守り神vs義弟
凛には最近、義兄ができた。名前は松下伊織。でも、四月に同じ姓になったから、今は如月伊織だ。大きな目が印象的で、明るくて、優しくて、気遣い屋で、今日知ったけれど非常に頑固者。凛はそんな伊織のことが案外嫌いではなかった。昨日は他校生に絡まれているところを助けようとしてくれたから、きっと信頼できる男なのだとも思う。ところが、彼に近づきたいかと言われたら、それは絶対に嫌だった。なぜなら伊織の隣には、常にピッタリと張り付く幽霊がいたのである。いや、もしかしたら幽霊よりもずっと強い何かかもしれない。なぜなら、常日頃凛に見えている他の幽霊より、ずっとはっきりと見えるのだ。強い力も感じる。
スウェット姿の伊織を抱え上げて、凛は彼を睨みつけた。伊織がぎゅっとしがみついてくる。でも気にしていられない。いくら力の強い幽霊だからって、一緒にベッドに入るだなんて色ボケ幽霊にも程があるだろう。凛に好意を抱く女の幽霊でさえ、布団に入ってきたことはなかった。こんな幽霊が凛の家にいることが許せないのだ。相手を睨みながらどうしようかと考えていたら、向こうから先に「やっぱりね」と言った。
「君は俺のことがずっと見えていたんだね」
彼はそう言いながら、ベッドの中で肘を立ててそこに頭を乗せた。まるで人間と同じように話せることに驚くのと同時に、みるからに余裕そうな彼がどれほど強い力を持った幽霊なのかと気が遠くなる。凛には除霊術は使えない。たまに助けを求めて寄ってくる困った幽霊は、叱って、諭して、天に昇るように促すのみだ。眉間に力を入れて睨みつけるように相手を見据えていたら、顔の下からふと視線を感じた。一瞬だけチラリと視線を向けると、伊織が凛のことをじっと見上げている。上気した顔は辛そうだ。できることなら早く寝かせてあげたいけれど、その前にこの緊急事態を切り抜けなければならない。ところがそんな凛の心中とは反対に、伊織はポヤポヤしたままゆっくりと口を開いた。
「その顔でジンのことは見ないで」
「え?」
「凛、ジンのことが視えるの?」
「ジンって、それはあの幽霊の名前?」
「幽霊じゃなくて、俺の守り神」
守り神、と口の中で呟く。彼が幽霊にしても神にしても、伊織にも彼が視えていたことに驚いた。ということは、伊織は自ら一緒にベッドに入っていたということか。凛は幼少期から今まで色々なモノを視てきたけれど、これほど親密になって一人の人間だけを守る存在も、守られる存在も、見たことがなかった。改めてジンとやらを睨みつける。
「お前、どうして伊織くんに憑いてる」
「伊織は俺の恩人だからね」
「恩人?」
「この俺とずっと一緒にいてくれるんだ」
ジンはそう言うと、やっと布団から起き出して立ち上がり、凛にゆっくりと近づいてきた。伊織を連れて逃げるべきなのに、凛の体は石になったように動かない。ジンはそんな凛の手から伊織をしっかり受け取ると、彼を優しくベッドに寝かせた。
「伊織、おやすみ」
ジンが声をかけると、伊織はスウッと瞼を閉じて眠りについてしまう。特殊な力を目の当たりにして、もしかしたら本当に神なのかもしれないと恐ろしくなった。そんな凛を振り返って、ジンはガバリと強引に肩を組んできた。その腕をどけてやりたいのに、指の一本も自由にならない。
「伊織が起きちゃうからね。凛くんの部屋に行こう」
絶対に嫌なのに、気づいたら凛はジンと自室へ向かっていて、彼をふかふかのソファへと座らせていた。やっと体が自由になると、急いでジンから距離をとる。
「そんな怯えなくて大丈夫だよ。伊織に危害を加えないなら、どうもしないから」
「つまりは、お前次第でどうにでもできるってことでしょ」
「君は賢いね。でも、俺は品のないことは好きじゃないの」
そう言うと、ジンは長い足を組んで余裕そうに凛を見据えた。
「君、伊織のことわりと好きでしょ」
「は?」
「まだ、嫌いじゃないってところかな」
「何が言いたい」
「君はきっと伊織を好きになるよ。でも、伊織は結構手強いと思う」
「好きになるって、あの人は俺の義兄だよ」
「まあまあ。だから、困ったら俺を頼っていいよ」
じゃあね、と言って、ジンは一瞬にして姿を消した。きっと伊織の元へと行ったのだろうとすぐに判断して、急いでもう一度廊下へ出る。ずっと視えていないふりをして我慢していたけれど、あんなおかしな存在がこの家にいるなんて勘弁だ。凛は半ば憤りながら伊織の部屋のドアノブに手をかけた。しかし、扉どころかドアノブすらピクリとも動かない。ジンの力によるものだろうとすぐに理解して、苛立ったままに盛大にノックしようと手を振り翳した。でもその寸前で考え直して、静かに手を下ろした。伊織が起きてしまうのでは申し訳ないと思ったのだ。
だから大人しく廊下の突き当たりの階段を降りて、キッチンで料理をしていた家政婦に伊織の体調不良を伝えるにとどめた。きっと家政婦は熱のある人間にちょうど良い食事を作ってくれるだろう。
家に家族がいることにはまだ慣れない。しかもその家族が体調不良だなんて、もしかしたら物心がついてから初めての経験かもしれなかった。唯一の家族である父親は凛にまるで興味がなく、家にはほとんど帰らない人だったのだ。凛にとって、家はどこよりも静かな場所だった。それなのに、今は静けさが無性に寂しい。そう感じた自分に驚いて、凛は行き場のない感情に小さく舌打ちをするのだった。