第2話 禾乃ち登る ─奉納祭─
痛い。
アオは髪を引っ張られて、顔をしかめた。
「さっさと動いてくれないかね。こっちだって、やりたくてやってんじゃないのさ」
裸にひん剥かれた身体を突き飛ばされて、湯船の淵に手をついた。
沸いた風呂の中で見知らぬ女性に浴びせられた冷水の隙間から、アオは室内を見渡す。木でできた一室だけの部屋に囲炉裏と湯船だけ。
親を亡くしてから、ここまで素敵な部屋で過ごしたことはなかった。親がいた時は集落の中の一軒で暮らしていたはずだが、孤児になり作物が収められなくなって以来、洞窟でずっと過ごしてきたのだ。
アオは急かされて風呂から転げるように出た。
冷水一つでは驚かない。そもそも風呂などしばらくぶりで、ずっと水浴び生活だったのだから。しかし女性はアオの薄い反応が癇に障ったようだった。
「はっ。カミサマもかわいそうだね。食い扶持のない娘を食事に出されてさ」
アオは何も答えることなく、囲炉裏の前に裸のまま正座する。賛同したいところだが、そうすれば女性は怒りをあらわに何をするかわからない。
ぱちぱちと音を立てる囲炉裏に肌が温まっていくのを感じながら、アオは軽く目を伏せた。
奉納祭とはずいぶん面倒な儀式だ。
毎年、クニに統治される十二のムラから一つが選ばれ、そのムラの長の娘が生贄になる。
生贄とは人によって認識が異なっていた。政治の中心である宮廷に近いムラでは神の元へ行ける生贄を喜ばしいものとして捉え、こぞって生贄になりたがる。逆に言うならば、この蜂須賀村のようなクニの端のムラでは、生贄はなりたくないものという認識だ。
だからたまに、孤児から無差別に生贄が選ばれるなんてことがある。
アオはぐう、となるお腹に手を添えた。
断食から三日目。食事にありつけない日はあったが、三日続けて水すら口にできない日はなかった。
さすがに苦しい。
アオは浮きだった肋骨に手を添えて、目を閉じた。
しかしこの空腹もあと半日で消え去るのだ。
今日の夜が奉納祭だった。
アオが空腹を忘れようと夢の中へ向かおうとした時だった。部屋の扉が強く開け放たれて、三日前に体を清めてくれた女性が顔を見せる。
「祭壇の設置が終わった。用意を始めるよ」
アオの髪にはさみが入る。しゃきん、と金属の音とともに傷んだ黒髪が床に散らばった。
髪が顎で切りそろえられた次は顔だ。濡れた布で拭われると、目じりと口元に赤い紅が差される。生贄を望む少女たちは、これを喜んで受け入れるのだろうが、アオは何も感じることなく化粧を終えた。
そして三日裸で過ごしたアオに、上等な服が与えられた。
前合わせのつくりは見慣れたものだが、布の質はつるりと肌触りが良く、綺麗な石で飾られている。それから人の手によって豪奢な幅のある帯を締められた。
「さっさと祭壇に行きな」
「あ、はい。あの、支度をしてくれてありがとうございます」
「口を利いてくれていると勘違いするんじゃないよ」
女性はぶっきらぼうに言うと、アオの背中を叩いて部屋の外に突き出した。
ムラはこの数日の間で随分と変わっていた。
賑わいようは異常で、行く人すべてが何かを手に持っている。人々は同じ方へと歩いており、少し先に見えた人だかりには作物で出来た山があった。
アオは奉納祭を見たことがなかった。ここまで華やかな祭りだとは。
自分が半日後には死ぬことも忘れて、胸が高鳴る。
「……あの、祭壇ってここですか? 登っても?」
食べ物の山の後ろに設置された台を見つけて、アオは脇に立つ用心棒らしい人に声をかけた。彼はアオを警戒して手に持つ棍棒を一瞬構えたが、すぐに顔を正面に戻してしまう。
アオは思い出した。
奉納祭では基本、生贄と言葉を交わしてはいけない。
アオは仕方なく、周囲を見渡してから祭壇に上った。手足首に付けられた、たくさんの勾玉を通した装飾が、祭壇の板張りに当たってかちゃかちゃと音を立てる。
そして段の上で静かに正座をすると、食物を備えに来たムラ人たちが、アオを見て息を飲んだ。
驚いたことに、彼らはアオに向かって手を合わせはじめた。
アオは口を噤んだまま、目を見張る。ムラ人らの視線の先を追うように、アオの目が自身の身体に向く。
忌み子の象徴は服によって隠されていた。それを知らない人から見ればアオはただの孤児の少女だった。
アオは背中で燃え盛る聖なる炎の音を聞きながら俯く。そして化粧が滲まないように、涙をこらえた。
ムラ人の浅はかさと、残酷な運命がどうしようもなく憎い。そんな世界を作った神には、骨と皮だけの娘がお似合いだ。