終わった世界のゆりかご
少女が瞼を開くと、そこは見知らぬ場所だった。
薄暗い室内である。壁が丸太なので、少女はここがログハウスの中だと判断した。さほど広くはない。少女が座り込んでいるのはひやりとした石の上だ。地面に埋め込まれている丸い石は柔らかくない大きな座布団のようだった。何か模様が刻まれているようだが読み取ることはできない。
何も言わずに少女は視線を下へと動かす。少女が瞼を開いてからずっと、一人の少年がそこに跪いていた。片膝をつき、顔を俯けてただそこにいた。
少女のうつろな視線が少年を見下ろす。けれど何を言うこともなく、少女はただゆっくりと瞬いている。少年も跪いたまま動かない。沈黙が二人の間に横たわる。
しばらくの時を置いて、少女がわずかに身じろいだ。衣擦れの音に少年が顔をあげる。初めて視線を合わせた少年は、柔らかく微笑むと再び頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました、聖女様」
聖女、と呼ばれた少女は何も答えることなく少年を見つめている。それにかまわず、少年は少女に話しかける。
「説明をさせていただきます。まずは場所を移しましょう。立てますか?」
問いかけに反応はない。微笑みを絶やさぬまま少年は少女の手にそっと触れると立つように促した。うつろな目の少女はされるがままによろめきながら立ち上がる。
「どうぞ、こちらへ」
手をつないだまま少年はログハウスの扉を開けた。少年の手に引かれて外へ出た少女はその風景を見てぎくりと体をこわばらせる。
「大丈夫です。ここは結界の中ですから、危険はありません」
そう言い切って少年はゆっくりと少女を導いていく。先ほどまでいたログハウスからは細い道が伸びていて、そのわきにはのどかな田園風景が広がっていた。ひどく静かな光景だった。少し離れた畑には一人の人がいて、少女と少年の姿を認めると深々と頭を下げた。その人のほかは、誰とも会うことはなかった。
やがて二人は一軒の家にたどり着いた。最初の物よりも大きいログハウスである。少年が扉を開けて少女を中へと招く。扉を開けたその部屋はリビングになっているようで、テーブルと椅子が二脚備え付けられていた。さらに奥にはキッチンとみられる場所がある。
「こちらにおかけください」
少年は少女を椅子に座らせるとキッチンへ向かう。少女がただぼうっと座っていると、木のカップを二つ手にした少年が戻ってきて一つを少女の前に置いた。
「果物を絞ったジュースです。聖人様、聖女様方みな好まれていたと聞いています」
少年が飲んで見せても少女は動かない。カップの水面をじっと見下ろすばかりだ。少しの沈黙の後、少年が口を開く。
「現状の説明をいたします。疑問があれば何なりとお尋ねください」
少女の視線がのろのろと上がり、光を映さないうろのような瞳が少年を見た。しかし言葉が発せられることはない。疑問の声が上がらなかったので、少年は自分から話を始めた。
「まず。ここは死後の世界ではありません。聖女様がいた世界とは違う世界……異世界、と言って伝わりますでしょうか」
「……異世界…………」
初めて少女がつぶやいた。少年ははい、とうなずく。
「私たちが聖女様をお呼びいたしました。同意を得ず、勝手に召喚してしまったこと、深くお詫びいたします」
笑顔を消して少年は深々と頭を下げた。少女はぼんやりと少年のつむじを見つめていたが、このままではずっと少年が頭を下げたままであることに気付き、言葉をこぼす。
「……続けて」
ようやく頭を上げて少年はこくりとうなずいた。
「次に。私たちが聖女様をお呼びした目的ですね。聖女様にはこの場所を覆う結界を維持して頂きたいのです」
そう言って少年はついと視線を窓の外へと動かす。つられて少女も窓の外を見て、眉根を寄せた。
「……結界」
