伊織の長い1日
暦は今日から七月。伊織の日常は六月のあの日から少し変わった。凛と両思いになっただけでなく、ジンが天界の仕事に時々駆り出されることになったのである。きっと優秀なジンという存在に、天が気づいてしまったのだろう。そう思うと、伊織は非常に誇らしくて、すごく悲しかった。だって、十年前からジンはずっと伊織と一緒にいてくれていたのだ。ジンのことは伊織が一番よく知っているから嬉しい反面、ジンが離れていくようで心が辛い。そんなジンはというと、今日も朝から天に昇るらしく、今は朝食を食べる伊織の周りを忙しそうに動き回っていた。
「伊織、忘れ物はないね」
「うん」
「今日は夕方まで帰らないから、ちゃんと授業聞くこと」
「はい」
「ホームルームも気を抜かないんだよ」
「わかってるよ」
全く、心配性だなと思いつつ、伊織自身もかなり不安だった。伊織はジンに助けられてばかりだから、自分の能力に不安しかないのだ。きっと伊織という人間は色々と不足していて、ジンなしでは常人のように生きられない。伊織がホッケの切り身を食べながら深刻に考えていたら、ジンは伊織の目の前にいる凛の隣に現れて、彼の顔を覗き込んだ。
「凛くん、いいね」
「はい」
「伊織のこと頼むからね」
「わかってる」
「凛くんも、色んなことに気をつけること」
「はい」
ジンはそこまで言ってやっと安心したのか、「じゃあ、また夕方に」と言って一瞬のうちに姿を消した。伊織はこの瞬間がいつも苦手だった。本当に行ってしまったと、心が沈むのだ。寂しくて、心許ない。
ホッケの身をちびちび食べていたら、「伊織くん」と凛から名前を呼ばれた。
「うん?」
「悲しいの」
「うん、ちょっとね」
本当はたくさん悲しいけれど気にさせないように取り繕った。すると、凛は眉尻を下げて伊織の顔を覗き込んでくる。相変わらず、どんな表情でも綺麗だ。
「伊織くんには、俺がいるからね」
「うん」
「俺はいつでも伊織くんのことが大好きだから」
「うん、ありがとう」
「伊織くんは?」
一瞬言葉に詰まる。だって、凛と気持ちが確かに通じてから、気持ちを言葉にするのが本当に恥ずかしいのだ。なんでこんなに恥ずかしいのかよくわからないけれど、気合を入れないと上手く言葉にできない。
「……知ってるだろ」
「知ってるけど、ちゃんと言ってごらん」
「……凛と一緒だよ」
伊織にはそれが精一杯で、照れ隠しに白米を大きく口に放り込んだ。口をパンパンにしたら、ほら、もう言えないだろう。凛の顔をチラリとみると、彼は少し残念そうに卵焼きを食べている。本当にこれでよかったのだろうか。いつも上手く言えなくて、結局後悔するのだ。だから、伊織は自分の卵焼きを凛の皿に一つ置いた。大好きだから、大好きなものをあげたくなるのだ。この気持ちが、凛に伝わるだろうか。恥ずかしくて凛のことを見られずにいたら、しばらくして伊織の皿に大きなホッケの身が置かれた。
「俺、ホッケ好きだからあげるね」
チラリと凛を見上げると、彼は満足そうな顔をして微笑んでいる。だから伊織も無性に嬉しくなって、思わず顔がニヤけてしまうのだった。
朝食を食べ終えて、準備を整えて、玄関先で凛と一緒にローファーを履く。玄関を開けようと伸ばした手を、凛に遮られた。どうしたのだろうと見上げると、凛はいたずらを思いついたような顔をして、すかさず伊織の額にキスを落とした。思わず両手で額を覆う。突然こんなことをされると、嬉しくて、恥ずかしくて、ドキドキして、心臓が痛くなるのだ。朝から何をするんだと文句を言おうとした唇をさっと塞がれる。柔らかく湿った感覚に顔が熱くなって、それを見られたくなくて凛の胸に顔面を押し付けた。
「最悪」
「なんで、俺は嬉しいよ」
「俺とキスしたいなんて、凛って変なやつ」
「変でも良いよ。伊織くんとキスできるならね」
頭ごとギュッと抱きしめられると、幸せで心がじんわりと温かくなる。ああ、今日も大好きだなと思った。
