守り神との日常
いきなりの眩しさに、伊織はゆっくりと目を開けた。ついさっきジンに寝かしつけられたと思ったのに、唐突に朝になった感覚だ。ふと窓辺を見ると、人間の姿になったジンがカーテンを開けている。
「おはよう」
伊織が声をかけると、ジンが振り返った。そういえば、今日見た夢の中ではジンはまだ可愛らしい子供だった。それなのに、いつの間にこんなに綺麗に成長したのだろう。形の良い眉に切長の目、尖った鼻先に薄い唇まで、全てが整っている。彼はすでに伊織と同じ高校の制服を着込んでいて、髪型まで完璧にセットされていた。そんなジンが「おはよう、伊織」と微笑むと、彼の周囲にキラキラの何かが舞ったように見えた。毎朝現れるあのキラキラは一体なんだろうか。その発生源について考えていたら、ジンが「そういえば」と口を開いた。
「伊織、今日の五限は数学になるんじゃなかったけ?」
ジンの言葉に数秒考えて、伊織は慌ててベッドから飛び降りた。裸足にスエットのまま勉強机に向かって、スクールバッグに数学の教科書とノートを突っ込む。危うく忘れ物をするところだった。数学を担当する初老の教師は、教師の中でも特に忘れ物に厳しい。ジンのおかげで命拾いした。
「ジン、ありがとう」
「どういたしまして。ほら、早く着替えて朝ご飯を食べに行こう」
ジンの言葉に頷いて、制服の白いシャツと青色チェックのスラックス、そして靴下を身につける。それからベッドの近くに散らばっているスリッパを履いて部屋を出た。長い廊下をパタパタと歩いて、それから階段を下る。スリッパなんて永遠に履き慣れなくて、何度も転びそうになりながらやっとの思いで一階にたどり着いた。
洗面所に誰もいないことを確認してから、そろりと洗面台へ向かう。まだ他人の家みたいな感覚で、伊織はいつも神経を使って生活していた。例え先住民と遭遇しても、この家は洗面所でさえもスペースが広く有り余っている訳だけれど、まだ伊織は彼と打ち解けていないのだから仕方がないのだ。洗面所で適当に髪を濡らして、彼が来ないうちにと急いで寝癖を直した。よし、今日も七十点くらいだろう。そう思っていたら、鏡越しのジンが呆れたように溜息をついた。
「雑すぎ。こっち向いて」
大人しくジンの方へ向くと、ジンは伊織の髪を何度か撫でた。「よし」の言葉に鏡を振り返る。鏡の中の伊織の髪は、まるで時間をかけて綺麗にセットしたかのような仕上がりになっていた。「ありがとうございます」「いいえ、いつものことなので」などと言い合って、続いてルーティン通りリビングへと向かった。一直線にキッチンへ向かって、まずは冷蔵庫から味噌汁が入った鍋を取り出して火にかける。それから焼き魚や卵焼きなどのおかずも取り出してレンジにかけた。ちょうど炊けたご飯をしゃもじで混ぜて、それら全てを食卓に並べたら、今日も最高の朝食だ。
この家に大人はいない。母親の再婚相手であるこの家の主人は海外赴任中で、母親もそれについて行ったからである。でもこの家には家政婦が毎日のように来てくれるために、衣食住に不便することはなかった。三月までは適当にパンを齧って登校していた。幼い頃からそれが普通だったわけだけれど、伊織はこの生活になってから毎朝が少し楽しみになった。手を合わせてからご飯をもりもり食べ始める伊織の姿を、ジンは隣に座って頬杖をついてみている。伊織の幸せがジンの食事なのだと、その昔に教えてくれたことを思い出す。それは本当なのだろうか。もし本当なら、ジンは今どんどん満腹になっているに違いない。
「美味しい?」
「うん、最高」
伊織が食べ始めてしばらくすると、リビングの扉がガチャリと開いた。ふらりと現れたのは、伊織の義弟である凛だ。初めて彼をみた時は驚いたものだ。綺麗なジンを見慣れている伊織でさえ、あまりの美しさに目を見張ってしまった。アーモンド型の目に通った鼻筋、それからぽってりとした唇まで全てが少女のような可憐さを持っていて、それでいて男らしい精悍さも持ち合わせている。背はスラリと高く、頭はとても小さくて、バランスまで完璧だ。どこまでも平凡な自覚がある伊織はその全てが羨ましくて、そして義兄として少し居た堪れなさも感じていた。まあ、生まれ持ったものは仕方がない。今日も凛に対する様々な感情は隠して、彼の顔を覗き込むように見上げた。
「凛、おはよう」
伊織が挨拶をすると、凛はチラリと伊織の顔を見て、グッと眉間に皺を寄せながら「おはよ」と答えた。彼は伊織を見る時、こうして非常に険しい顔をする。きっと彼は伊織のことが気に入らないのだろう。凛は動きを止めずにそのままキッチンに向かって、冷蔵庫からおかずを取り出してレンジにかけた。
「味噌汁、温まってるよ」
「……うん」
「今日は焼き魚が鮭だったよ」
「……うん」
「卵焼きが綺麗でね、ひよこの神様かと思った」
「……」
今日は比較的反応が良かったからいっぱい話しかけてみたけれど、最後は無視されてしまった。ちょっと残念に思いながら卵焼きを口に放り込むと、隣のジンが肩を揺らしていることに気がつく。
(なに笑ってるの?)
伊織が聞いてみると、ジンはおかしそうに笑いながら残り二つの卵焼きを指差した。
(ひよこの神様は美味しい?)
(もしかして、馬鹿にしてるな)
(してない、してない)
(絶対してるって。無視されて傷心中なのに)
そう言って伊織が少しむくれると、ジンはさらに面白そうに笑った。
(ジン)
(ほら、いいから早く食べな)
(うん。凛も一人で食べたいかもしれないから、ちょっと急がなきゃ)
(急ぐの?じゃあ手伝ってあげる)
ジンはそう言って、大きな口で卵焼きを一つ口に放り込んだ。
「あ!」
伊織が思わず叫ぶと、口の前で人差し指を立てて、(静かに)と華麗にウィンクしてくる。
「どうかした?」
凛がキッチンから振り返った。せっかく凛から話しかけてくれたところだけれど、この状況を説明するわけにもいかない。だって、凛には視えていないイタズラな神様に卵焼きを食べられただなんて、口が裂けても言えないからだ。「なんでもないよ」と言ってからジンをジトリ睨みつけつつ、伊織は残りの卵焼きを急いで口に放り込んだのだった。