「はい。とは言いましても、聖女様は厳しい修行をなさったりする必要はありません。祈りを捧げたり、身を清めたり、そういった必要もありません。ただこの場所にいてくださる、それだけで自然と聖女様のお力は広がり、結界を維持することができるのです」
少年の言葉を聞いて、少女は寄せた眉根をそのままに少年へと視線を向ける。
「意味が、わからない」
「聖女様はここにいていただき、安らかにお過ごしください。身の回りの世話は私がいたします。畑や家畜の世話は他のものが担っています。聖女様はお好きなことをなさってください。もし出歩きたければそのように。食べたいものがあればここでできる限り用意いたします。眠りたいときに眠り、起きたいときに起きてください。私たちは力の及ぶ限り、そのすべてをお支えいたします」
少年が言葉を重ねるごとに、少女の眉間のしわは深くなっていく。少年が困ったように微笑むと、少女はふるりと首を横に振った。
「……信じられない。意味が、わからない」
「しかし、事実なのです。この『ゆりかご』は聖女様のお力で保たれる。私たちは『ゆりかご』を維持していただく代わりに、すべてを聖女様の思うがままお過ごしいただくのです」
しかし少女は首を横に振ってうつむくばかり。少年はゆっくりと息を吐きだすと、姿勢を正して少女へ語り掛ける。
「お聞きください、この世界の顛末を。愚かなる私たちがいかにして世界を終わらせてしまったのかを」
遠い遠い昔。この世界がまだ生きていたころの話。この世界では人間と魔族が勢力争いを繰り広げていた。
数で優るが個で劣る人間、数で劣るが個で優る魔族。両者は一進一退の攻防を続けていたが、やがて徐々に力で優る魔族に天秤が傾き始める。
不利を悟った人間が決断したのが、異世界から強い力を持つ者を召喚するという方法だった。
男であれば聖人と呼ばれ、女であれば聖女と呼ばれた彼らは、様々な世界から訳も分からぬままこの世界へとさらわれ、戦いを強制されることとなったのだ。
家族も、友も、恋人も。学校も、仕事も、楽しみも。何もかもすべてを奪われて、帰ることもできぬと言われ。召喚した者たちは召喚された者たちにひそりと枷をつけたうえで最初は泣いてすがり、情に訴えなだめすかして、それでも従わなければ枷を締め上げた。呼ばれた者たちは、召喚した者たちにとって都合のいい道具でしかなかった。
召喚されたものの中には戦いを知るものもいたが、全く知らぬものいた。たとえ戦えたとしても、突然さらわれた先の世界で快く戦ってくれるものはそうそういない。何人もの聖人、聖女たちが使い捨てられていく。そうして憎悪は降り積もる。憤怒が世界に染み込んでゆく。悲哀が空に溶けてゆく。攻める魔族も知らぬうち、反撃する人間も気づかぬうちに世界に呪いが満ち満ちる。満ちて、満ちて、消えることもなくため込まれ続け、そうして、終わりが始まった。
きっかけは一人の聖女。ひときわ強い憎悪をもって抗った少女。何をしても従わず、抗い続け、呪詛を吐き、使い物にならぬと処分され……そして彼女の血が大地に滴り落ちたそのとき。世界中に満ちた呪いが一斉に目を覚ましたのだ。
世界が終わったその日。突如として渦巻く泥のようなどす黒い何かが聖女の血を吸った大地から吹き上がった。その泥は聖女を処分した者どもを真っ先に呑み込むと、世界中を包むように広がった。日の光は遮られ、その日から空は呪いになった。
空を覆ったうごめく泥は呪いそのものだった。心の弱いものはそれを目にしただけで狂って死んだ。死ななかったものたちも絶望に包まれた……その呪いは、この世界そのものを滅ぼすまで決して止まらないものと知ったからだ。
聖人・聖女たちを召喚したかどうかなどもはや関係ない。知っていたか、知らなかったかなども関係ない。人間だろうが魔族だろうか、それすらも関係ない。呪いに理性などない。あるのは復讐だけ。呼ばれる原因となったこの世界をかけらも残さず消し去るまで、復讐は終わらない。
