ニュー・トーキョー湾 ブルース
チバの最下層。
ボーソー半島側から眺めるニュー・トーキョー湾は、黒一色に沈んでいた。張り出した上層階の床版が、すっぽりと湾を覆い隠していたからである。
深夜のような影の中、湾の水面はまるで波立つ黒インク。
その浸かるか浸からないかの低空を、ソウナの「テトラクテス」は飛んでいた。
目指すのは、旧・臨海副都心。
そこから下層下町を経由して、かつて暮らしたブンキョーへ戻るつもりだった。
行く手には、たくさんの危険が待ち受けているのは解っている。
ヤヤ・ヤマの親分の殺害は、今や組の残党だけでなく自警も捜査に乗り出して、自分はその重要参考人だ。
それでも、あの場所に戻らない訳にはいかなかった。
残してきた電気の飼い猫──キジローである。
実をいえばソウナは、電子空間上にあるバックアップからキジローの復元を試みた。
新しい躯体を用意し、データを移す──
みだりにキジローを複製するのは気が引けたが、そのときは戻ることにリスクを感じていた。なによりシノ捜索は完全に行き詰っていて、その心細さといったらなかったのだ。
が、奇妙なことに、再構築した二番目のキジローに以前のような利発さはなかった。
まるで意思や感情を持っているかのように見えた、最初のキジロー。
それに比べて二番目は、電気街に売っているオモチャのAI並みだ。
ソウナはようやく、自分がすべきことを見つけた。
まずは、愛猫を迎えに行くのだ。
シノの不在をただ嘆くよりも、何かに向かって進む方が良い。
キジローの謎はきっと常駐者の謎に繋がっているはず──それが、ソウナの答えだった。
警告音が鳴った。
ソウナの意識と直結した飛行車のレーダー。
ヘッドランプの光など気休めにしかならない進行方向に、何かを捉えた。
大きかった。
廃棄されたオイルリグ用の作業ドローン? かと思ったが、そうではない。
どこかの企業が組織した軍隊──その輸送艦だ。
自然と、舌打ちが出る。
わざわざ海路を選び、大した海面効果も得られない飛行車ですれすれを飛んでいるのは遊びではない。人目を避けるはずだったのに、運が悪すぎる──
いまさら遅いが、とりあえず飛行車の速度を落とす。
ハックせずとも、艦の所属はすぐに分かった。
ウエスギ・グループ・ホールディングス。
たしか、オーギガ製薬などを傘下に収める巨大企業の一つだ。
積荷はドローンと兵員らしいので、どこかで企業戦争でもするのだろうか。それとも単に、通常の移送──?
「──未確認車両に告ぐ。どうして湾内を飛行している? IDと許可証を提示せよ」
──いつからニュー・トーキョー湾は、一企業の専有物になったのだろう?
そういえばシノの捜索時、地方報道局のメディアパスを偽造したのを思い出し、送信する。
「──イバラキから、ここへ取材に? そいつはとってもご苦労なことだが、一体なにを報道しようってんだ? ここはプランクトンすらいない死の海だぜ?」
「まさにそれですよ。上層階の床版によって日光が遮られ、ニュー・トーキョー湾は酷い生態系の破壊が進んでいます。まずはプランクトンを再生させようという市民運動はご存じですか? 床版の面積が今の半分になれば、それだけで降り注ぐ光度エネルギーが上昇し──」
「──あー、解った解った。もう結構。ただし湾内は現状、我々企業軍の営利軍事作戦下にある。即刻退去し、日を改めること。──以上だ」
輸送艦の進路は、どうやらソウナが目指す方向と同じであるようだった。──まったく、本当にツイてない。
仕方なく車を反転させ、感知されない範囲から迂回路をはじき出す。
いくらも進まない内に、また警告音が鳴った。
けれども、それはレーダーではなく、事前に仕掛けておいた検索の網に何かが引っ掛かったときのもの。
──まさか、シノの情報!?
急いで確認する。
シノに関するものではなかったが、ソウナはその通知に驚いた。
ついに、動きがあった!
サモジロー・アボシが持ち逃げした、名刀村雨丸。
それが突如、オンラインに復帰したのである。