伊織の顔が落ち着いたところで玄関を出て門まで向かうと、そこには赤城が待っていた。日に日に暑くなってきたこの数週間にもかかわらず、飽きずに毎日やってくるのだ。凛が開けてくれた門を出て、赤城へ軽く手を振る。晴れた空の下に立っていると、不良も爽やかに見えるから不思議だ。
「赤城くん、おはよう」
赤城は小さな声で「おう」と言った。
「如月伊織」
「毎朝なんだよ」
「今日は熱ないか」
「ないよ、赤城くんもお腹痛くないんだね」
伊織が尋ねると、赤城は毎朝決まって「うるせえ」と言って去っていく。伊織はそれが面白くて、毎朝こっそりこの交流を楽しみにしているのだ。彼は素直ではないけれど、伊織の体調を気にしてくれる可愛いところがある。今日もこのやりとりに満足していたら、隣の凛が「ふん」と言った。
「凛?」
「伊織くんって、あいつのこと好きだね」
「まあ、嫌いじゃないよ。可愛いから」
「可愛い!?俺には言ってくれないのに」
そう言ってぷんぷん怒りながら凛は先に行ってしまう。凛は思いが通じてからというものの、正直に言うと結構面倒くさい。でもその面倒なところが可愛くて、伊織はそんな凛が好きだった。仕方がないから急いで追いかけて、隣に並んで下から顔を覗き込む。目は合わないけれど、きっと彼は待っているのだ。
「でもね、凛が一番可愛いよ」
伊織がそう言うと、凛は慌てたように伊織を見下ろした。
「ちょっと早すぎ。ちゃんと目を見て言って」
「見てなかった凛が悪いよ」
「伊織くん」
「知らないもん」
突然足を止めた凛に腕を引かれた。思わず彼の顔を見上げると、伊織を上目遣いに見つめている。
「ね、お願い」
美しい顔で懇願されると、伊織は弱いのだ。そのことに、きっと凛は半分くらい気づいている。
「わかったよ」
「うん」
「……凛が、一番可愛い」
少し押し黙ってから、小さな声でそう伝えた。すると、凛はパッと表情を明るくして、満面の笑みを浮かべて見せた。それから伊織の右手を掬い取って、ブンブン振りながら歩き始める。
「ちょっと凛、みんなに見られるよ」
「みんな見たらいいよ。俺は伊織くんが好きなんだ」
「ダメだって、凛」
その手を振り払うこともできず、ただ着いていくことしかできない。内心どうしようと焦っていたら、生徒が増えてきたところで凛は伊織の手をパッと離した。心からホッとして、でも少し寂しく思うのだから、恋心は複雑だ。
「凛くーん」
突然、凛を呼ぶ女の子の声が聞こえてきた。校門の方から駆けてくる彼女は、凛の友達だろうか。綺麗なふにゃふにゃの長い髪の毛がふわふわと跳ねる。スラリと高い背に、はっきりとした顔立ちをしていて、伊織が知らないだけできっと学内でも目立つ存在なのだろう。伊織は一瞬で、負けたなと思った。
「じゃあ、伊織くん。また後で」
女の子を見ているうちに、凛に別れを告げられてしまった。てっきり靴箱のところまで一緒に行くものだと思っていから、拍子抜けしてしまう。
「凛くん、おはよう」
「おはよう」
「お兄さんも、おはようございます」
「お、おはよう」
話したことのない女の子から話しかけられるのは少し苦手だ。伊織だって本来は女の子に告白されたり、告白したりする未来を思い浮かべていたわけだけれど、多分今のまま行けばそれは叶わない人生だろう。まあ、良いけど、と思う。それに対して、凛に関してはきっとこれからもたくさん告白をされるのだ。それを考えると、羨ましいのか、そうじゃないのかわからないけれど、伊織の胸はチクチクと痛んだ。
「兄貴のことはいいから」
凛は彼女にそんなことを言いながら、さっさと歩いて行ってしまう。待って欲しいけれど、待ってもらう意味はないから、伊織は立ち尽くすしかできなかった。
しばらくそのまま凛と女の子の後ろ姿を眺めていたら、後ろから「伊織先輩」と声をかけられた。振り返ると、春川が心配そうな顔をして佇んでいる。
「どうかしました?」
「あ、いや」
春川とは年の異なる友人として仲良くしていた。彼は伊織が告白を断っても、そして凛と恋仲になったと報告しても、余計なことは何も言わなかった。
