熱が出た日には
伊意識がふわりと浮上する。家とは異なる天井に、そういえば保健室にいるのだと思い出した。あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。
(ジン)
心の中で声をかけたのに返事がないということは、退屈をしてどこかへ遊びにでも行ったのかもしれない。寂しいけれど、ずっとそばにいてもらうのでは申し訳なかったから少し安心した。校内には生徒たちの賑わいを感じる。休み時間か放課後にでもなったのだろうか。体調が悪い時の一人は心細い。落ち込む気持ちのままに、ゆっくりと瞬きを繰り返していた、その時だった。
「起きた?」
まさか近くから声がするとは思わなくて、伊織は心底驚いた。体が元気なら、きっと飛び上がるくらいはしていただろう。慌てて声のする足元の方を見ると、凛が椅子に座りながら伊織を見ていた。
「……凛」
「そう、俺。大丈夫?」
「うん。全然、大丈夫」
そう答えながらゆっくりと起き上がる。本当はまだ大丈夫ではないけれど、義理とはいえ兄なのに凛に面倒をかけるわけにはいかない。そんなに急に兄貴にはなれないし、もしかしたら伊織自身兄という柄ではないのかもしれないけれど、これは親しくない凛への配慮なのだ。ところがそんな伊織に対して、凛はスッと目を細めた。
「嘘つき」
「え?」
「いいから、帰るよ」
そう言って凛は椅子から立ち上がると、伊織の元まで近づき体を支えてくれる。それから断る間もなく荷物入れの中のブレザーを着させてくれて、伊織の分の荷物まで持ってくれた。
「荷物くらい、自分で持てるよ」
「病人は黙って言うことを聞く」
「でも」
「立てる?」
凛に支えられながら上履きを履いて立ち上がると、体がふらりと倒れそうになった。凛のおかげで倒れずに済んだものの、思わず見上げると彼も驚いた顔をしていた。
「なんか雲の上にいるみたい」
足元がふわふわで、それが少し面白い。凛はその言葉に呆れたように苦笑した。そんな顔も様になるのだからずるいと思う。
「タクシー呼ぼうか」
「タクシーなんて、もったいないから大丈夫」
「でも立ってるのも辛いでしょ」
「雲の上って感じだから、むしろちょっと良い感じ」
「嘘つかないよ」
あ、その言い方は少しジンみたいだ。伊織が無理をしようとすると、いつでもこうやって咎めてくる。彼はどこで遊んでいるのだろう。(ジン、俺はそろそろ帰るよ)と伊織が心の中で言ってみると、(気をつけてね)と聞こえた気がした。
「伊織くん」
凛に名前を呼ばれてハッとする。彼に名前を呼ばれるのは、これで二回目だなと思った。
「うん。帰ろう」
「待って、やっぱりタクシー呼ぶから」
凛は伊織を改めてベッドに座らせると、スクールバッグからスマートフォンを取り出して操作し始めた。随分と手慣れている様子だ。凛にとってみたらタクシーを呼ぶことくらい珍しくないのだろう。伊織の金銭感覚では到底真似できない。
「俺は歩いて帰れる」
伊織がもう一度タクシーを断ろうとすると、凛はスマートフォンの画面から目を離さないまま「無理。悪化するよ」と言った。
「だって俺、お金ないもん」
正直な伊織の言葉に、凛は目を見開いて伊織を見てきた。本当は少しならあるけれど、未来のためにとっておきたいから使いたくない。伊織は高校を卒業したら凛の家に世話になるつもりは毛頭なかった。だから、タクシーだなんて贅沢はできないのだ。
「別に俺が払うつもりでいるけど、親からお金もらってないの?」
「うん。俺が働けるようになってからは、そういう習慣はない親子だから」
「じゃあどうやって生活してるの」
「今は家賃も払ってないし、ご飯は食べさせてもらえてるから。他はバイト代でなんとか」
伊織がそう説明すると、凛は顔を顰めて「なるほどね」と言った。それから手に持っていたスマートフォンの画面を伊織に向けて「あと五分でタクシー来るよ」と説明してくれた。
「本当に来ちゃうの?」
「大丈夫だって、俺が生活費のカードから払うから」
「じゃあ凛だけ乗んな」
「それじゃあ意味わからないでしょ」
凛は付け加えるように、「見かけによらず頑固だね」と言った。
