人形はなぜ、人の形をしているのか?
なぜ、人形は人の形をしているのだろう。それは人形だからである。では、なぜ人間は人の形をしたモノを作ろうとしたのだろうか?
私の名前は道神不伊。私の寝室には人形が置いてある。私は夜寝るときにその人形と目が合うときがある。そんなときは怖くて眠れなくなるのだ。なぜ、人間はあんなモノを作ったのだろう?私はあの人形を処分したい。だが、処分するのはなぜか抵抗がある。なぜなら、呪われるのではないかという不安があるからだ。私はそういったことは信じない。例えば、占いは信じたこともない。私は決意をした。「よし、今日こそ捨ててやろう!」私はその人形をごみとして処分した。
その一週間後、私は交通事故に遭った。現在、私は入院中だ。人間は不思議な生き物だ。この事故も人形を捨てたために起きたのだと因果関係を結ぼうとしている。それは絶対にありえない。私は呪いなど存在しないと思っているからだ。
そんなことよりも私は事故を起こしたというのに誰も見舞いに来ないではないか。私はそんなに嫌われていたのか?いや、違う。私は現在、無職であり、人と関わっていなかったのだ。私は一人暮らしをしている。無職というのは家族には黙っていた。家族が私の事故のことを知れば、無職だということがいずれバレてしまうからだ。私は嘘をつくことが得意ではない。きっと、すぐに家族にバレてしまうだろう。私が事故に遭ったことを知らなければ、嘘をつくこともないため、これが一番の得策である。
数か月が経ち、私は退院した。退院をして、家に帰ってもやることがない。理由は無職だからだ。趣味も特にない。私が無職である理由は仕事での人間関係やその企業がブラック企業で月に45時間以上は働いていて、精神的にも肉体的にも限界がきたからだ。そんな経験をしたせいなのか、仕事をしたいと思わなくなってしまった。だが、私は真面目であるため、アルバイトくらいはやっておこうと思った。なんとなく、SNSで調べてみた。【「高額」「即日即金」「ホワイト案件」】と書かれた求人情報があった。完全に闇バイトである。
アルバイトの面接を受けに行った。結局、近くのコンビニがアルバイトを募集していたため、そのコンビニのアルバイト面接に行った。しかし、受からなかった。これは私のコミュニケーション能力の問題だろう。決して、人形をごみとして処分したからではない。と思いたい。今になって、あの人形の処分の仕方がアレで本当に良かったのかと思ってしまう。私の地域では人形は燃えるゴミとして処分して良いので、私は燃えるゴミとしてゴミ捨て場に置いた。人形をオークションサイトで売るだとか、神社でお祓いお祓いをして処分するだとか色々あっただろうにどうして私はあんなことをしたのだろうか?人形がかわいそうだ。こんなことを考えるなんて私らしくもない。全て私のせいだ。私の不注意で事故に遭い、私のコミュニケーション不足でバイトの面接が落ちたのだ。認めなければなるまい。
人形にはどんな役割があるのだろう?それは人間の子どもが人と会話をする準備を行うために人形は存在するのだろう。子供は人形に服などの装飾品を付けさせ、人形を自分の子供、たまは友達として振る舞う。そして、子どもは人形とおしゃべりをするのだ。ときには、自分が第三者となり、人形同士で会話をさせたりする。これは人間の想像力がなければできないだろう。例えば、サルが人形で遊ぶ際は人形を投げたり、食べたりするだけで、人形と人形で会話させるといったことはできないはずだ。つまり、人間だけができるのだ。人形と会話をすることによって、コミュニケーション能力を高めているのだ。
なぜ人間は人の形をしたモノを作ろうとしたのだろうか?の答えとして、ただの人間の好奇心だろうな。と私は考えた。
私は新しい人形を買った。その人形と話した。理由はコミュニケーション能力を高めるためだろう。自分でもよくわからない。
私は真面目なので、中途採用をしている企業を探し、面接を受けることになった。結果は落ちた。メールの内容の最期には「活躍をお祈りしています」と書かれていた。私はよれを読み、自分も神社へ行き、神様にお祈りをしようと考えた。もう、私だけの力ではアルバイトも転職もできたものではない。この世のものではないチカラで何とかしてもらおう。私は学生の頃から真面目で学校など一度も休んだことはなかった。もちろん、遅刻もしたことがない。こんな私でもうまく人生を歩めないのだ。これは不思議なチカラが働いているとしかいいようがないだろう。私は人形をごみとして処分した。過去のことは変えることができない。人形は私に呪いをかけたのだろう。それを今日、私は神社で神に頼み、人生を良くしてもらおうではないか。と考えた。
私は神社に来た。早速、神に頼もう。
「今年中に転職できますように。最悪、アルバイトでも良いです。受かりますように」
私はその後、数々の選考を受けたが、ことごとく通らなかった。
やりたいこと、自分にできること、生きる意味、自分とは、そんな悩みを選考で落ちるたびに考える。これの繰り返しである。もう、疲れてきた。自分でも自分のことがわからないのだ。現在の日本は奴隷というものがなく、皆が自由である。しかし、その代償として自分で考え、行動しなければならない。つまり、悪いのは必然的に己の実力不足となる。「私の人生は終わったのかな?」私は人形に尋ねる。
「終わってなんかないよ!君なら大丈夫さ!」人形が話した。これは幻覚ではない。私が正気だからだ。私が狂っているのなら、これは幻覚だと思ったかもしれない。だが、私は私のことを正気だと思っている。ならば、正気だろう。
「だよね」私は人形に尋ねる。
「そうだよ!ほら、向こうに希望の光が見えるだろ?そこに行けば、君は変わることができるよ!」人形は動き、人形の指の指す方向には眩しすぎるほどの光があった。
「本当だ」私は希望の光を見た。それはとても輝いていて、中に入れば気持ちが良さそうだ。私はその光の方へ向かった。私は最高の世界へ旅立つ。
The end.