第02話 女子生徒、異界に降り立つ
少女は時空を越えた。
夢か現実か。 嘘か真か。 狂気か正気か。 生か死か。
1度は途絶え、また取り戻した意識の中で、少女は何かを悟った。
どこか懐かしい呼吸の感覚と、真新しい記憶から導き出された確かな答え。
『あたし、きっと何処かへ飛ばされた』
不気味な空気に包まれた広い部屋。
その中央、直径5~6メートルはある丸い段差の中心に楓は横たわっていた。
彼女の瞳にまず映ったのは、黒く薄汚れた天井。
ひんやりとした空気を肌が敏感に感じ取り、楓は自然な動作で上半身を起こす。
「おおおおおおおおお…!!」
突然、室内にどよめきが湧く。
ビクッと反応し、周囲を見渡した楓は、ゾッと背筋を凍り付かせた。
「ひ…ひぃぃぃやぁぁぁあああああっ!!!!」
自分を取り囲む異形の者達。
悲鳴にもならない声を上げ、咄嗟に立ち上がろうとするが思う様にいかない。
それらが声の主だと瞬時に理解した楓だが、余りの恐怖に腰を抜かしてしまったのだ。
「確認したい、貴方様が邪神であられるか?」
進み出て来た1匹の野獣が、疑いも含めて楓に問う。
質問の内容どうこうより、到底人間とは思えない怪物が話す巧みな日本語。
驚愕と恐怖が頂点に達した楓は、もはや目と耳を伏せその場で身を震わせていた。
「はてさて…人間の姿を模した変幻自在の神か、もしくは人間の体に乗り移っているだけか、それとも……正真正銘、只の人間なのか」
興味深く楓を見据え、そんな呟きを漏らす。
直後、リーダー格と思われるその野獣は、他の者達にある命令を下した。
「この小娘を牢獄まで運べ。 お前等が何事も無く連れて行ければ、我々の召喚術は失敗に終わったという事」
「あー…つまり、どうゆう事で?」
「つまり邪神ではなく人間。 煮るなり焼くなり食うなり、お前らの好きにしろ」
そんな会話を聞き、楓の恐怖心は何倍にも膨れ上がる。
決して逆らえず、抵抗する事も出来ぬまま、楓は数匹の野獣にその身を担ぎ上げられた。
そのまま部屋を出ると、暗く湿った通路を、楓は地下牢獄へと運ばれて行った。
牢獄までの道。
制服のスカートから肌けた太股に、固く冷たい腕の感触を感じながら。
自分でも驚く程に冷静さを取り戻した楓は、無駄と分かりつつも抵抗すべきか頭を悩ませていた。
先程の会話からすると、早く逃げなければ殺されてしまうからだ。
「くっ…ぅぅ!」
試しに足掻いてみたが、掴まれた両手両足はピクリとも動かない。
「お、逃げる気らしいぜ?」
「軟弱だねぇ…でもよ、若い女の肉は美味いらしいぜぇ」
言って、高々と笑い声を上げる2匹の野獣。
楓はまた恐怖し、青ざめた表情で全身を硬直させる。
そうして死への行軍は続き、やがて辿り着いたのは暗い地下監獄。
片方が扉を開け、もう片方が楓を放り込む。 地面に叩き付けられた楓は、痛みに耐えつつ2匹の動向を目で追う。
「どうやら邪神じゃねぇらしい」
「だな、生で食っちまうか」
舌舐めずりをしながら、2匹の野獣が楓に詰め寄る。
しかし直後。
後ずさりしていた楓は、眼前の巨体に異変が起こった事に気付く。
何故か2匹とも立ち止まり、その目は一点を見つめたまま何の反応も示さない。
「!?」
ドシャッ、と鈍い音を立て地面に倒れた野獣達。
呆然と見つめる楓の目に、その後方に立つ1人の男の姿が映る。
「人間の娘が何故ここに…立てるか?」
そう言って、スッと手を差し伸べる若い男。
突然の事で暫く反応出来なかった楓だが、それは相手の風貌に目を奪われていたに過ぎない。
やや青みがかった銀白色の短髪に、彫りの深い端正な顔立ちをした異国人。
細身で背も高く、その身を包む見慣れない衣服と、右手に持った長く真っ直ぐな剣。
