雨の日の幸福
雨、雨、雨。今日も雨だ。梅雨なのだから仕方がないけれど、こう何日も雨が続くとさすがに憂鬱だ。伊織はリビングの窓から外の様子を眺めて、小さく溜息をこぼした。
「伊織くん」
名前を呼ぶ声に振り返ると、そこには伊織の義弟が立っていた。彼は凛だなんて美しい名前の通り、顔を含む姿形全てが美しい。白いスウェットを着ているだけなのに、その出立ちは雑誌の中のモデルのようだ。彼が伊織の大切な存在になったのはつい最近のことだった。それまでは困っていたら救いたいくらいなと思うくらいの存在だったけれど、今は何か困っていないか、何が好きで何が楽しいのか、一緒にいるとよく考える。伊織を見つめる彼のアーモンド型の目は優しくゆるんで、なんて綺麗なのだろうと伊織は思った。
「凛、外、雨」
伊織が単語で話しながら窓の外を指さすと、彼は「宇宙人みたいな話し方するね」と言って楽しそうに笑った。
彼は最近、こうやって無防備に笑うことが増えた。彼が伊織に笑顔を向けたのは、確か商店街で不良に絡まれた時が初めてだった気がする。逃げた先にあった公園で微笑んだ彼は、それはもう息を呑むほど美しかった。それから、なぜだかお弁当を届けてくれた時もふわりと綺麗な笑顔だった。伊織はしばらく気が付かずにいたけれど、きっと彼は案外伊織のことが嫌いではないのだろう。新しい家族と友好な関係を築けるだなんて思ってもみなかったから、伊織は心の底から嬉しく思っていた。
「せっかく休みなのに、雨いやだね」
凛がそう言いながら伊織の横に並んで窓から空を眺める。伊織もそれに倣って、改めて外を見遣った。
今日は土曜日にもかかわらず、アルバイト先である喫茶店が臨時休業になってしまったのだ。店主が早めの夏風邪を引いてしまったらしい。ジンは今、伊織の代わりに店主の自宅でもある喫茶店に彼の様子を見に行ってくれていた。
「伊織くん」
外を眺めながら「なに?」と返す。凛は律儀に伊織を呼び捨てにしないところが可愛い。ジンに「伊織」と呼ばれる時は愛情を感じているけれど、凛から「伊織くん」と呼ばれると凛の優しさと繊細さが感じられる気がする。しかし、しばらくしてもその次の言葉が聞こえてこなくて、伊織はゆっくりと凛へ視線を向けた。
「あ、やっとこっち見た」
目があっただけでこんなに嬉しそうに笑うのだから、もっと早く見てあげるべきだったなと思った。こんな風に誰に対しても接しているのであれば、彼が頻繁に告白をされる理由が更に理解できる。
「伊織くん」
「うん」
「もしよければ、俺と」
凛が何か言いかけた瞬間に、二人のすぐ後ろにジンが現れた。二人とも同時に「うわ!」と驚くと、ジンは「ははは!」と笑って悪戯が成功したことを喜んだ。彼は雨に濡れた様子もなく、無事に叔父の様子を見てきてくれたらしい。
「ジン、ありがとうね」
「叔父さん、結構怠そうだった」
「じゃあ、何かご飯でも持っていこうかな」
例えば薬を飲むにも、何か食べないと体に悪いだろう。伊織が熱を出すと、ジンはいつも暖かいうどんやら、雑炊やらを作ってくれていた。誰かを看病なんてしたことがないけれど、同じようにしてあげたらきっと叔父の助けになるだろう。
ところが伊織の言葉に、凛が困ったように眉を寄せた。
「でも今日は家政婦さんもお休みだよ」
家政婦がいないと炊事は何もできないと思っているところが流石のお坊ちゃんだなと思う。彼にはこうやって何も知らずに成長していって欲しい気持ちもあるけれど、多少の生活力があれば今後のためにもなると思うのだ。だから、伊織は凛の肩にポンと右手を置いた。
「凛、俺たちに不可能はないんだよ」
なるべく真剣にそう言ったのに、凛もジンも一斉に笑い始めたから、「なんだよ、失礼だな」と言いながら伊織もつられて笑ってしまった。
「叔父さんに消化に良いものを作って届けよう作戦」
伊織がこれからの行動にそう名前をつけると、凛は表情を明るくした。
「冷蔵庫はなるべく触らないでおこう。この家では家政婦さんの領域だから」
ジンの説明に、なるほどと頷く。彼のこういうところが本当に頼りになる。きっと今までもこうして、伊織を通して色々な何かを救ってきているのだと思うのだ。
「ということは」
凛が伊織とジンを交互に見る。
「つまり、雨だけど一緒に買い物に行こう」
伊織がそう宣言すると、凛の目はこれからの出来事を期待するかのように輝いた。
早速出かける準備を整えて、玄関で灰色の長靴を履いていると、凛が「長靴?」と不思議そうに聞いてきた。
「そうだけど」
「持ってるんだ」
「うん、新聞配達していた時に使ってたからね。カッパも持ってるよ」
そう答えたら、凛はなぜだか小さな声で「それはとっても可愛いね」と言った。可愛いかなと思っていたら、ジンが同意するように頷く。
