プロローグ
今日から五月。それでも早朝の空気は冷えている。伊織はまだ暗い空の下で小さく身震いした。でもきっと、仕事が終わる頃には空に太陽が昇り、この街を明るく照らすだろう。
中学一年生の伊織が新聞配達を初めて今日で一ヶ月目。愛車は、新聞屋のお爺さんがくれた古ぼけた自転車だった。カゴにたくさん新聞を積んで、サドルを跨ぐ。よいしょとペダルを踏むと、自転車からはキィッと大きな音がした。
次第にスピードに乗り始めたところで、隣から生き物の吐息と爪音が聞こえてきた。チラリと視線をやると大きな狼に似た獣が自転車と並走している。漆黒の毛並みが艶やかに光って、瞳は赤く透き通って宝石のようだ。
「ジン、どこにいたのさ」
伊織が話しかけると、ジンと呼ばれた狼は伊織の脳内に直接話しかけてきた。
(雀見てた)
こんなに大きくてかっこいいのに、彼は雀が大好きだ。大人っぽくて、しっかり者で、優しくて、そして雀が大好き。伊織はそんなジンのことが世界で一番好きだった。それなのに、つい可愛くないことを言いたくなる。
「また雀見てたの?食べないんだよ」
伊織がそう言うと、ジンは少し笑って、(伊織がご飯くれるうちは食べないよ)と言った。
新聞を配りながら住宅街をいくつか回っていたら、あっという間に公園の時計は午前四時過ぎを指している。まだ坂の上にある一番遠い住宅が残っているのに、この時間は少しまずいかもしれない。焦りながらも、伊織は体力の限界まで必死で自転車を漕ぎ続けた。そのうちに目の前に最大難所の長い坂が現れた。一度止まって、それから覚悟を決める。歯を食いしばって坂道をのぼり始めたら、半ば歩くような形で隣を着いてきていたジンがくるくるくると回転した。そして一瞬のうちに、伊織と同じ歳くらいの可愛らしい少年の姿になる。ああ、今日も助けられてしまう。
「伊織、代わるよ。荷台に乗って」
思った通り、ジンは運転手の交代を申し出てきた。でも、このアルバイトを始めてから、いつも以上に彼に頼ってばかりだ。毎日助けられてばかりでは申し訳ない。
「もうちょっと頑張る」
「でも、今日も学校があるんだからさ」
「うん」
伊織が頑なに自転車を漕ぎ続けていると、ジンは狼の姿の時と同様、隣を軽やかに走ってついてきた。なんとか坂をのぼり切って、そして目的の住宅のポストに新聞を入れると、少しの達成感が伊織の心に湧き上がる。伊織自身の力で、仕事を達成したのだ。一瞬の喜びの後、ここから帰りも長いことを考えたら気が重くなった。すでに体はヘトヘトで、眠気を覚ますように伊織は目をごしごしと擦る。
「伊織」
ジンが自転車のハンドルを奪うように手をかけてきた。少し高い位置にある顔を見上げると、今回は伊織に有無も言わさない表情をしている。だから大人しく自転車から降りてハンドルを明け渡した。するとジンはすぐにスラリと長い足でサドルに跨った。
「ほら、後ろ乗って」
渋々言われた通りに荷台に跨り、ジンの腰に掴まると、自転車はすごいスピードでのぼってきたばかりの坂を下り始めた。このスピードは下り坂だから出ているのではない。ジンの不思議な力によるものだと、伊織にはわかっている。
実は、ジンは伊織の守り神だ。伊織が小学校一年の時に出会ってから今まで、ひたすらにずっと一緒にいる。ジンはすでに伊織の体の一部のようなものだった。ただ、普通の人にはその姿は見えず、声も聞こえないらしい。伊織はジンに触れられるし、確かな体温も感じるのに、他人からしたら彼は無と同等なのだ。今の二人の姿も、荷台にだけ人が乗っている自転車が猛スピードで坂を下っていることになるのだろう。
