嬉しかったから、一番好きなやつあげる」
なんだそれ、と思った。凛が好きなものではなくて、彼の好きなものをくれるのか。その卵焼きには彼なりの心がこもっている気がして、無性に照れくさくなった。
「ひよこの神様、くれるんだ」
凛が揶揄いを含めてそう言うと、ジンが不意に顔を背けて笑い出した。伊織は少し考えるような素振りを見せてからハッとして、それから唇を尖らせてむくれてみせる。
「一昨日は無視したくせに」
そう言われて思い出す。一昨日、つまりは伊織が凛を助けようとしてくれた日だ。あの日の朝はまだ伊織のこともよくわからなかったし、隣にいるジンにはもっと警戒していたから、突然とぼけたことを言う伊織に素直に笑えなかったのだ。だから思わず聞かなかったふりをしてしまった。今更ながら申し訳なくて凛がなんて言い訳をしようかと考えている間に、伊織はすでに機嫌を直して味噌汁に口をつけていた。
「今日も美味しいよ。凛も早く食べな」
「なんか、切り替えるの早いね」
「それが伊織のいいところだから」
ジンの言葉を聞きながら伊織に促されて、凛も味噌汁のお椀を持って口をつけた。
「あ、本当に美味しい」
というか、いつもよりもちゃんと味がする気がする。思わず伊織とジンを交互に見やると、伊織は焼き魚をほぐすのに苦戦していて、ジンはそんな伊織を見守っていた。なんだか小さく感じた感動を分かち合いたかったような、見られていなくて安心するような、なんともいえない気分だ。まあいいかと思いながらもう一口味噌汁を吸っていたら、ジンがチラリと凛に視線を向けてきた。
「いつもより味噌汁が美味しいって顔してるね」
いつもより美味しいだなんて言っていないはずだ。もしかして、無意識のうちに口にしてしまっただろうか。凛が内心焦っていたら、伊織がジンの言葉を聞きつけてパアッと目を輝かせた。
「やっぱり美味しいよね!味噌が変わったのかな」
伊織の言葉に、自然とジンと目が合った。一緒に楽しく食べると美味しいんだよとか、その辺のセリフを恥ずかしげもなく言いそうなのに、案外リアリストだ。
「卵焼きも食べてみて!絶対に卵が変わった」
伊織があまりにも勧めてくるから、自分が食べたい順序を諦めて伊織がくれた卵焼きを箸で掴んだ。口に入れるとふわりと甘い。確かにいつもよりも美味しい気がして、でも多分卵は変わってないだろうなと凛は思った。
「ね、どう?」
でも、伊織はどう考えても同意を期待しているように見える。
「……卵、変わったかもね」
どうしても本心が言えずに、全く思っていないことを絞り出した。こんなの凛らしくない。でも、凛の言葉に伊織は更に目を輝かせたのだ。これで本当に良かったのか。凛にはわからないけれど、ジンが凛の心中を察するかのように頷いたから少し救われた気がしたのだった。