「伊織の歴史の中では、カッパ姿と給食当番の割烹着着てる時が可愛いかった」
「割烹着?何それ、みたい」
「ちゃんと帽子までかぶって、その帽子の被り方がまた適当でさ」
「伊織くんらしいね」
過去の話をされるのは恥ずかしいけれど、二人が楽しそうで何よりだ。同時に少し苦くて割と面白かった幼少期を思い出して、現状との差に不思議な気分になった。
玄関を出て傘をさしながら歩いていたら、凛がポツリと呟いた。
「俺、こういう買い物初めて」
まあ、そうだろうなと思いながら、「そうなんだ」と言ってみると、「俺には子供に興味のない父親しかいなかったからね」と言った。
「俺も適当な母親しかいなかったけどね。だから生きるためにジンとよく買い物行ったな」
「そうだね。お菓子買うの我慢して、半泣きでお米買ってたね」
やっぱり、ちょっと切なくて、自分としては笑ってしまような思い出だ。その帰り道、米の重さに頭にきて、ジンに宥められたところまでがセットなのだ。あの頃から、ジンは伊織と一緒に荷物を持ってくれていたなと思い出す。子供の二人に大きな米袋は重たかったけれど、めげずに最後まで運んだときは確かな達成感があった。
ところが凛には衝撃的な話だったらしく、伊織の隣で目を丸く見開いた。
「半泣き?可哀想に。俺がバイト代で欲しいお菓子全部買ってあげる」
「ははは!ありがと。でも、バイト代は自分のために使いな」
水たまりを避けながら、最近ますます優しくなった凛のことを考える。この優しさは伊織に心を開いてくれているということだろうか。でもきっと、凛はみんなに平等に優しいのだ。だから学校でもアルバイト先でも、数々の告白を受けることになっているのだろう。こんなに人々が惹かれる理由は、外見の美しさだけではないと思う。ただ不安に思うのは、こんなに優しいと告白を断るのが随分と大変だろうということだ。これはいつかも考えたことだ。でもその時よりも凛のことを知った今は、凛のことがもっと心配だった。
家から最も近いトマトのマークのスーパーに到着すると、伊織は黙ってカゴを持った。あまり量を買うつもりはないために、カートではなくても良いと思ったのだ。ところが凛が少し嬉しそうにカートを見つけて押してきたから、「ありがとう」と言ってそこにカゴをのせたのだった。
「伊織、トマトが安そうだよ。玉ねぎと、ハムも」
入り口に貼れている広告を見て、ジンがいつものように教えてくれる。これは伊織とジンのルーティンのようなものだ。
「お粥じゃ味気ないから、トマトリゾットにするか」
「そうだね。伊織と凛くんのお昼ご飯用にも多めに作ったら良いよ」
店内を歩きながら、トマト、玉ねぎ、ハム、それからピーマンや必要な調味料までカゴに入れていく。凛はカートを押しながらキョロキョロして、興味津々に伊織とジンの様子を見ていた。
「凛って、好きなもの何」
落ち着かない様子の凛に聞くと、彼は少し考えてから「あんまりない」と言った。
「好きなものだよ?嫌いなものじゃなくて」
「うん。なんでも別に嫌いじゃないって感じ」
伊織がその答えに驚いていたら、凛はハッと目を見開いた。何かを思い出したらしい。
「特別好きなのは、伊織くんの作るナポリタンと、クリームソーダ、かも」
ふわりと美しい笑顔で言われると照れてしまう。顔がすこぶる良いというのは非常にずるいなと思った。
会計は凛が持たされている生活費用のカードで済ませて、伊織が持参した青色のエコバッグに食料を詰め込む。
「俺と叔父さんの分は後で払うから」
伊織がそう言うと、凛は「いつも世話になってるから受け取れない」と断言した。「でも」と言っているうちに、凛が全部袋に詰め込んで、そのまま自然と右手に提げた。そんなに至れり尽くせりで、伊織だって黙っていられない。
「じゃあ、せめて俺が持つから貸して」
「いいから。まだ父親の力を借りなくちゃだけどさ、俺ができることは全部俺がしてあげたいの」
伊織はその言葉の意味を考える。凛はそんなに店主である伊織の叔父のことが好きなのだろうか。不思議に思って首を傾げると、(そういうことじゃないと思うよ)とジンの声が頭の中に響いた。
最近になって、凛にはジンと伊織の感覚的な会話は聞こえていないことがわかった。凛が一緒にいる時には仲間はずれにしたくなくてなるべく使わないようにしているけれど、凛に聞かれたくない話の時にテレパシーのようなこの技は便利かもしれない。「雨やまないね」と言いながら歩いている凛に返事をしつつ、伊織はこっそりとジンに話しかけた。
(さっきの、そういうことじゃないって、どう言う意味)
