第1話 禾乃ち登る ─孤児─
禾乃登
──稲が実り始めるころ。
ざくざくと、草鞋で山道を踏みしめる。
この辺りはアオにとって、とてもちょうどいい場所だった。獣道ですらない草をかき分け、新しい道を切り開く。人や獣の通った跡のないそこは、山菜や果物が実ったままになっていた。
頭上では今日も鳥が甲高く鳴いている。
胸の上で乱雑に切られた黒い髪を耳に掛けると、アオは木の根元にしゃがみ込み、そして今日も一つ一つと山菜を摘んで背中に背負ったかごへ放っていった。
ムラ同士の大規模な抗争に親を亡くしてもう十年がやって来る。つまりその十年間、この暮らしを続けているということだ。
じめじめとした洞窟の中に身を寄せる。中では薪、火打石、藁で出来た笠や蓑がそこらに無造作に置かれていた。こんな場所、獣はともかく人はやってこないので、多少不用心でも大丈夫だった。かごの中身をその小さな手で一握り掴み取ると、藁で編まれた布の中に収め、アオは少しだけ軽くなったかごを再び背負い直した。
アオは日の傾きを見上ると、洞窟から少し下に見える集落に目をやった。
「おじさん、こんにちは」
雨で少し腐食した木の扉を叩く。家の中からはすぐに女性や子供の怒号と、それを宥める男性の声が聞こえてきた。
思わずアオは自分のことだと、かごの肩紐を握り締める。きっと顔を出さない方が賢明なのだろうけど、頼りになるのはこの人だけだった。
しばらくして開いた扉から中年の男性が顔を出した。
「ああ、アオちゃん。今日も持ってきてくれたのかい」
「山菜を。近隣の方にでも配ってください」
助かるよ、と男性は言うと、アオから受け取ったかごの中身を覗き込んだ。そして、すぐに満足したように微笑んで頷く。そしていつも通り扉を開けたまま、かごを持って家の中に戻っていく。
アオは握り締めるものを失って、擦り切れてぼろぼろになっている前合わせの服の襟を掴んだ。
家の中からは呆れ半分の女性の声が聞こえて来ていた。内容は分からないが、アオはできるだけ意識を逸らす。聞きたくないはずだが、アオはその女性の声が嘲笑に変わったのに気づいた。
「まあ、今年の奉納祭の生贄はあの忌み児だもの。せいせいするわ」
やけにはっきりと聞こえたそれは、聞き間違いだと思えなかった。声の主はアオを酷く嫌う男性の妻のものだ。この家を訪れるたびに悪口が聞こえていたので、彼女がアオをどう思っているかは自明。
「扉を開けているんだ、聞こえたらどうする。可哀想だろう!」
男性は気まずそうな声色を混ぜて、ついに女性へ言い返したようだった。
すぐに男性は様々なものを詰めたかごを持って、玄関へ戻ってきた。
「……ええと、今年の奉納祭はうちのムラでやるんですか?」
アオは聞かずにいられなかった。
男性に複雑な表情をさせてしまうのは分かり切っていたが、聞かないわけにはいかない。生贄とは何か、洞窟暮らしのアオでも知っている。
男性はアオの質問に、酷く眉を下げて顔を逸らした。
「……すまない。私の手ではどうにも」
「いや! ちがう、ちがうんです」
男性にこんな顔をさせたかったわけじゃなかった。
むしろ良かったのだ。こんなにいい人の足枷であったことは、自分自身を苦しめていた。この奉納祭でこの世を去れるなら本望。それを確認したかっただけだ。
忌み子と蔑まれるアオが神の食事になれるのは、むしろ飢え死によりよっぽど良いことだった。
アオは顔を歪める男性の腕に触れようとした。
「泣かないでください──」
「さわらないで、この毒娘!」
アオは家の中から聞こえてきた声に驚いて、その手を引っ込めた。声の方を見ると、いつか見た男性の妻が鬼の形相でアオを睨んでいる。
「……ごめん、なさい」
どうしようもなくなって、そこに置かれたかごを受け取り小さく感謝を残すと、アオはその場を去った。
村の道を歩く。顔を俯かせて、かごの肩紐を握り早足で集落を抜ける。
行き交う集落の住人たちは、いつもと違ってアオを見るなりおもちゃにするように笑った。
──ちょうどよかったわね
──孤児はこういうとき役に立つなぁ
──長の家から生贄を出さずに済むなんて
なりたくてなったわけじゃない。
孤児も、忌み子も。
両親はムラ同士の抗争で儚く散ってしまっただけで、忌み子であるのも不可抗力だ。
アオは下唇を強く噛んだ。