「僕が先輩の一番の友達になりますね」
そう言って笑った彼は、春の風のように綺麗だなと思った。そんな綺麗な彼がこんな顔をするのは初めてで、伊織は自分の悲惨な顔面を想像して慌てて取り繕う。
「なんでもないよ」
「本当に?」
「うん」
「僕に嘘はダメですよ」
「本当だって」
「……本当は、恋煩いでしょ」
春川が伊織の瞳を覗き込みながらそう言ったことに、伊織は思わず考え込んで首を傾げた。
靴箱のところで春川と別れてからも考えた。恋煩い、恋煩い。恋煩いってなんだろうか。おもむろにスマートフォンで調べると「恋の病」と出てきて、少し鳥肌がたった。この伊織が恋の病だなんて、百年早いと思わずにはいられない。でも、一応恋をしているんだよなあと、思わず白い天井を見上げた。
教室で午前の授業を受けながら、屋上で春川と昼食をとりながら、さらに午後の体育の授業を受けながら、ずっと考えた。考えすぎて頭にサッカーボールが当たったけれど、気にならないくらい考え続けた。そしてホームルーム前の掃除の時間も考え続けながら、ゴミ捨て係を引き受けた。今日はジンがいないから、ゴミ袋の重さがダイレクトに伝わってくる。それでも負けじとゴミ収集場所まで運んでいると、正面の方から一人の女の子が近づいてきた。あの綺麗な髪は、と思い出す。間違いなく、今朝凛に話しかけていた女の子だった。思わず目を逸らして、黙々とゴミを運んでいる風を装う。ところが彼女はまっすぐに伊織のところまで近づいてくると、「ねえ、凛くんのお兄さん」と話しかけてきた。
「……はい?」
立ち止まり、チラリと彼女の顔を見てから返事をすると、彼女は「私は藤原美奈子」と自己紹介してきた。「藤原さん」と伊織が言ってみると、彼女は「美奈子でいいですよ」と答えた。彼女が伊織に何の用だろうか。もしかして、凛にラブレターを渡して欲しいとか、と思いつく。伊織が如月姓になってからというものの、そういった依頼が後を絶たなかった。基本的には断るようにしていたけれど、最近渡し逃げされた時ことがあって、凛に手紙を持って行ってみたら彼はひどく傷ついた顔をしていた。あんな顔は見たくなくて、伊織はすでに断る気で彼女を見据えた。
「悪いけど」
「お兄さん、私と付き合いませんか」
「……へ?」
思いがけない展開に、伊織はポカリと口を開けた。
「私はお兄さんより、もちろん凛くんが好だけど、この際お兄さんでも良いかなって思って」
「はい?」
「だって凛くん、好きな人がいるって絶対に靡かないんだもん」
「はあ」
「だから、お兄さんで良いかなって。近くにいたら、そのうちに凛くんも私の魅力に気がつくかなって」
わお、と伊織は心の中で呟いた。今日寝る前に絶対にジンに話そう。こんな失礼な話、人生でもそう巡り合わないだろう。伊織にも、凛にも失礼だ。
「悪いけど、断るよ」
「なんで?」
「君はとっても酷いことを言ってるよ。せっかく魅力的なのにもったいない」
少なくともはっきりした顔立ちは素敵だから伊織がそう伝えると、彼女は目を見開いて固まった。
「もう二度と、弟にも俺にも近づかないで」
そう言って、伊織はヨイショとゴミ袋運びを再開させる。まったく、人が重いものを持っているのに話しかけるなんてどうかしている。伊織がなんとかゴミを収集場所へ運んで校舎へ戻ろうとすると、先ほどと同じ場所で彼女が仁王立ちして立っていた。まだ伊織に何か用だろうか。伊織が黙って横を通り過ぎようとすると、すかさず腕を掴まれた。
「もしかして、お兄さんが凛くんの好きな人?」
思わず言葉を失ってしまった。凛が義兄のことが好きなのだとバレたら、凛の立場はどうなるのだろう。義兄と恋仲になった変わり者として見られるようになるのではないだろうか。そんなの、絶対に嫌だった。
「違うと思うよ」
伊織がなんとか言葉を絞り出すと、彼女は目を細めて伊織を睨みつけた。
「やっぱりそうよ。優しくて可愛くて、すごく素敵な人って言ってたもの」
