第二話:外科医の館にて Ⅱ
ぶるりと体が震え、ジョンは目を覚ました。一瞬、自分がどこにいて、何があったのかを覚えられず、パニックに陥ったが、それでも見覚えのある景色で徐々に落ち着きを取り戻す。朦朧とする意識の中起き上がって辺りを見回すと、どうやら自分が寝かされていたのは、職員室のベンチだったらしい。
何でこんな所にいるんだっけ…と考え出した所、勢いよく扉が開き、ファーガソンが入って来た。
「ああ、良かったジョニー坊!ブランデー持ってきたぞ、少し飲め!」
先程とは打って変わって、やや憔悴したファーガソンの顔に、安堵の色が浮かぶ。そんなファーガソンの姿を見るのは随分と久し振り…もしかしたら初めてかもしれない、とジョンはぼんやりと思う。
「悪かった…悪かった…!もっと、もっと気を使うべきだった…!可哀想に、可哀想に!」
滑らかなブランデーが喉を通ると、後がほんのりと甘く、暖かくなるのを感じ、ジョンは先程少し感じていた肌寒さが和らぐのを感じた。ファーガソンの話はあまり頭に入って来なかったが、しかし、何故謝るのだろう?との考えに至った時である。頭の中の靄が徐々に晴れ、再び両手に震えが戻るのを感じた。
ついさっき講義室で、ファーガソンが急に真顔になったと思えば、確認を取りたい事があるから着いて来る様にと、ジョンに話した。何かよっぽど大事な事なのは、直ぐに察する事は出来たが…ジョンにはそんな深刻な状況に成り得る事に身に覚えは無く、混乱と不安で着いて行った先は、安置室だった。
ジョンも、入った事は過去にあったが、それでも滅多に来る場所では無い。そもそも、あまり気持ちの良い場所では無く、入った途端に鼻を掠めた独特の腐臭と、青白い足がはみ出た、盛り上がった布の数々…それが何かは当然解っていたし、見慣れていたとはいえ、この日に限ってジョンの背筋にも思わず悪寒が走った。
「この子だけど…」
ファーガソンがいたのは部屋の隅で、既に布を剥がし、顔が見える様準備をしていた。ファーガソンの瞳が不安で揺れるのを見ると、ジョンは途端に怖くなったが、それでも震える足を動かす。
一歩近づくごとに、頭の中で警告の鐘が鳴った様な、そんな感覚を感じる。既に、ジョンはとんでもなく悪い事が起きたのは理解していたし、それが誰かの死に繋がっているのは、火を見るより明らかだった。しかし、やはり心当たりが無い。否、無いと信じたかった。
ゆっくりと、問題の死体を覗き込んだ時。一瞬、ジョンは自分が見下ろしている人物が誰かは、解らなかった。あまりにも自分の記憶と食い違う、目の前の人物に、ただただ困惑した。しかし、それも長くは続かず。呼吸が荒くなり、何かを言える前に、否、何らかの音を発せられる前に、目の前が暗くなり、体が揺れるのを感じた。焦ったファーガソンが自分を呼ぶ声を最後に、ジョンは意識を手放したのだった。
「そんな…そんな…!何故、何故こんな…そんな、嘘だ、どうして、どうしてこんな事に、メアリーが何をしたんだって言うんだ、叔父さん!叔父さん!どうしてメアリーが安置室に!」
「ジョニー、落ち着け!」
「メアリーが、メアリーが何を!どうして、何があったんだよ!昨日だぞ、昨日あんなに元気そうだったのに…!」
大きく見開いたジョンの青い双眸から、涙が溢れる。嗚咽を堪えて話すジョンの姿はこれ以上ない位哀れで、言葉を捻りだせば出す程、声は震え、口調も滅茶苦茶になった。遂に、ジョンは話す事も諦め、そのまま項垂れてすすり泣いた。ファーガソンはそんなジョンを茶化す様な事は一切せず、ただ黙って背中を摩るだけだった。
暫くして、やっと少し落ち着きを取り戻した若者は、今度はか細い声で再び問う。
「…メアリーの…死因は?一体、何があったの?」
一瞬ファーガソンは口を噤んだが、ジョンがまた質問を繰り返すと、努めて優しく、穏やかに、しかしやや裏声で答える。
「…今、そんな話をしなくてもいいだろう?教えないとは言わない、今、お前はとても聞ける状況じゃ…」
「教えて!」
「よし、落ち着け、まず落ち着こうな、話はもう少し後でも…」
「教えてよ!」
ファーガソンはどう反応すれば良いのか解らなかった。人の死を他人に教えるのは、決して初めてでは無いし、なんなら仕事柄、嫌という程ある。しかし、相手がジョンと言うだけで、なるべく穏便に、彼が傷つかない方法は無いかとついつい考えてしまう。どう転んでも、辛いのは確かなのに、だ。暫くファーガソンは目を泳がせ、言葉を必死に選ぼうとしたが、尚も食い下がるジョンについに根負けしてしまう。
「…ウィスキーの過剰摂取らしい…だけど、」
「だけど?」
少し焦っていたからか、思わず失言をしてしまうファーガソン。しまった、と思う頃にはもう遅く、ジョンは耳聡くファーガソンが零した疑問を追及する。
「…確証は無いし、聞いても辛いだけだ。ジョニー、日を改めよう、お前は知る権利があるが、何も今すぐじゃなくても…」
「だけど何?事故じゃないのか?何か変なの?はぐらかす程、残酷な事なのか!?叔父さん、教えないなら、僕が直接今すぐ…そうだ、ノックス先生に聞けば、解るのでは…!」
ノックスは不味い。
