アルバイト中の出来事
伊織のアルバイト先である喫茶店は、赤茶色の煉瓦でできた外壁が特徴的だった。店内を照らすライトはステンドグラスのランプシェードで覆われていて、大きな窓からは商店街の様子がよく見える。常連客は成人から年配者が多く、大人の隠れ家といったところだ。伊織はアルバイトの身分でありながら、木でできた正面の入り口から出勤することを許されていた。裏口から入ると泥棒だと思うからやめろと店主である叔父から言われているだけだけれど、伊織自身も裏に回るのは面倒だから助かっている。今日も帰りのホームルームの後、伊織はジンと共に真っ先にこの喫茶店までやってきた。逸る気持ちをおさえて扉を優しく開けると、いつものようにカランコロンと音がする。そろそろ夕方という時間にも関わらず、店内はほとんど満席のようだった。
「伊織ちゃん、こんにちは」
店中から同じように声をかけられて、伊織は笑顔で「こんにちは!いらっしゃい」と挨拶を返した。穏やかなこの空間は、いつでも伊織を優しく包み込んでくれる気がする。今の伊織にとっては唯一の居場所と言っても過言ではなかった。伊織の声は店の奥の厨房にも聞こえたらしく、すぐに大柄の店主がのそのそと顔を出した。
「伊織、やっと来たか」
「どうかした?」
「お使い頼めるか?卵と牛乳。二つずつ」
「卵と牛乳、二つずつ」
「そして安いやつ」
「安いやつ」
伊織が復唱すると、店主は頷きながら千円札を渡してきた。この物価高の時代に千円かと不安には思うけれど、きちんと店と商品を選べば足りるだろう。ついこの前までは少ないアルバイトでの稼ぎをやりくりして生きていたから、その頃に培った節約魂が湧き上がる。
五月晴れの外はきっと歩けば暑くなるだろうと、ブレザーをスクールバッグと一緒に店の奥に置きに行った。それから「いってきます」と、入ってきたばかりの扉から音を立てて外へ出た。
商店街は今日も穏やかな活気に包まれている。気温もポカポカとしていて、外出日和とも言えるだろう。すれ違う顔見知りの大人たちに挨拶をしていたら、ジンが伊織の肩に手を置いてきた。
(伊織)
(ジン、どうかした?)
伊織が足を止めると、ジンも止まって横から顔を覗き込んでくる。
(俺がどこのスーパーが一番安いか見てこようか)
ジンの提案は、いつでも伊織のことを考えて、寄り添ってくれる内容だ。いつだって助けられたばかりだなと思う。だから伊織もジンを助けたいのに、強くて完璧な彼相手ではそれはなかなか実現しなかった。でも確かに、ジンが神業の速さでスーパーを一軒ずつ確認してくれたら一番効率が良いかもしれない。
(……良いの?)
(良いよ。じゃあ伊織はトマトのマークのスーパー担当ね)
トマトのマークのスーパーは、伊織とジンが幼い頃から行きつけにしている中規模のスーパーだった。それでいて、ここから一番近いスーパーでもある。
(わかった、ありがとう)
(気をつけるんだよ、伊織)
(うん。ジンもね)
伊織がそう答えると、ジンは瞬く間に狼のような姿になり、風のように走り去っていった。きっと伊織がトマトのマークのスーパーで牛乳を見ている間に、ジンは思いつく限りの店で値段を比較してくれるだろう。そして伊織のいる場所へ真っ直ぐに駆けつけてくれるはずだ。ジンにはいつも助けられてばかりだ。給料日になったらケーキでもご馳走しよう。
そう考えながらトマトのマークを目指して歩いてたら、少し先にある本屋の前がやけに騒がしいことに気がついた。よくみると、学ランを着た男たちが大きな声をあげている。本屋の前を通り過ぎないとスーパーへは行けないのだ。少し考えて、伊織は他の通行人と同じく、彼らを刺激しないように遠巻きに通り過ぎることにした。
ところが、学ランの奥に青い制服が見えた気がして、伊織は思わず足を止めた。よくよく状況を観察してみると、伊織と同じ高校の男子生徒一人を相手に、学ランの男たちが集団で文句をつけているようなのだ。「調子に乗るな」「てめえ、どの面下げて」などといった言葉がしきりに聞こえてくる。あれはもしかしてカツアゲだろうか。伊織がカツアゲされている訳ではないのに、心臓がバクバクしてきた。助けた方が良いのだろうかと考えて、すぐに当たり前だと自分に言い聞かせる。あの中央にいる男子生徒は伊織以上に心臓をバクバクさせて困っているに違いないのだ。伊織にできることがあるならば行動すべきだし、気づいてしまった以上は見なかったふりをするわけにもいかない。ひとまず声だけでもかけてみようと、伊織は震える息を細く吐き出して、ゆっくりと集団に近づいた。