当時呼ばれていた聖人・聖女たちの反応は主に二つに分かれた。呪いに歓喜し、同調し、さらに強めるべく己の身を呪いにくべたもの。意に染まず召喚されたこの世界で、それでも出会った優しい人々を守りたいと願ったもの。
守ることを決めた聖人・聖女たちは自然と一カ所へ集まることとなった。救いたい人々を率いて、少しでも呪いの影響の少ないほうへと向かっていったからだ。その他にも自力で逃れてきた人間や、もはや争う意味をなくした魔族も集まってきていた。争わないならば、と聖人・聖女たちはみな受け入れた。もめている時間すら惜しかった。とはいえ解決策などなかった。世界は既に呪いで覆われ、逃げ場などどこにも存在しなかった。この世界は終わりを迎えたのだ。できることがあるとすれば……後のない、先細るだけのいずれ消えることが確定した延命だけだった。
聖人・聖女たちは話し合った。呪いは恨みがより濃く染みついた場所から襲っているようだったので、争いから遠く離れた山奥に逃げてきた彼らにはわずかに時間が残されていた。呪いが全てを呑み込む前に、この場所に人々を守る最後の砦を作らなければならなかった。
彼らは力を合わせて呪いに耐えうる結界を構築した。集まった人々がその中に村を作った。もはや出ることの叶わぬ、恐らく世界にたった一つだけ残った村だ。人間も魔族も、聖人も聖女もみな等しく閉じ込められた。彼らはこの新たにして終の故郷たる牢獄を、『ゆりかご』と呼んだ。
呪いが結界の外の世界を全て呑み込んだのは、それからしばらくのことだった。
「……『ゆりかご』」
「はい」
「ここが?」
「はい。呪いを押しとどめる結界の中。私たちに唯一残された棲みかがこの『ゆりかご』です」
少女は窓の外を見る。のどかな田園風景の上、少女の常識では青い空が広がっているはずのそこは、どろりとした呪いの泥に覆いつくされている。重く、重く、のしかかっている。
「……あれが、呪い」
「はい。私たちが犯した、何をしても雪ぐことのできない罪の証です」
少年は穏やかに答える。ずるりずるりと呪いがうごめく。結界の上をすべるように。どこか隙間がないかと探るように。この中に残る人々を、一人たりとも逃さぬように。
少女は呪いからすっと目を逸らした。正面に座る少年は変わらぬ笑みをたたえている。
「……それなのに……どうして」
「どうしてあなたを召喚したのか、ですね」
ぽつりとこぼした少女の言葉を、少年は拾い上げる。
「もちろんお伝えします。終わった世界で、残された私たちがどのような道を選んだのかを」
結界によって完全なる滅びを先延ばしにした彼らだったが、問題は山積みだった。最も重要な問題は、結界とその内部の環境がすべて聖人・聖女たちの力によって保たれていたことだった。
聖人・聖女たちとて限りある命である。彼らが死んだとき、その恩恵は絶える。彼らの力が子孫に引き継がれることはないからだ。ゆえに彼らは召喚され続けた。
この『ゆりかご』を保つには聖人・聖女たちの力が必須。しかし今いる聖人・聖女たちが死んだあと、『ゆりかご』を残そうとするのであれば……それはつまり、彼ら自身の手で新たな犠牲者を召喚しなければならないということであった。
迷い、悩むあいだにも時が流れる。状況が変わる。新たに子が産まれた。広い空を知らず、広い世界を知らず、呪われた空の下、狭い牢獄のここでしか生きられない子だ。ここがなくなれば、同じくなくなる子だ。終わった世界でも命はつながっている。先細っていても、今は確かに。この場所がある限りは。聖人・聖女たちが年を重ねる。残された時間が減っていく。
そうして彼らは決めた。『ゆりかご』を存続させることを。そのために、罪を犯し続けることを。
新たに聖人・聖女を召喚する。新たな犠牲者を自らの手で生み出す。それしか方法はなかった。
