凛の祈り
昨日は散々だったな、と凛は思う。それでも今日こうやって元気に起きられたのは、伊織の心を確かめられたからだ。伊織はなんと、嫉妬していたらしい。あの鈍い伊織が嫉妬に気づいたことが、凛には奇跡に思えた。可愛くて可愛くて、食べちゃいたいくらい可愛い。でも、伊織がスイーツだったら、凛はきっと可愛すぎて食べられないだろう。そんなことを考えながら、凛は隣でローファーを履く伊織を見下ろした。
「大丈夫?」
「うん。お待たせ」
無事にローファーを履いた伊織と一緒に玄関を出る。庭を通って門まで向かうと、そこにはいつもの通り赤城が待っていた。
「赤城くん、おはよう」
伊織がそう言うと、赤城も「おはよ」と返した。赤城は昨日伊織に失恋したわけだけれど、想像より随分と余裕そうだ。そんな赤城が伊織の胸の辺りに何かを押し付けた。目を凝らしてみると、それは冷たそうな缶のオレンジジュースだった。
「まだ冷たい」
「さっき買ったから」
「これはなんのお礼?」
「ナポリタンが美味かったから」
赤城はそれだけ言うと、踵を返して去っていった。凛は伊織とその背中を見守りながら、胸がムカムカとしてきた。伊織の作るナポリタンは凛の大好物だ。その大事なナポリタンを赤城も食べたのだと思うと気に食わない。ところが、隣で缶をスクールバッグにしまった伊織が凛の手をさりげなく握ってきたから、凛はすぐにどうでも良くなったのだ。
「凛、今日は一緒にアルバイトだ」
「そうだね」
「アルバイト代は何に使うか決めてるの?」
「内緒」
「内緒なの?」
「うん。伊織くんには言わないよ」
凛がわざとそう言うと、伊織は唇を尖らせて「なんでだよ」と小さく言った。可愛くて可哀想だけれど、伊織には内緒なのだ。
来週の木曜日は伊織の誕生日だ。ある時ジンからこっそり教えてもらった。その日はテスト期間で学校が早く終わるから、放課後に初めてのデートをしようと目論んでいる。今までたくさんの時間を一緒に過ごしてきたけれど、本格的にデートをしたことはなかった。だから、きっと上手く誘って、楽しませて、プレゼントを渡すのだ。伊織と繋いだ手をブンブンと振ると、伊織は機嫌を直して楽しそうに笑った。
そろそろ学校が近くなってきて、学生の姿がポツポツと目立ってきた。でも、凛は絶対に手を離すもんかと思った。凛だって、できる限り伊織と手を繋いでいたいのだ。ところが、確かに繋いでいたはずの手を、伊織がいきなり振り払った。
「伊織くん?」
驚きながら隣の伊織を振り返ると、その瞬間に口に触れた柔らかい感触。状況を整理した時には、少し離れたところにいる伊織がイタズラに笑顔を見せた。
「凛、また放課後」
そしてそのまま凛を置いて、走って行ってしまう。いつの間にか、伊織の隣をジンが走っている。朝から姿が見えないから天界で仕事かと思ったけれど、もしかしたら凛と伊織の様子を伺っていたのかもしれない。ジンに気がついた伊織が何か言って、ジンがそれに言葉を返して、戯れあって走っていく様子に、心から羨ましいなと思った。
「凛」
突然名前を呼ばれて振り返ると、そこには西田たちの姿があった。体育祭の一件以降、彼らとはつかず離れずの距離感で関わっている。
「凛、最近彼女ができたって本当?」
宮川に尋ねられて、少し考えてから凛は頷いた。彼女というより、彼氏というか、つまりは大事な恋人だ。凛の反応に彼らは騒ついて、「誰」と口々に聞いてくる。
「教えるわけない」
伊織を酷い目に遭わせた彼らに教えるわけないじゃないか。凛が前を向いて歩き出そうとすると、彼らのうちの誰かが「あの時は、ごめん」と言った。きちんとした謝罪は初めてで驚いたけれど、凛は足を止めなかった。
空を見上げると、薄い水色が広がっていて、今日も良い天気になりそうだ。好きな人がいるというのは、生活が彩るなと思った。何も持たずまるで灰色だった凛の人生は、伊織のおかげで明るく鮮やかに彩った。今日も伊織のことが好きで、伊織が可愛くて仕方がない。そんな伊織の笑顔を守るために、凛は伊織をずっと好きでいると神に誓うのだった。