「あ、あの…」
「ケガは無さそうだな。 立て、逃がしてやる」
手を引かれ、強引に立たされた楓。
その手を握ったまま唐突に走り出した男に、楓は素直について行くのだった。
何処をどう走ったのか分からない。
逃走中、楓が気を取られていたのは現状に対する数々の疑問。
ここが何処なのか。 あの怪物達が何者で、何故人語を扱えるのか。 そして何故、この男に言葉が通じるのか。
「あ、あの…!」
「ん」
「あなたは誰ですか…!?」
「話は後だ、今は走れ」
この男は自分を助けてくれた。
理解不能な現実ばかりの中、今の楓にとっては、それのみが只1つ確かな事だった。
地下通路を抜け、階段を駆け昇り、長く伸びる回廊の途中、そこで男は立ち止まった。
「あそこから出れば一気に外だ」
男が指差したのは、高さ5メートル程の位置にある小窓。
「え…で、でもあんな場所…」
「抱えてやる」
言って透かさず楓を抱き上げた男は、1歩下がると、姿勢を低く構える。
「しっかり掴まってろ」
勢い良くジャンプした男は、片手を使って壁にしがみ付く。
その手と両足を上手く窪みに引っ掛け、楓を抱えたまま垂直の壁を器用によじ登って行く。
小窓に達した所で、男は躊躇いも無くそこから飛び出る。
「キャッ…!」
ズシャッ。
地面は遠かった。 しかし男は難無く着地し、その場にソッと楓を下ろした。
「もう少し走るぞ、追手が来ると厄介だ」
「は…はい」
そこで初めて見る外の世界。
昼間ではあるが薄暗い曇天の空に、鋭く切り立った山々。 それは見た事も無い、まるで別の世界。
そんな景色に圧倒されつつ、楓は男の手をギュッと握り、ひたすら荒野を走るのだった。
この世界の名はアクヴェスト。
ここはアイゼン大陸の奥地で、人も滅多に近寄らない辺境の地。
楓が降り立ったあの砦は魔王の居城跡で、先程の野獣達はそこに住み着く魔王の元配下であった魔族。
勇者によって魔王が滅ぼされて120年。
生き残った魔族達は、再び暗黒の時代を築き上げる為、新たな魔王となる存在を求めていた。
そこで彼らは禁断の召喚術を用い、魔族や魔物を統べるに相応しい“強大な力を持った邪神”を異世界から呼び出そうと目論んでいた。
「そんな不吉な預言を聞いてな」
小さな岩に腰掛け、一頻り話し終えた男の名はルウェサマージ。
彼は魔王配下の残党を退治すべく、たった1人でこの場所を訪れていた。 その途中に楓を発見した事で作業を中断し、まず彼女を安全な場所へ逃がす事が優先と考えたのだ。
「えっと、ルウェサ…マージさん」
「サマージで構わない」
「あ…えっと、サマージさんは何人ですか…?」
安全な場所まで逃げ切った所で、2人は互いの素姓を明かし合う事に。
状況が飲み込めなかった楓は、自分の事を話す前に、まず最も気になっていた質問をぶつける。
「出身国を聞いているのか? ウェステマ大陸のジキルド国生まれだ」
「ウェス…テマ? ジキルドって…何処の国? っていうか…に、日本語がお上手ですね!」
「ニホンゴ? …お前の事を教えろ、こんな場所で何をしていた」
数々の疑問を抱えつつ、楓はこれまでの経緯を正直に話した。
朝の洗面所で兄が忽然と消えてしまった事。 その後、自分も同じ様にして消えたらしい事。 そして気が付いた時には、あんな場所で怪物に囲まれていた事。
事情を聞いたサマージは、彼女がこの世界の住人ではないと確信した。
彼自身は決して召喚術を扱える訳ではなかったが、召喚獣や異世界の存在自体は認識しており、術についても一般人よりは詳しかった。
状況から察するに、砦の魔族に召喚された確率が極めて高く、しかしそれが異世界の人間というのが気掛かりな点でもあった。