「伊織、寝てていいよ」
ジンがどう考えても無茶なことを言ってくるから、思わず笑ってしまう。
「寝られるかな」
一応そう言ってみたら、「じゃあ寝る前に着くから待ってて」とジンが言った。
それから本当にあっという間に新聞屋の前に到着して、古い店の中で店主であるお爺さんに配達完了の報告をした。さあ帰ろうとジンに目配せをしながら再び外へ出ると、空はすっかり明るくなっている。伊織の体は重い怠さがあって、大きな欠伸が一つ漏れた。毎朝毎朝、体力の限界まで頑張ってしまう。でも、それしかお金を稼ぐ方法がないのだから仕方がない。伊織の様子を見て、少年の姿で隣にいたジンが心配そうに顔を覗き込んできだ。
「伊織、大丈夫?」
「うん。今日もありがとう」
「帰ったら少し寝よう」
「でも寝たら起きられなさそう」
「俺が起こしてあげるから大丈夫」
そんな会話をしながら、ジンが漕ぐ自転車で自宅であるボロアパートまで真っ直ぐに帰った。そして今日も母親が帰らない六畳二間の奥の部屋に倒れ込む。今の時間なら、少なくとも一時間くらいは眠れるだろう。伊織を真似て畳の上に倒れ込んだジンはすでに狼のような姿に戻っている。もふもふの大きな尻尾で体を優しく叩かれたら、伊織はあっという間に睡魔に襲われて、深い眠りについてしまうのだった。
ふわりと目が覚めた。なんだか懐かしい夢を見ていた気がする。気持ちのいい目覚めなのにあたりはまだ暗くて、長年の習慣は恐ろしいなと伊織は思った。今伊織が眠っているのはふかふかなベッドだ。大きなベッドが入るこの部屋は当然かなり広くて、机や洋服ダンス、ソファに簡易的な水道まで揃っている。
伊織は先月、高校三年生になった。そして、五年間続けた新聞配達のアルバイトを辞めたのだ。それは受験生になったからではない。少し前に母親が突然大金持ちと再婚したからだった。そして新年度に合わせて、長年住み慣れた六畳二間から、屋敷とも呼べそうな大きな一軒家に住むことになった。何も持っていなかった伊織の生活は一変した。再婚相手には伊織の一つ年下の息子がいたため、住居や苗字だけでなく家族構成までも一気に変わった。唯一変わらないのは、一緒に布団で寝ているのがジンだということだ。今は狼のような姿で、掛け布団の上に横たわってクウクウ眠っている。いつも伊織を守ってくれるジンの無防備な姿は珍しい。伊織はジンの方へ横向きになると、その艶やかな毛並みを優しく撫でた。綺麗なのに意志を持っているかのような少し硬い毛が彼らしい。ぼんやりしながらしばらくジンを撫で続けていたら、突然彼がふわっと片目を開けた。
(伊織、起きちゃったの?)
伊織はジンを起こしてしまったことに少し慌てて、それから小さく頷いた。でも、この時間にジンが起きてくれたことが少し嬉しくて「へへ」と笑うと、ジンはいつかよりも大きくなった尻尾で伊織の体を布団の上から一度だけ優しく叩いた。
(ねえ、ジン)
伊織はいつからか、ジンと感覚的に話すことができるようになった。だから、どんな深夜でも、たとえ授業やテスト中でも、楽しくおしゃべりができる。伊織の呼びかけにジンはもう片方の目も薄く開けて、伊織のことを見つめてきた。
(伊織、寝ないの?)
(うん。眠くないから起きる)
(だめ、寝てください)
でも眠れないんだよなと思っていたら、今度は尻尾が一定のリズムで伊織の体を叩き始めた。しばらくその動きを見ていて、そのうちにこれは本格的に寝かせようとしているのだと気がついた時にはもう遅かった。ずっと昔から、まるで魔法のように眠たくなるのだから面白い。下がっていく瞼に抗えず、伊織は再び深い眠りにつくのだった。