第8話 草の露白し ─筆─
今日からアオの住まいとなる宮──建物のことをそう呼ぶらしい──へ戻ってくると、残念ながら掃除などすべて終えた状態だった。
濁った水の入った桶を掴んで回廊にでてくるユイと目が合うと、彼は早足でアオに近寄ってきた。
「案内は終わった?」
「は、はい」
「どうだった?」
「ええと……あまり複雑じゃないんですね。後宮って」
アオは当たり障りないことを言った。
もう少しごちゃごちゃと建物が乱立しているのかと思っていたが、不必要な宮はなさそうだった。使用されていないものも理由があって作られているようで、その一つがアオのこれから暮らす宮、この天子宮であるそうだ。
しかしアオの発言にユイは眉を曲げた。
「複雑じゃない? 僕はそうとは思わないけど」
「建物がそんなに多くないなと思って……」
「ああ、建物が」
含みのある言い回しにアオは首を傾げる。
では、後宮にはそれ以外に複雑なものがあるということだ。室内が実は絡繰りだらけで──ということでもあるのだろうか。アオにはその程度のことしか思い浮かばない。
「それで誰かに会ったりした?」
ユイの質問でアオは先ほどであった少女を思い出す。たしかサキと言う名の彼女は、ユイの名前を出していたので二人は知り合いだろう。
「サキという人に会いました。ユイと同じくらいの……」
「何か言ってた?」
「ええと……巫さまのお世話係になったとか? あとは、ユイのことも聞いていました」
「その程度? アオは何かされなかった?」
「少し睨まれましたけど、それ以外は」
「ふうん」
この尋問にどんな意味があるのか。
しかしユイはアオのことを気遣ってくれているのか「それならいいや」と言って、そのまま水を捨てに行った。
太極宮と比べればこの天子宮は随分小さいが、中に入ればそれは間違いだったと一目瞭然だ。寝室ですら広さはあの洞窟の三倍はある。高さもそれなりにあって、身を屈めなくてはいけない心配など、もちろんない。
ユイは寝室の隣の部屋を開放すると、四隅に置かれた行灯に火を点し、畳張りの中央に置かれた足の短い机の場所に座るよう言った。アオはユイの方をちらちらと伺いながら机を前に膝を曲げる。
「文机の高さは?」
「ちょうどいいです」
「今日からそこで勉強するから」
「えっ」
アオは畳に手をついて声を上げた。
「なんだよ『えっ』って。まずは読み書きの練習から」
ユイはアオの目の前に腰を下ろすと、机上に置かれた木製の箱の蓋を取る。中には白い紙が束になって入っていた。アオは初めて何も書かれていない紙を見て口元を手で抑える。本当に真っ新だ。
「今からこれに文字を書くんですか?」
「そうだけど」
「もったいないです」
「大丈夫だよ」
同じ調子で硯と筆を用意すると、ユイは硯に水を垂らして墨を磨り始めた。
溝に黒い液体が少したまったところでユイはおもむろに立ち上がり、アオの背後にまわった。
「何をするんですか?」
アオの質問には答えられることはない。ユイはアオに筆をとるように言うと、アオの小さな手に一回りだけ大きな手を重ね合わせた。そしてユイの前身とアオの背面がぴたりとくっつく。
「な、なにするんですか⁉」
「うるさいな。文字を書くだけでしょ」
指を弄られ、アオは正しい持ち方に強制されると、筆はユイの力で動かされた。筆先に軽く墨をつけると、つるつるとした紙の上をすべる。
「これが『安』。わかった?」
「わからないです! 全然」
「腕の力を抜いて」
ユイはいたって冷静なので、アオは思い切って力を抜いてみた。すると先ほどよりも自然に筆が動いた。今度は強弱が滑らかについていて、綺麗に見える。
「『あ』?」
「そう。手を離すよ」
そう言うのが早いか、ユイの手はアオから離れた。筆を落としてしまうと思ったが、案外筆はアオの手の中にいた。
「……」
「ほら、同じように書いてみて」
しかしながら、それほど簡単なものでもなかった。
アオが一人で書いた初めての文字は到底読めそうなものではなく、アオもまたそれは文字ではなく下手な絵のように見えると思った。
下手な文字を笑っているだろうとユイを振り返ると、予想外にも彼は手のひらを見せて続きを書くようにと促してきた。アオは目を丸くして尋ねてしまう。
「これでいいんですか?」
「初めてにしては上出来だと思う。ほら、手を止めないで」
そしてそれから夕食が運ばれてくるまでの間、アオは初めて学んだ『安』の字をひたすら書き続けた。