「お前は別世界に召喚されたらしい、その兄とやらもな」
「べ、別世界!? じゃあここは本当に…」
「まぁ信じられんと思うが、その衣服から見て間違いないだろう」
言って、楓の服を訝しげに見るサマージ。
楓が着ているのは白の半袖カッターシャツに、赤チェックのスカート。 つまり中学の制服で、サマージからすれば何処の民族衣装にも似つかない珍しいものだった。
「お前の名は?」
「えっと、緋之元 楓です」
「ヒノモトカ……カエデと呼ばせてもらう」
「あ、はい」
サマージは決断した。
魔族によって召喚された存在だとしても、召喚獣でない事は確か。 人間である以上は害も無い筈、と考えたのだ。
「カエデ、お前の兄もこの世界に呼び出された可能性が高い」
「え、じゃあこの近くに…!」
「いや、この周辺に居る可能性は極めて低い」
サマージがそう断言した根拠は幾つかあった。
どんな術士でも1度に複数体を召喚する事は不可能で、召喚された者は、必ず召喚者によって描かれた魔法陣の上に降り立つ。
そしてこの辺境の地で、他にも召喚術を発動した者が存在したとは到底思えない。
「偶然、ほぼ同時に他の場所から呼び出されたのかもな」
「……」
「行くぞ、ついて来い」
「え…」
立ち上がたサマージは、正面に座っていた楓の間近まで歩み寄る。
「兄探しと、元の世界に帰る方法探し…協力してやる」
「帰れる方法…あるんですか!?」
「召喚術にはそこそこ詳しいが、別に俺は専門じゃない。 やり手の召喚士に会えば何か分かるだろう」
言って、楓の腕を引きスッと立ち上がらせる。
「…何処に行くんですか?」
「ベクサータという町に向かう。 そこの魔召研究所で召喚士に会えるだろう」
「ま…しょう?」
「誓術や召喚術を研究する軍の施設だ。 …軍というのは帝国軍の事で、帝国とはこのアイゼン大陸全土を治めるラバノン帝国だ」
「はぁ…」
楓にとっては、質問の答え全てが意味不明だった。
しかし例え理解不能でも、この親切なサマージという紳士に従う選択しか、楓には残されていなかった。
土が剥き出しの地面。
巨大な岩と枯れ木に囲まれた不気味な道。
ベクサータまでの道中、2人の間には暫し沈黙の時間が続いた。
暗い雰囲気を盛り上げるべく、また、サマージとの会話を弾ませるべく、楓は自分が合唱部にいた事を話題として持ち出した。
「ガッショウブ…何だそれは」
「えっと、歌って知りませんか?」
「歌なら知っている、よく旅芸人が酒場でやっているアレだろう」
「旅芸人……あ、とにかく歌が得意なんです!」
楓の言葉に興味を抱いたサマージは、なら見せてみろと言い返した。
自分の置かれている状況も忘れた呑気な楓は、小学校の頃に合唱コンクールで歌って以来、お気に入りになった歌を披露する事にした。
「コホン、ではでは」
「立ち止まるな、歩きながらにしろ」
「あ、はい…」
言われて、楓は足を運びつつ、両手をスッと胸に当てる。
「たとえばきみがー傷ついてーーーくじけそおーになーーったときはーーかならず僕がーそばに…」
「わ、分かった! もういい!」
「いて…え? もう?」
「…歌が上手いのはよく分かった」
口を尖らせ、あからさまに不満げな表情を見せる楓。
サマージが即座に制止した理由は、歌い出した直後、楓の全身が神秘的な白い光に包まれるのを見た為。
更に、楓が向いていた前方、丁度その地面に這っていたヘビが、燃え尽きる様に消滅してしまったのだ。
歌った楓自身は、それらの現象に全く気付いていない様子だった。
しかし彼女には何か不思議な力が宿っていると、この時サマージは知るのだった。