左隣にいるジンは伊織にチラリと目配せをして、(自分で解明してください)と冷たいことを言った。
家に着くと早速食材を袋から取り出す。手を洗って、エプロンだなんて昔から持っていないからそのままの姿でキッチンに三人並んだ。
「凛、服白いから気をつけな」
「うん」
「伊織は絶対に飛ばすから諦めな」
「うん、もう諦めてる」
伊織はグレーのTシャツだから、トマトのソースが飛んだら微妙に終わりだろう。そしたら自分でもみ洗いするからいいのだ。いつものようにジンも応援してくれるだろうし、伊織に怖いものなんてない。
トマトリゾットの作り方はわからないけれど、想像のままに調理を進める。主に楽しそうな様子の凛に動いてもらって、恐ろしい包丁さばきに怯えながら手取り足取り教えて、やっとトマトソースが完成した時にはお昼の時間を大幅に過ぎていた。お腹はぺこぺこだけれど、まずは叔父用として深めの小さな鍋に解凍した冷凍ご飯とソースを入れてリゾットを完成させる。米が水分を吸ってしまうことを恐れて、伊織は鍋を何枚かのタオルで包むと「よし」と言って玄関に向かった。
「凛はちょっと待ってて」
不思議そうな顔で伊織を見ている凛にそう言って、今度は普通のスニーカーを履いてから雨の中へ飛び出した。喫茶店まで、本気で走れば五分とちょっとくらいだろうか。雨が顔面に当たって、少し痛いくらいだ。
「伊織ったら、本当に無茶苦茶」
そう言って爆笑しながらついてきたのはジンだ。彼は雨の中でも爽やかに走っている。
「また風邪引かないでよ」
「わかってるって。今日は帰ったらちゃんとすぐに体拭くよ」
喫茶店まで一生懸命に走って、叔父の自室までリゾットを届けると、「ありがとう。うつるから早く帰れ」と、あっという間に追い出された。ちょっと味気なかったけれど、家にはお腹を空かせた凛が待っていると思うと早く帰らなければと思う。雨の降る中を必死に走ってやっと門までたどり着くと、そこには凛が傘をさして待っていた。手にはバスタオルを何枚も持っていて、伊織が近づくとそれを広げて迎えてくれる。
「凛、ありがとう」
傘の下に入ってバスタオルに包まりながら凛の顔を見上げると、彼はなぜだか不機嫌そうだ。
「ごめんな。お腹空いたよな」
そう言いながら凛を家の方へと促すと、彼は小さく溜息をついて、それから困ったように笑った。
「凛くんは伊織に怒っていいよ」
ジンがそんなことを言うものだから、伊織は慌ててしまう。「凛の分もすぐ作るって」と言ったら、本日二度目の「そういうことじゃないと思うよ」と言われた。ただ今回は伊織自身お腹がぺこぺこだったから、その言葉は無意識にスルーしてしまったのだった。
タオルで体を拭いて、なぜだか二人に怒られながら着替えて、それから凛と自分用のリゾットを完成させる。無駄におしゃれな皿によそって、最後にとろけるチーズを被せたら、凛は今日一番喜んで机に運んだ。みんなで席に着くと、手を合わせてからスプーンを持つ。隣に座ったジンにもリゾットを前に嬉しそうにしていて、目の前の凛は一口目を掬ったところだ。彼が口に運ぶ様子をじっと見守る。好きな食べ物がナポリタンとクリームソーダの男に、この味は響くだろうか。味見をした時は割と美味しく感じたはずだけれど、彼の初作品だと思うと責任を感じて心配になる。ふーと冷まして、パクリと口に入れた凛の顔が、あっという間にふにゃりと解けた。
「美味い?」
伊織が聞くと、凛は大きく頷いた。その姿に安心して、伊織も大きく一口食べてみたら、危うく火傷するかと思った。慌てる伊織をジンは横から見ていたらしく、「ちゃんと冷ましてね」と小さく言った。
火傷しないように、凛の最初の作品を味わうように、伊織も大切に一口一口を食べていく。すると、凛が「俺にも作れるんだな」と小さく呟いたのが聞こえてきた。
「そうだよ。初めてでこんなに上手だなんて、凛は料理上手だと思うよ」
伊織がそう言うと、凛は照れくさそうに「そうかもね」と笑った。その様子がとてつもなく可愛くて、凛に惚れる人間の気持ちが少しわかった気がしたのだった。
伊織たちが食べ終わる頃には、窓の外は少し明るくなっていた。伊織が席を立って窓に近づくと、雨は完全に止んでいることがわかる。
「雨、やんだ」
伊織が二人を振り返ると、凛もジンも伊織を見ていた。二人ともこんなに優しい表情で伊織を見てくれるのか。伊織の胸が少し震える。
今まで伊織にはジンしかいなかった。大事なジンがいることが伊織の幸せだったのだ。ところがここ最近になって大切な存在が増えた。美しくて、優しくて、可愛い義弟。ジンとは少し違うけれど、ジンのことのように彼を好きになりたい。唯一の存在たちに向かって、伊織は思わず「へへ」と笑顔を向けた。