利己的な考えではあったが、ジョンが騒ぎを起こせば、彼もファーガソンももうこの学校にはいられない可能性がある以上、それはなるべく避けたかった。どちらにせよ、娼婦の愛人がいた事自体、とても外聞が悪いし、若い学生の内はなるべく避けたい話である。ジョンが在学する以上、あまり余計な事はして欲しくないのがファーガソンの本音であり、しかしそれはジョンの将来を守る為でもあった。
ついでに。これは完全に勘であったが、ノックスは協力するつもりは毛頭無いだろう。聞いても、恐らくはぐらかす。何か得体の知れない、裏がある様な気がしたファーガソンは、少なくとも今はノックスとのいざこざは避けたかった。
「ジョニー、待て。ドクター・ノックスは止めた方が良い。それに、おそらく彼は協力しない。あの男の優先順位は、時に人を疑う程如何な物だ。お前にも、決していい結果は訪れない。暫く余計な騒ぎは起こさず、今後メアリーに関連する事を全てまず俺に相談する…と約束できるなら、俺も包み隠さず、気付いた事について話してやろう。この度の悲劇に関する事も…お前の気が済むまで、付き合ってやる」
「…解ったよ、解ったよ!誓うよ、約束する」
ふーっと溜息を吐いた後、ファーガソンは暫く目を瞑る。自分のこれから言う事が、あまりにも残酷だと、改めて感じたが、それでも最終的にはジョンの意思を尊重した。
「彼女の遺体は、本当に、少し奇妙な位新しかった。ウィスキーの過剰摂取というのに、もしかしたら真実はあるのかもしれない。酒の香りが、ほのかにした。ただ、気になって瞳を確認したんだが……かなり印象に残る程、充血していた」
勿論、これには様々な原因が考えられるが、とファーガソンは付け足す。しかしジョンは、自分が最後にみた時は、そんな事無かった、と答えた。
「それに加え、鼻と口の辺りの、赤み。顔程解り易くは無かったが、胸の辺りも…加えて、鼻口部の周りに、食い込んだ爪の痕…に見えなくもないものが少し。そう、例えば」
と一度説明を区切り、ベンチから立ち上がったと思えば、ファーガソンは床にしゃがむ。
「仰向けの女性の胸元の上に、こう、座って」
言いながら腕を伸ばす。彼の座っている物が胸元だと仮定すれば、丁度顔にあたる位置だ。
「鼻と口を抑え、肺を上から圧迫した、と仮定すれば、多少の説明は…」
「もういい、解ったよ…!」
悲痛な声をあげ、ジョンは再び項垂れる。その姿に、ファーガソンもまた辛そうに顔を歪めたが、「あくまで可能性だ、確証はない…」と、ボソボソと付け加えた。
「タチの悪い客に、捕まったのかもしれない…」
「だとしたら、その相手が今ものうのうと生きる事に、納得がいかない!見つけ出して、絞首台に送ってやる…!」
悲しみ一色に染まっていたジョンの目が、今度は憎悪の炎を燃やす。時には、嘆くよりは、怒る方が精神的には楽だ。解り易い憎しみの対象を見つけたジョンは、渦巻く全ての感情を、名も知らない…なんなら存在するかも解らない人物にぶつける事で、己を奮いだたせた。
「…そうだな、そんな人物がいれば、次誰が犠牲になるか解らない。見つかると…捕まると…いいな」
しかし、望みは薄いだろう、というのがファーガソンの本音だった。そもそも、自分で話していながら、メアリーが殺害された確証も無い。不審な点にも、言い訳が思いつかない事も無い。そして仮に殺害されていたとしても、その相手は雲を掴む様な話だし、よしんば例の二人組が何かを知っていた所で、自分達も後ろ暗い事がある以上、多くは語らないだろう。メアリーの社会的地位の低さを考えれば、協力してくれる人だってたかが知れている。
今できる事は、どういった形であれジョンが納得できるまで協力する事、そして傍にいてやる事位だった。そうする事で、可哀想な名付け子が近い将来、この悲痛な事件を受容する事を、祈るしかできなかった。
髪をかきあげ、怒りで震えるジョンを悲しそうに見ながら、ファーガソンはぼんやり今後どう行動するべきか、どう接するのが正解か、と考える。ファーガソンの優先は、哀れみこそ感じようと、決してメアリーの無念では無く、ジョンの今後であった。
当然、二人には知る由も無かった。
メアリーの死が、最初ですら無かった事に。当然、最後とは程遠かった事に。悲劇はまだ、始まったばかりであった。
サブタイトル変えました。
【歴史背景:ドクター・ロバート・ノックス】
解剖学大好きな医師。高校時代は、かなりのいじめっ子だったらしい。王立スコットランド学術会議員であり、経営する私立解剖学校は大人気。
あまり性格は宜しくなさそうです。
【歴史背景:ノックスの実践解剖学入場カード】
ノックスの講義の一つ、実践解剖学(第一話:外科医の館にて Ⅰ)入場券。沢山あるものの一つですが、取り合えず本作で授業の描写があるものだけ。ジョンも沢山持ってるよ!講義はノックスだけでは無く、エディンバラ大学のも参加している事が多いです。
【歴史背景:医学生の署名】
1828年、3月28日。エディンバラの医学生248人による署名。合法的に、より多くの遺体を手頃な価格で購入できる様、解法を呼び掛けています。「下劣な死体盗掘人」を非難する旨も伝えられています。