「えっと」
「お兄さん、聞いて。お兄さんは悪い人だわ。凛くんに憧れる子はたくさんいるの」
「はい」
「私みたいに可愛い女の子が、凛くんと付き合いたいと思っているのよ」
「はあ」
「それを邪魔するの?」
「え……っと」
「つまりね、凛くんだって、きっと女の子が好きよ。それなのに、お兄さんのせいで血迷ってるんだわ。可哀想」
「可哀想?」
「可哀想に決まってるわ。可愛い女の子には、誰も勝てないはずなのよ」
彼女はそう言って、伊織の目の前へズイッと歩み寄った。
「凛くんを解放してあげないと。それが凛くんの幸せよ」
凛の幸せ、と伊織は口の中で呟いた。伊織は勝手に、凛の幸せは伊織といることなのだと思い込んでいた。きっと凛は伊織のことを好きでいてくれて、伊織が大好きな凛とジンといられて幸せなように、凛だって同じ気持ちだと思っていた。でも実際、凛に幸せか聞いたことはなかったなかもしれない。
「伊織くん?」
いつの間にか、美奈子の向こうに凛が立っていた。先ほどまでの伊織と同じように大きなゴミ袋を持った凛は、伊織と美奈子を交互に見て眉を顰めた。
「藤原、何やってんの」
「お兄さんと話してた」
「は?暇なら一緒に持って」
美奈子は嬉しそうに凛とゴミ袋を持つと、伊織にウィンクをして凛と一緒に去っていった。なんだか朝も思ったけれど、伊織は負けた気分だ。そもそもあんなに綺麗な女の子に伊織が勝てるはずない。それは誰に言われなくてもわかっている。
彼女の言っていたことは多少無茶苦茶だけれど、大体は正しいと思った。凛は伊織を可愛いと言ってくれるけれど、本当は女の子の方が可愛いに決まっている。それに、伊織はふと思い出した。凛は朝、伊織と校門まで行ってくれなかったのだ。だいぶ手前で繋いでいた手を離して、「じゃあね」と伊織に言った。あれはきっと、伊織と一緒にいるところを周囲に見られたくなかったということだ。凛には平凡な義兄ではなくて、可愛い女の子と幸せになる未来があるのかもしれない。そのことに気がついた瞬間に、心がズンと重くなった。果たして、凛の幸せとは何だろうか。
少し考えてから、そうだと思い出した。伊織は元々、高校を卒業したら如月家に世話になるつもりはなかったのだ。凛と楽しく過ごしていてうっかり忘れていたけれど、今までコツコツと貯めた金で学校へ行くなり、働くなり、ジンと旅に出るなりするつもりだった。
「そっか、そうだったな」
伊織は小さな声で呟いた。あまりにも幸せで、忘れていた。思い出したら、急に世の中にひとりぼっちの気分になってしまう。こんな時に限って、ジンはいない。伊織は水色に晴れた空を見上げてみた。今日は日差しが暑くて、汗が滲むほどだ。
(ジン、俺は馬鹿だったよ)
ジンからは何も返ってこない。でも伊織は構わず続ける。
(俺にジンがいてくれるから生きていられるのに、すっかり普通の人のふりをしてたんだ)
眩しい空を見ているのは辛くて、俯きながら今度は細かい砂利の地面を見つめる。
(親にもまともに愛されてないのに、恋なんて浅はかだったのかな)
勝手に思ったことに無性に泣きたくなって、伊織はぎゅっと目を瞑った。後ろの方から男女の話し声が聞こえる。恐らく凛と美奈子の声だろう。彼らに見つかる前に逃げなければいけないと必死になって、伊織は俯きながら校舎へ向けて思い切り走ったのだった。
教室へ戻り、ホームルームをぼんやりと過ごして、伊織はやっとの思いで帰路についた。帰路といっても、向かう先はアルバイト先である喫茶店だ。暑い日差しの中、トボトボと商店街を歩いていたら、目の前に黒い何かが立ちはだかった。気づかないままに少し柔らかいそれに顔面からぶつかって、慌てて後ずさる。大きな障害物を見上げると、そこには険しい顔をした赤城が立っていた。
「如月伊織」
「……うん。こんにちは」
「前見て歩け。危ないから」
「うん、わかった。……じゃあね」
伊織が赤城を避けて通り過ぎると、彼は伊織の隣を勝手についてくる。