「あ、あのう」
思った以上に小さな声しか出なかった。でも幸か不幸か、彼らにはしっかりと聞こえたらしい。学ランの男たちは一斉にグルンと伊織を振り返った。眉間に皺を寄せて、一同に顰められた顔。中央にいる大柄な男が一際厳つくて恐ろしい。
「なんだてめえ」
「あの、えっと」
喧嘩腰の大柄な男相手に、どうかしたんですか、と言おうとした。それなのに、伊織は囲まれている学生を見た瞬間、うっかり次の言葉を忘れてしまったのだった。
「……凛?」
学ラン男たちの奥にいたのは、伊織の義弟である凛に違いなかった。凛は伊織を見て目を少し見開いた後、なぜだか面倒そうに溜息をついた。
「お前、こいつと知り合いか」
学ラン男たちの一人が凛に尋ねると、凛は少しも迷わずに「知りません」と答えた。ムッとなったのは反射だった。普段の生活から見ても、凛は伊織のことが好きではないことくらいわかる。でも、他人のふりまですることはないではないか。何か文句を言ってやろうと思った。それなのに、いきなりドンと背を押されたと思ったら、次の瞬間には伊織まで男たちに囲まれていた。隣合わせになった凛がもう一度溜息をつく。そんな凛に、一番大柄な男がグッと顔を近づけた。
「お前は俺の機嫌を損ねたんだからな。お前もそいつも、どうなっても知らねえよ」
伊織は心の中で叫びたくなった。機嫌を損ねたって、一体何をしたのだろう。今から殴られるのだろうか。伊織は完全におまけで、殴られ損にもほどがある。そう思った、まさにその瞬間のことだった。
「ヴッ」
唸るような声と一緒に、男が顔を押さえて沈み込んだ。凛が鼻を目掛けて頭突きをしたのだとわかったのは、凛に左手を繋がれたのとほぼ同時のことだった。
「行こう」
凛が男たちを押し除けて、伊織の手を引いて走り出す。伊織は足を縺れさせながらも一生懸命についていった。日が傾きかけている商店街を、走って走って、走り続ける。人の波を駆け抜けて、追っ手の声が聞こえなくなるまで必死だった。最終的に商店街の外れにある公園へ辿り着いた時には、伊織の膝はガクガクとおかしくなっていた。呼吸も信じられないほどに苦しい。凛は酸欠でフラフラな伊織を隅にあるベンチに座らせると、意外なことに伊織の背を摩ってくれた。それから伊織の目の前にゆっくりとしゃがみ込む。まだ息が苦しい伊織に対して、凛は随分と余裕そうだ。
「さっきの、何」
何かと言われたら、確かに何をしているのか。不良みたいな男に声をかけて、囲まれて、必死で逃げただけだ。凛を助けようと思ったのに、むしろ助けられてしまったみたいだ。
「あんな奴らに話しかけたら危ないでしょ」
そうだ、そんな危険を冒してまで助けようとしたのに、結局伊織は役立たずだったのだ。伊織は少し俯いて、静かに落ち込んだ。情けなくて、反論する気にもなれない。ところが、「でも」という声に凛をチラリと見上げと、目の前の彼はふわりと笑顔を浮かべてこう言った。
「でも、ありがとう」
その笑顔がどんな花よりも美しくて、思わず眩しいなと伊織は目を細めた。それからこくりと頷く。ああ、もしかしたら頑張って良かったのかもしれない。伊織が嬉しくなって小さく笑顔を向けると、凛は少し恥ずかしそうに頬の辺りを掻きながら立ち上がった。
「あいつらに見つからないように帰ろう」
凛に再び頷こうとしたところで、伊織は大事なことを思い出した。そういえば今、紛れもなくアルバイトの最中なのだ。ベンチから立ち上がって頭を抱える。ジンはどうしただろうか。トマトのマークのスーパーで伊織を探しているかもしれない。大変だ、どうしよう。心の中でジンに謝る。
ただ、危険な目に遭った義弟を放ってアルバイトに戻ることが本当に正しいのだろうか。少し考えて、やはり凛を家まで送るべきだと伊織は判断した。
「凛、一緒に帰ろう。でも、走るぞ」
伊織の一連の動作を不思議そうに見ていた凛は、「なんで?」と尋ねてきた。
「俺がバイト中だから」
「ならバイトに戻っていいよ。俺は一人で帰れる」
「そういう訳にはいかないよ。いいから、ほら」
伊織が手を差し出すと、しゃがんだままの凛は目を丸くして、なかなか手をとらない。そんなに伊織と帰りたくないのだろうか。なんだか悲しくなりつつも伊織が手を引っ込めようとすると、凛は少し笑いながらその手を掴んで立ち上がった。
「雲行きも怪しいし、俺が連れて行ってあげる」
その言葉にふと空を見ると、確かにいつの間にか厚くて黒い雲に覆われている。すぐに雨が降りそうだなと思った時には、伊織は手をグンと引かれて走り出すことになっていたのだった。