太陽の匂い
ジンにとっての一番は、十年前から伊織だけだった。小学一年生の伊織は平均よりもずっと小柄で、普通の可愛い男の子だったと思う。タレ目がちの目はいつでもキラキラと輝いて、口角の上がった口元は楽しいことでいつもワクワクしていた。そんな伊織の境遇は、決して恵まれてはいなかった。むしろ、普通よりずっと苦労していたのではないだろうか。だからジンは、大雨の中で伊織に拾われたあの時から、必死で看病をしてもらったあの瞬間から、伊織をいつでも助けて守ろうと強く誓ったのだ。
あの日、黄色いブカブカの長靴を履いていた男の子は、大きな灰色の長靴をなんでもなく履けるまでに成長した。そして今年の七月で十八歳になる。そんな彼は今、恋を理解することに一生懸命になっているようだった。
夕食を簡単に食べて、風呂はシャワーで済ませた伊織は、ジンの隣に寝転んで天井を見ながらぼんやりしている。きっと、彼の頭の中は困惑でいっぱいなのだろう。
「伊織」
ジンが何度か声をかけても、伊織から返事が返ってくることはなかった。仕方がないと苦笑する。一生懸命な彼は、きっとジンがいない二日間を必死に生きたのだろう。
「伊織、大丈夫?」
ジンが布団から腕を出して、掌を伊織の目の前でヒラヒラ振ると、伊織はやっと我に返ってジンに顔を向けた。
「……ジン」
「うん、どうした?」
「困ったことになったんだ」
「そうなの?」
「この俺が、同時に二人からモテている」
「わお、それは大変だ」
本当は天に祈る伊織の声が聞こえてきていたから知っている。ジンも伊織にギリギリ伝わる程度で返事をしていたつもりだけれど、聞こえていただろうか。この様子だと、もしかしたら聞こえていても気のせいだと思っているのかもしれない。
「凛と、春川くんが、俺のこと好きなんだって」
「すごいね」
「でもね、多分俺は、ジンのことが特別好きなんだ」
それはそうだろうと思う。ポッと出の男に負けてたまるか。ただ、伊織にはジン以外の拠り所があった方が良いと、ずっと思っていた。この先、ジンが天界に強制送還される未来もあるかもしれない。もちろん、そんなことがあれば徹底的に抗うつもりだけれど、本当にもしもの時だ。もしも伊織が一人になってしまう未来が訪れるとしたら、それを考えるだけでジンは眠れないほど怖かった。
「伊織は、俺が特別好きなんだ」
「うん。でも」
「なに」
「……ジンって、俺と、キキ、キキスできる?」
「……っ、ふははっ!」
ジンは衝撃で思わず吹き出した。そんなの、当然のように答えは決まっている。伊織にしてやれないことなんて、ジンにはないのだ。でも、伊織が求める答えは、きっとジンの考えとは異なるだろう。ジンはいつも、己の気持ちよりも、伊織のことを優先してきた。伊織が不服そうに、体ごとジンに向き直る。するとふわりと太陽の香りがした。
「そんなに面白い?」
「だって、伊織とキスだなんてさ」
「うん」
「信じられないよ」
ジンがそう言うと伊織は一瞬眉を顰めたけれど、少しして安心したように笑った。
「そうだよね、変なこと言ってごめん」
「いいよ。伊織が変なのはいつものこと」
ジンは伊織の髪を撫でながらそう答えた。気持ちよさそうに目を細める伊織を見て考える。きっと伊織のことは、今も昔もこれからもずっと好きだ。でも、伊織と恋仲になりたいわけではないのだと思う。だからと言って、伊織の何になりたいのかと言われてもわからない。伊織を想う凛を応援してるし、でももしかしたら本当は応援したくないのかもしれない。神であるジンにもわからないことは珍しい。それも相まって、伊織と一緒にいると楽しくて仕方がないのだ。
「伊織、一応試してみる?」
「何を?」
「キス」
「……う、うん」
「やだよ。しないって」
「う、うわあ!よかった、本気かと思った」
安堵した伊織を見たら、胸が痛くて、ちょっと愉快な気分にもなった。複雑な気持ちを抱えて、ジンは伊織を見つめながら、ふっと息を吐き出したのだった。