とはいえ以前のように、次々と呼び出して無理矢理従わせるような真似をするはずがない。それは彼らにとって最も忌むべき行為だ。いくら存続を目的としても、そこだけは譲れない。召喚前に意思の確認ができれば最善だったのだが、残念ながらそのような手段を確立することはできなかった。
ゆえに、条件を設定した。厳しく、いくつもの。もし条件に合う人物がいないのであれば、それはもう仕方がないこととあきらめることにして。
幸いに、と言っていいのか。『ゆりかご』内での初めての召喚は成功をおさめ、それ以降連綿と続けられることになったのだった。
「……そうして、今に至るのです」
この『ゆりかご』の歴史を語り終えると、少年はすこし疲れたように息を吐く。
「いかがですか、疑問がおありでしょう。聞きたいことは何でもお聞きください。すべてに嘘偽りなくお答えいたします」
顔を青ざめさせた少女は口を開き、何も言えずに閉じた。視線をさまよわせ、迷うそぶりを見せながら何度かそれを繰り返したのちにようやく声を発した。
「……じゃあ、私のほかにも、いるの?」
「いいえ、今はおられません。『ゆりかご』の環境が整ったあと、初代様方は『ゆりかご』において常に聖人・聖女様方を一人きりしか呼べないよう制限を設けました。先代の聖人様が身罷られたので、聖女様をお呼びしたのです」
答えを聞いた少女はしかし、顔色が悪いままだった。何かを言いよどみ、視線をそらす。少年はせかすことなく、ただじっと少女が口を開くのを待った。
そうして、ようやく。少女は自分が一番聞きたかったことを口にした。
「どうして、私が、呼ばれたの?」
少年はその問いが来ることを知っていたかのようだった。
「たくさんの条件が設けられたと聞いています。そのすべてが伝わっているわけではありません。ですが、おそらく聖女様がお知りになりたいのはこの二つかと思います」
そうして少年は少女へと答えた。
「一つ目の条件は、呼ばれるものが元の世界に未練を持っていないこと」
びくり、と少女の体が震える。
「そして二つ目の条件は、呼ばれるものが元の世界で命を絶ったことです」
ああ、と少女は嘆息して目を閉じた。
どうしても望まぬものを呼ばなければならない。ならば、その世界を捨てたものを呼ぼう。その世界で生きられなかったものを呼ぼう。呼ばれたことで、安息を得ることができるものを呼ぼう。望まず呼ばれたものたちはそう考えた。そんなものがいるのかどうかという疑問は、無事召喚が為されたことで答えとなった。それがいいことなのかは、だれにもわからなかった。
机に両肘をつき顔を覆った少女がうめくような声を上げる。
「私は……私は、そう、もう耐えられなかったの……呼ばれる直前。学校に行きたくなくて……ホームに入ってきた電車に飛び込んだ……私は、死んだんだ……」
少年には理解できない言葉だったが、聞き返すようなことはしなかった。ただ、少女に語り掛けた。
「もう、元の世界に戻ることはできません。呼んでしまった私たちは聖女様が心穏やかにお過ごしいただけるよう、全力を尽くします。どうか力をお貸しください」
少女は答えなかった。顔を隠したまま、肩を震わせて。小さな声が、とぎれとぎれに漏れ聞こえていた。
少年は答えを急がなかった。急ぐ必要もない。
「お疲れでしょう。お部屋を用意してあります。一度お休みください。ゆっくりと眠り、起きられたら食事をなさってください。時間はいくらでもあるのですから、どうか存分に疲れを癒してください。そうして答えが出たならば、お聞かせください」
少女がいる限り『ゆりかご』は保たれる。この世界の残り少ない住人はすべて少女のために尽くすだろう。傷ついた心と体を癒し、少女が答えを出すのはそう遠くない未来の話。
こうして『ゆりかご』最後の聖女が誕生する。この世界最後の人間とともに、この世界の最期を見届けるものが。