凛に支えられながら校門まで向かうと、ちょうどタクシーが到着したところだった。自動で開いた扉にびっくりして戸惑ったものの、凛が促してくれたおかげで無事に乗りこむことができた。ゆっくりと進み始めたタクシーに、伊織は興味津々だった。タクシーってバスみたいな匂いがするなとか、思ったよりも運転手は喋らないんだなとか、お金はどうやって払うのかなとか、怠いくせにたくさん考えた。そうしたらすぐに家まで到着して、凛は礼を言いながらタクシーから降りていってしまった。それから腰をかがめてまだ降りない伊織を伺い見る。
「ほら、早く」
「凛、お金は?」
「アプリ決済だから」
凛の言う意味がわからなかったけれど、一応「そっか」と言って、伊織も礼を言いながらタクシーから降り立った。
無駄に広い庭を通って玄関まで歩き、それから家に入ると階段をゆっくりのぼって、凛は伊織を部屋の前まで連れて行ってくれた。少し散らかっているから部屋に入られたらどうしようと思ったけれど、凛は「じゃあ、ゆっくり」と言って、隣にある自室に入って行った。そのことに安堵しながら、伊織は自室のドアを開けた。部屋に入った瞬間、少しの違和感。なんとなく綺麗になっている気がする。不思議に思いながら脱いだブレザーをハンガーにかけていたら、背後に慣れ親しんだ気配を感じた。
「伊織、おかえり」
安心するその声に振り返る。そこには、すでに制服姿から部屋着に着替えたジンが立っていた。その部屋着はいつだか一緒に買い物に行った時に、店頭に飾られていた高価なジャージだ。深い藍色がジンに似合いそうだと伊織が言ったその日から、ジンの部屋着になったのだ。もちろん買ったわけではなく、ジンが勝手に着ているだけである。
「ただいま。どこ行ってたの」
「伊織のそばにいたら凛くんが来たからさ」
「うん」
「この部屋まで送ってくれるとしたら汚すぎて申し訳ないと思って。一応片付けておいた」
ああ、やっぱりそうだったのか。でも、綺麗になっているなとは思ったけれど、元々そんなに汚かっただろうか。伊織が首を傾げていたらジンにはわかってしまうらしく、「すごく汚かったよ」と報告してくれた。
「片付けてくれてありがとう」
伊織が素直にお礼を言うと、ジンは一つ頷いて「さっさと寝よう」と伸びをした。
部屋に備え付けられている水道で手を洗って、制服から今朝脱いだスエットにダラダラと着替える。また洗濯に出すのを忘れていたそれは、こういう時には少し便利だ。
「ジンも一緒に」
「そのつもり」
ジンは先にベッドへ入ると、掛け布団を開いて伊織に「おいで」と言った。だから伊織は大人しくベッドに上がり込み、ジンの隣にころんと寝転ぶ。
「人間のままなんだ」
伊織がなんとなく尋ねると、ジンは「人の温もりの方が良いかなと思って」と言った。
「狼みたいな時も温かくていい感じだよ」
「あの姿はさ、布団に入ったら俺が暑いから」
そんなものなのかと思いながら伊織はジンに擦り寄る。伊織はどちらの姿でもジンのことが好きだから、結局はなんだっていいのだ。すうっと息を吸い込むと、ジンからはお日様の香りがした。雑貨屋のコロンコーナーで伊織がいい香りだと言った柑橘系の香りの時もあるけれど、今は暖かいこの香りが嬉しい。髪を梳かれて、体を優しく叩かれる。本当に気持ちがいいから今度ジンにもしてあげようと思うのに、いつもジンが先にしてくれて伊織は眠ってしまうのだ。我ながら情けない。でも、いつまでもこうして甘えていたい気もする。呼吸を整えて、ゆっくりと目を瞑った。そのまま眠るのだろうと思った。
コンコンと扉をノックする音。その音にゆっくりと目を開けてから振り返る。伊織は小さく「はい」と声を出した。もしかして、家政婦だろうか。凛が伊織の体調不良を伝えてくれたのかもしれない。そう考えていたらガチャリと扉が開いた。そこには、先ほど別れたばかりの凛が立っていた。
「……凛?」
伊織が声をかけると、凛は部屋へ入ってきて右手のスポーツドリンクを伊織に見せた。と思ったら、いきなり両眉と目をつり上げる。
「お前、何やってる」
お前って、もしかして伊織のことだろうか。今日二回も名前を呼んでくれたのに、お前だなんて随分だ。ところが、凛はペットボトルを取り落とし、ずんずんとベッドに近づいてきたと思ったら、勢いよく布団を剥ぎ取られた。そしてすごい力で伊織の左腕を引っ張ると、そのまま伊織を抱え上げる。急に離れた地面が怖くてたまらない。伊織は思わず凛の首元にぎゅっとしがみついた。