「学校で何かあったのか」
「いや。学校というより、家庭で」
「じゃあ、如月凛と何かあったのか」
「何もないけどさ。凛は女の子にモテて、俺はモテないんだ」
「そんなのわかりきったことだろ」
「そうだよ。でもね、俺はモテないことを悔やんでいるんじゃないんだ」
「じゃあ、どうした」
「……モテる凛が、俺に気を遣って女の子と付き合わないんじゃないかって思ってる」
本当は少し違うけれど、赤城には凛と恋仲であることは言っていないからわざとそう言った。まあ、だいたいはあっているだろう。言葉にすると辛くて、俯き気味に歩き続ける。すると突然、赤城は伊織の腕を強く掴んできた。伊織は反動のままに立ち止まって、赤城を見上げる。
「如月凛は、お前が好きなんじゃないの」
まさかバレているとは思わなくて、伊織は思わず息を呑んだ。案外聡い子なのだろうか。でも、バレているならと、半ばやけになってしまう。
「そう、そうかもしれないけど。でも少しだけ、凛の幸せってなんだろうって思ったんだ」
言葉にすると余計にそう思う。凛が一番幸せになるために、伊織はどうするべきだろうか。可愛くて優しい凛には、たくさん幸せになる機会があるのに、それを伊織が奪っているのではないだろうか。そうぼんやりと考えていたら、赤城が伊織の顔を覗き込んだ。
「お前、不安なの」
「不安、っていうか、なんだろうな」
「不安なら、お前、俺のものになるか」
「……え?」
「如月凛がお前を不安にさせてるなら、別れたらいい」
「いや、俺が勝手に不安になってるだけで」
伊織が言い訳をしている間に、「ほら」と赤城は伊織の左手を掬い取った。大きくて意外にも温かな手は伊織を優しく包んでいる。口をポカンと開けて彼を見上げていたら、「よし、行くぞ」と言って赤城は伊織の手を引っ張った。
そのまま喫茶店へ辿り着くと、彼は勝手にカウンター席に座りこんだ。彼がこの店に来るのは初めてだ。なんだかドギマギしてしまって、遠く離れた席での接客中も赤城のことが気になって仕方がない。テーブル席の客から注文を取ってカウンターに戻ると、赤城は伊織のことを見上げていた。伊織が口を尖らせながら「なんだよ」と言うと、彼は「変な顔」と笑った。笑うと思いの外柔らかい雰囲気になる。ちょっと可愛いかもしれないと思いながら、慌ててその考えを打ち消した。
テーブル客の注文を片付ける前に、クリームソーダを作る。メロンソーダにアイスクリームをのせて、最後にさくらんぼを飾った。我ながら上手にできたそれを、伊織は赤城の前に差し出した。
「なんだよ」
「ご馳走してやるよ」
「こんなの、飲まないよ」
「可愛いだろ。赤城くんに飲んでほしくて作ったんだから」
伊織がそう言うと、赤城は険しい顔をしながら渋々ストローに口をつける。そのことに伊織は多少満足する。
「美味しいだろ。凛も好きなんだ」
「ふん」
アイスクリームをスプーンで突いている様子に笑ってから、伊織は仕事を捌いていった。今入った注文は、カレーが二つと、ハンバーグ定食、それから人数分のコーヒーを食後に。ハンバーグを焼くのは店主に任せて、それ以外の作業を黙々と進めていると正面から強い視線を感じる。チラリとカウンター席を見ると、赤城と目が合った。
「さっきからなんで見てるの」
「別に」
「あんまり見るなよ。照れるから」
「ふーん、照れるんだ」
赤城がニヤリと笑うから、伊織は思わず顔を顰めた。可愛いところもあるけれど、可愛くないやつ。
「お前、本当にモテないの?」
突然の赤城の言葉に、伊織はますます顔をクシャッとした。そんな当たり前のことを聞くなんて、本当に可愛くない。
「当然だろ。赤城くんみたいにかっこよくないんだから」
「俺、かっこいいんだ」
「だって、赤城くんは女の子にモテるだろ」
「まあね」
「謙遜しろよ」
話しながら仕事を進めていたら、カランコロンと音が鳴って、新たに客が来店した。
「いらっしゃいませ」
