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16 苦悶【side アルドリック】






 政務の流れが一息ついた後の貴重な休憩時間、アルドリックはいつものように空中庭園を訪れた。

 そこには、レティシアが天馬と戯れている姿があった。その光景はまさに楽園のようで、アルドリックは安堵と喜びを覚えた。


(……本当に、光の聖女だな……)


 アルドリックにとって、レティシアは光のような存在だった。

 あるとき偶然、レティシアが楽しそうに天馬の世話をしている姿を見かけ、それ以降アルドリックもよく空中庭園に通うようになった。


 戦場にまで来てくれた勇敢な姿も、身を呈して守ろうとしてくれた献身も、聖女として相応しくあろうとする姿も、眩しい光に見えた。


 そして決定的だったのは治癒会だ。


 病人を分け隔てなく治療し、対価として求めたのは少しだけ街をきれいにすることだった。民衆たちは聖女に厚く感謝し、結果としてスラム街が清潔に保たれるようになった。


 さらにそれは王都全体に波及していく。

 病気の発生率自体が下がってることや、経済活動まで盛んになるという報告を受けた時の驚きといったらなかった。


 レティシアはまさに聖女という存在だと、この国に、自分に必要な存在だと、アルドリックは心から思った。


 彼女のためにも早く平和を取り戻さなければならないのに、騒動を起こしたエリウッドもラフィーナも眠ったままで目覚める気配はなく、調査もほとんど進んでいない。


 己の無力さを感じた次の瞬間、レティシアが天馬に話しかける声が聞こえてきた。


「シア、あなたにも、いつまで会いに来られるのかしら」


 レティシアは重いため息をつきながら天馬を撫でる。その手には慈しみが込められているが、表情は暗い。

 その声を聞き、アルドリックは完全に声をかけるタイミングを見失った。


「聖女でなくなれば、私は嫁ぐことになるから、もうあなたには会えなくなるの」


 その言葉は、鋭い一撃となって突き刺さった。


 聖女でなくなる?

 誰かに嫁ぐ?

 ――誰に?


 それが幸せそうな顔なら、アルドリックはまだ耐えられたかもしれない。

 だが、そんな暗い表情で、悲しそうに。


「……いっそ、どこかに逃げてしまいたい……」


 ――いますぐ駆け寄って抱きしめたいという気持ちを、王太子としての自制心がなんとか踏みとどまらせる。


 アルドリックはずっと自制心を保ってきた。


 ――アルドリックはいつからか、レティシアに対して特別な感情を抱くようになっていた。

 だが、自分は王太子だ。

 王太子である限り、聖女を愛することはできない。それが受け継がれてきた決まりだ。


 王族には血を継ぐ義務があり。

 王族には聖女を一途に愛し、幸福にする義務がある。


 だから、一生、気持ちを伝えるつもりはなかった。王と聖女として、国と互いを支えていければ、それで充分だと思っていた。


 そんな彼女が聖女を引退し、他の誰かのものになるなんて、考えたくもない。考えるだけで胸が張り裂けそうだ。


 弟エリウッドと結婚するという未来は、そういう決まりだからとなんとか受け入れていた。


 だが、もし。もしも。

 レティシアが聖女を引退し、他の男の元に嫁いだら――一切の繋がりがなくなってしまう。

 顔を合わせることさえ、滅多にできなくなるだろう。

 そう思うと、突き刺さるような痛みが胸を襲う。


 その瞬間、レティシアが振り返った。


「――レティシア……」

「アルドリック様……」


 レティシアは顔を青ざめさせ、逃げるように空中庭園から去っていく。

 アルドリックはその背中を眺めながら、何もできずに立ち尽くした。


 追いかけることはできない。

 追いかけたところでどうなる。

 引き留めることも、問い詰めることもできないのに。


 自分には、何も言う権利はない。


 天馬たちも異様な雰囲気を感じ取ったのか、アルドリックに近寄ろうとしなかった。遠巻きに眺めていた。


 ――そうして、一体どれぐらいの時間が経っただろうか。


「――あの、アルドリック様」


 怯えるような声に名前を呼ばれ、アルドリックは顔を上げた。

 そこには不安そうな顔をしたレティシアが立っていた。


「さきほどは、ごめんなさい。動揺してしまって……」

「いや……」


 胸中は嵐のように吹き荒れていたが、自分の感情を抑制して冷静に対処する。


「アルドリック様……不躾ついでに、お願いをしてもよろしいでしょうか?」

「ん?」

「私が聖女を引退したら、側室にしていただけませんか?」

「…………」

「他の方のところへなど、考えたくもないのです。私を守っていただけませんか……?」


 胸中の嵐がさらに激しさを増す。

 混乱、苦痛、驚き、そしてわずかな喜び。混沌が深まる。

 そうなりつつも、頭の一部は嫌になるぐらい冷静だった。


「――ちゃんと、話がしたい。こちらへ来てくれないか?」

「……では、アルドリック様。その剣を置いてください」


 アルドリックの聖剣に視線を向ける。


「王太子殿下ではなく、ひとりの男性として、私を抱き締めてほしいのです」


 アルドリックは頷き、聖剣を鞘から抜いた。

 その刃を、レティシアの姿をしたものにつきつける。


「――アルドリック様、冗談が過ぎます」


 アルドリックは怯むことなく、抜き身の剣を手にしたまま近づいていく。


「よくも彼女を汚したな」


 レティシアの姿をした者はびくっと身体を震わせる。


「正体を見せろ」

「…………」


 レティシアの姿をしたものが、ラフィーナの姿に変わる。

 聖剣が反応している。

 魔物を斬れという叫びが頭に響く。


「正体を見せろと言ったんだ」

「申し訳ありません。長く馴染んだこの姿が、楽なもので」


 魔物はラフィーナの姿で妖艶に微笑んだ。

 その姿は薄っすらと透けていて、人間でもなく、肉体もないことがわかる。

 魂だけの魔物なのか、それともすべて幻影なのか。


 アルドリックを直接襲ってきたラフィーナ・ヴェレンダムには、確実に肉体があった。

 眠ったままの肉体を置いて、魂だけここにいるのかもしれない。


「誤解なさらないでください。わたくしは貴方の味方です」

「…………」


 ――聞くに堪えない。


「愛しい聖女を地に落としてしまえばいいのです。そうすれば、いかようにも。最も高貴な貴方には簡単なことでございましょう」


 ――こんな魔物が王城に巣食っていたなんて。


「愛しい聖女が他のものの手で落とされることがお望みですか? 幸せにできるのは、魂を救えるのは、貴方だけですわ」


 その言葉に、アルドリックは激昂した。

 魔物の言動のすべてが、侮辱であり愚弄だった。

 レティシアを利用しようとすることも、わかったようなことを言うことも、すべてが許せない。


 魔物を斬ろうとした聖剣は、残像を掠めるだけだった。

 魔物は一瞬にしてアルドリックの前から姿を消していた。霧のように。


 ――逃げられた。


(逃がさない……)


 この王国にいる限り、必ず見つけ出して斬る。

 決意と共に空中庭園から降りると、すぐ下に側近がやってきていた。


「――殿下、大変です」

「どうした」

「ラフィーナ・ヴェレンダム侯爵令嬢が、姿を消しました」

「……肉体の方も消えたか」


 アルドリックは聖剣を手にしたまま、更に下へ降りていく。

 頭の中で、聖剣が叫んでいる。魔物を倒せと叫び続ける。






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