現れた客に、伊織は思わず怖気付く。客は若いサラリーマン風の男が一人だ。男は最近この店の常連になっており、伊織が促す前に赤城の二つ隣のカウンター席に勝手に座った。男は何かと伊織に注文をつけてきて、しきりに体を触ってくるから苦手だった。違和感に気がついたのは彼が来るようになってしばらく経ってからだったけれど、気づいてしまったら伊織は不快で仕方がなかった。それに、凛も同じ目に遭うのではないかと思うと怖くて嫌で堪らない。幸い、凛がシフトに入っている金土日に来店したことはないものの、伊織は最近ずっと不安だった。
「どうかしたか」
赤城の声に、「なんでもないよ」と返して、伊織は男の席の前まで向かう。カウンター越しなら触られないだろうと思ったのだ。
「伊織ちゃん、ちゃんとこっちに来てよ」
「あ、……はい」
男の手招きに抗えず、伊織は仕方なくカウンターから出て男の元まで向かう。
「伊織ちゃんのおすすめは」
「今日のおすすめはレモンケーキです」
「俺は腹が減ってるってわからない?」
「あ、そうでしたか。では、カレーですかね」
「この前もカレーって言ってたよ。覚えてないの」
伊織が愛想笑いで誤魔化すと、男は伊織の腰に手を回した。グッと引き寄せられて鳥肌が立つ。どうやったら解放されるだろうかと、嫌悪感で回らない頭で必死に考えた。
その時、カランコロンと扉が開いて、新たな客が入ってきたことがわかった。今がチャンスだと男から離れようとするけれど、男は伊織の手を掴んでさらに伊織を引き寄せた。
「あの、お客さんが」
「伊織ちゃん、俺の接客の途中でしょ」
あまりのしつこさに恐怖心が高まり、伊織は「でも」と言いながら抵抗した。腰を掴む腕を剥ごうとすると、男の力はむしろどんどん強くなる。「腰、細いね」なんて言われたら、気持ち悪くて頭がおかしくなりそうだった。と思った次の瞬間、伊織は解放されて、気がついたら後ろから腕を引かれていた。そのまま誰かの懐に飛び込む。華やかなこの匂いは、と見上げると、険しい顔をした凛が男を見据えていた。
「おっさん、触りすぎ」
そう言ったのは赤城だった。それと同時に男の唸り声が聞こえる。パッと振り返ると、赤城が男の腕を捻り上げていた。そのまま引き摺るように、男を店の外まで連れていく。赤城と男が店から出て、カランコロンと激しい音が鳴り止むと、店の中は一気に静かになった。何事かと伊織の方を見ている客に、慌てて「すみません」と声をかける。
「伊織くん」
ハッと目の前の凛を見上げると、凛は今までで一番怒った顔をしていた。
「もしかして、今みたいなこと初めてじゃないの?」
「え、えっと」
「あいつ、伊織くんの名前知ってたみたいだけど、あんなに馴れ馴れしくさせてたんだ」
「いや、勝手に名前覚えてて、それで、勝手に触ってくるから」
「やっぱり触られてたんだ」
凛はそう言うと大きく溜息をついた。それから伊織を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。それから伊織の耳元で囁いた。
「ごめん」
「……なんで凛が謝るの」
「だって、俺は伊織くんの家族で、恋人なのに」
「凛は?あいつに触られてないんだね」
「うん。でも、俺が触られた方がマシ」
「そんなのいやだよ。凛が困るくらいなら、俺が困るから」
伊織が体を離して凛を見上げると、今度は悲しそうな顔をしていた。悲しいというより、もしかしたら傷ついたのかもしれない。もし反対の立場だったら、伊織はきっと心が痛むと思うのだ。凛の顔を見つめていたら、扉が開く音が聞こえて、赤城が店に戻ってきた。すると店内からパラパラと拍手が起こる。もしかしたら、他の客たちも、伊織の様子を見守っていてくれたのかもしれない。赤城は照れながらも客に会釈をして、それから伊織と凛の近くまで来ると凛のことを見下ろした。
「如月凛」
「なに」
「お前の兄貴、悩みがあるらしいよ」
「ちょっと、赤城くん」
伊織が慌てると、凛は伊織の顔を覗き込んできた。それから「なにを悩んでるの」と尋ねてくる。
「な、なにも」
「如月伊織、お前が言わないなら俺から言うけど」
「言わなくて良いって」
伊織の悩みが凛にバレたら、きっと優しい凛は伊織を気遣ってくれるだろう。女の子より伊織のことが好きだって、もしかしたら未来の自分に嘘をつくかもしれない。将来のことはわからないのにもかかわらずだ。だから、伊織はそっと凛と距離を置いて、将来のことはそれから考えるつもりだった。
「如月伊織は、俺と付き合うことになったんだ」
突然の赤城の言葉に、伊織は思わず「え?」と赤城の顔を見上げた。今、彼は何を言ったのだろうか。慌てて凛を振り返ると、彼は目を見開いている。そうなるよな、と伊織はどこか冷静に思った。
「伊織くん、今のって」
「違う。いや、違うっていうか、なんていうか」
「ちゃんと違うって言って」
「違うけど、付き合わないけど」
「うん、そうだよね」
安堵した様子の凛に心が痛む。もしこの次の言葉を言ってしまったら、伊織と凛はどうなるのだろう。凛のことを直視できなくて、タイルの床を見下ろしながら、伊織はやっと口を開いた。
「俺は、凛とも付き合うのやめる」
言ってしまったと、ぎゅっと目を瞑る。もう後には引けないのだと思うと、涙が出そうになった。
この数週間、伊織は確かに幸せだった。凛も同じ気持ちなら嬉しい。だから、今からは凛の未来のために、伊織は全てのことに耐えてみせる。そう確かに心に決めて、伊織は顔を上げた。凛は出会ってすぐの頃と同じ氷のような無表情で伊織を見ていた。
「それは、伊織くんの本心なの」
「う、うん」
頷いてから、後悔が押し寄せる。これで凛は幸せになるかもしれないけれど、伊織はきっとこの瞬間を一生後悔して過ごすのだろう。伊織はこの先ずっと、幸せになれないのだ。そう思った自分本位なところが情けなくて、鼻の奥がツンとする。目の前がぐにゃりと滲んだ。
「伊織が泣いてる」
突然聞こえた安心する声に、伊織はカウンター席を振り返った。そこには、テーブルに頬杖をついて長い足を組んだジンが伊織たちを眺めていた。
「泣いてないよ」
伊織がそれに応えると、赤城は「いきなりどうした」と言った。それに気がついたジンが、今度は心の声で(伊織)と話しかけてくる。
(ジン、会いたかった)
(伊織は凛くんを思いやって偉いね)
(うん)
(でもきっと、それが凛くんを傷つけてるよ)
(え?)
(俺が伊織のためだって言って伊織から離れたらどう?)
ジンにそう言われて、伊織はハッとした。そうか、全く気が付かなかったけれど、今の伊織は独り善がりなのか。そう思ったらモヤモヤが一気に落ち着いて全ての混乱が腑に落た。でも、伊織は今、どうしようもない嘘をついてしまった。それは取り戻せない。どう取り繕うこともできないだろう。だから、伊織は凛をまっすぐに見上げた。
「俺は凛が好きなんだ。だから、家でちゃんと話しても良い?」
伊織がそう尋ねると、凛は伊織を見つめ返して、こくりと頷いた。
「よし、赤城くん。ナポリタン食べる?」
「は?なんでだよ」
「俺は弟にナポリタンを奢るのが好きなんだ」
伊織がそう言うと、赤城は小さく溜息をついて、それから「そう言うことですか」と苦笑いをした。
やっと落ち着いた店内で、伊織はくるくる働いた。もちろん、赤城と、なぜだか伊織にまでナポリタンを食べさせて、その光景を見た客からもナポリタンの注文が相次いで、ナポリタンを作り続ける謎の時間もあった。
そして二十時、店の前で赤城と別れて、伊織は凛とジンと家路についた。凛は一言も話さないから、伊織は心の中でたくさん練習した。
(凛のことが好きだから、女の子と幸せになった方が良いと思ったんだ)
(伊織、それじゃあ凛くんは納得しないよ)
(じゃあ。凛のことが好きだから、幸せになって欲しくて別れようと思ったんだ)
(いや、勝手に別れようと思ったんだ、って感じ?)
(勝手に別れようとして、ごめん)
(許さないよ、って言われたら?)
(なんでもするって言うしかないね)
途中でジンが伊織の心の声に侵入してきて色々と指南してくれたから、ちゃんと納得のいく説明ができそうだ。
家について、凛に促されるままにリビングに向かった。すると、ジンは空気を読んだかのように姿を消した。いつもの通り向かい合わせで座って、伊織はごくりと喉を鳴らした。練習通り、ちゃんと言おう。
「俺、凛のことが、」
「本当は嫌いなんじゃないの」
「え?」
言いたいことと真逆のことを言われて、伊織は思わず聞き返した。でも、もう一度同じことを言われたら心が折れそうな気がして、慌てて次の言葉を探す。
「だ、大好きだよ。大好きだから、俺は一緒にいたらダメだと思って」
「好きなら普通一緒にいたいでしょ」
「俺は俺なりに考えて」
「本当に?俺と離れたかったんでしょ」
伊織が全て悪いのはわかっている。凛に対して別れるだなんて言ったから、凛は怒っているのだ。でも、伊織はちょっと頭にきた。伊織が悪いのに頭にきている自分に頭にきて、目の前の景色が滲む。この状況が悲しくて、自分が情けなかった。自分が本当に泣いているのだと気づいたのは、涙が溢れた時だった。
「俺は、可愛い女の子じゃ、ないから」
伊織がつっかえながら言うと、凛が目を見開いた。言いながら、そうか、と伊織は思った。散々幸せになってほしいとか思っていたけれど、それは全部伊織の建前だったのだと自分で気がついた。
「可愛くないから、凛は俺と、付き合ってるって、バレたくないんじゃん」
「……なにそれ」
「だから今朝、俺の手を、離したんだ」
朝、手を離されて、悲しかったのだ。伊織は凛に相応しくないんだって、凛に言われたような気がした。髪の綺麗な可愛い女の子が凛にはお似合いで、凛がそういう誰かと幸せになるべきなんじゃないかと思ってしまった。
「それは、伊織くんが嫌そうだったから」
確かにそうだ。凛がみんなに義兄と付き合っているってバレたら大変だと思ったのだ。でも、心と想いは裏腹で、伊織にだってよくわからない。
「凛のこと、好きな女の子は、たくさんいるんだろ」
「そんなの知らない、どうだって良いもん」
「でも、だから、俺はすごく」
この気持ちはなんと表現するのだろう。ムカムカして、もやもやして、チクチク痛い。すると頭の中で(嫉妬、なんじゃない)とジンの声が聞こえた。伊織は納得した。そうか、これが嫉妬か。そう思いながら、やっとのことで「すごく、嫉妬する」と絞り出した。
「……伊織くん、嫉妬してるの?」
凛の声に、伊織は俯きながらこくりと頷く。嫉妬って苦しい。病気のように辛くて、痛い。なるほど、つまりは恋煩いか。伊織が恋煩いだなんて鳥肌ものだけれど、伊織は確かに恋をして、それに苦しんでいるのだ。
「伊織くんが、嫉妬」
凛はなぜだかそう繰り返して、それから席を立った。もしかしたら、凛は嫌だったのかもしれない。伊織の嫉妬なんて、可愛くもなんともないのだから。ところが、凛は伊織のすぐ隣までやって来ると、その腕で伊織の体を優しく包み込んでくれた。
「嫉妬したんだ。可愛いね」
「……可愛くないよ。こんなに苦しくて辛くて、すごく醜い」
「じゃあ俺も醜いかもね。俺は伊織くんのことになると、いつもすごく嫉妬してるから」
凛は伊織から体を離すと、屈んで伊織の目を覗き込んだ。美しい瞳が、伊織の心まで見通すようで、伊織は少し怖くなる。でも、目を逸らしてはいけないと思った。
「伊織くんを不安にさせたならごめんね」
謝ろうと思ったのに謝られて、伊織はなんて言って良いのかわからなくなる。頭の中で(返事は?)と聞こえたことで、「俺の方こそ、ごめん」とやっと言った。
「俺はね、可愛い女の子よりも、ずっと可愛いくて、優しくて、勇敢な伊織くんが好き」
凛が伊織に聞かせるようにそう言った。でも、伊織はつい可愛くないことを言いたくなる。
「それは今だけかもよ」
自分でも思った以上に寂しくて苦しそうな声が出た。すると、凛は優しく微笑んで、伊織の左の頬に手を添える。
「じゃあ、未来の伊織くんと、それから神様に誓う。伊織くんのことをずっと好きでいるって」
「神様って、ジンのこと?」
「ジンも含めて、天にいる全ての神様に誓うから、安心して」
そう言った凛に、思いが通じあったあの日のように額から順に唇を落とされる。瞑った瞼も頬も鼻先も、唇が触れるごとに甘く溶けてしまいそうだ。あの時は熱があったから遮ってしまったけれど、今回は。いよいよ唇にと言うタイミングで、伊織は自ら凛に顔を押し付けた。無事に柔らかな感触を確かめて、心が満たされる。ぎゅっと瞑った目を開けると、目の前には驚いた凛の顔があった。
「へへ、やったあ」
伊織が思わず笑うと、凛はしばらくして眉尻を下げ、堪らないと言うように笑ってくれた。




