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第一話:外科医の館にて Ⅰ

 ジョンとメアリーの逢引の翌日である。所変わって外科医広場サージャンズ・スクエア、十番地。通称、外科医の館(サージャンズ・ホール)。本日もドクター・ロバート・ノックスは、中々に過激な発言を繰り返しながら、荒々しく見えてこれまた器用な手捌きで遺体を切り刻む。毎週月曜日は実践解剖学だ。初講義なら3ポンド5シリング、二度目なら2ポンド4シリング、学期分なら5ポンド9シリング。しかしその授業は大層人気で、私立の解剖学校ではダントツ一番とされていた。


 この時、エディンバラの医学、特に解剖学はライデンやパドヴァと並んで、どこよりも先駆けていた。そして、ノックスもまたその事実に貢献する一人に違いなかったのだが…


 (いつ見てもおっかねぇ…)


 ピーター・ファーガソン、ノックスの助手として控えていた男は、顔色一つ変えずに、内心雇い主への、中々に失礼な感想を呟く。


 実際、ノックスの授業の有様は、眉を顰めるものだった。解剖学というのは、部外者が見れば思わず卒倒する者もいるし、何なら初回の生徒にそういう子も多い。しかし、ファーガソンは腐っても外科医、解剖如きでは眉を動かさない。問題はノックス本人にあった。


 天然痘後が残った痘痕顔は年中しかめっ面。笑っている時ですら、だ。どうしてそうなったのか、ファーガソンには理解できなかった。左目は失明しているので、眼帯を着用し、その上からまた眼鏡をかけている。そしてツルっと光る頭部。偏見は良くない。しかし、その姿は子供の考える、悪の親玉そのものだ。


 まあそこまではまだ良いのだが、そこに血塗れの手と、同じく骨肉を切る為の…中々に恐ろしい見た目をした…道具一式。加えて血液で汚れに汚れたエプロンだ。どうしても、印象の悪さに拍車がかかる。最悪なのは、口を開けば何かを罵り、時には目の前の亡骸を侮辱する言葉を吐く。ファーガソンにとって、解剖台の上の死体は医学への貢献者である。故に、ノックスの態度はあまりにも敬意と品が無い様に思えた。


 生徒も生徒だ。解剖が見やすい様に席は円形劇場型なのだが、ノックスが物議を醸す事を発言すれば、わっと騒ぎ、解剖学もまた面白おかしく説明するから、生徒は興奮して前のめり。状況は全く違うのに、ファーガソンは若い頃に観たローマのコロッセオを、ついつい思い浮かべてしまう。その上、生徒は黒を着る子が多いので、どう言う事か、段々カラスに見えて来た。だったらノックスはハゲワシだ。死体を囲むハゲワシとカラス達。そこまで思考が偏った後、ファーガソンはきっと自分は疲れているのだろう、という結論に達した。


 (ジョニー坊はどうしてる)


 気を紛らわせようと、可愛い名づけ子の姿を探す。少なくとも、ジョンと彼の友人達は比較的大人しく、真面目に授業を受けている様で、ファーガソンは安心した。しかし、どころなく上の空なのは気にはなったので、いつもの様に雑談がてら、後始末を手伝わせようと思い至る。そもそもジョンが授業を受けているのも、ファーガソンの伝手であり、今の彼は所謂保護者替わりだ。何かとあれば「他の生徒より多くの経験を積める」だとか、「授業料替わりと考えれば良い」と言いくるめ、雑用を幾度となく手伝わせてきた。勿論、その他でも、上手い羽目の外し方を教えたりもしている。ファーガソンは親戚の集まりに置いて、子供に喜ばれ…一方、その親には、どことなく嫌そうな顔をさせてしまう種の男だった。



 「悩み事なら聞くぞ」

 「悩みって程じゃないんだけどね」


 長年の知り合い、そして一応の血縁関係というのもあり、ファーガソンはジョンを歳の離れた弟、それか(責任のあまり伴わない)息子の様に感じていた。


 「メアリーの事で」


 ああ、また例の娼婦の娘か、とファーガソンは呟く。何度か相談に乗っていたが、暫くすれば飽きると思いきや、意外と続く情熱には、少し感心するものがあった。


 「随分熱をあげているんだなぁ。若い若い。何にそんなに惹かれたんだ?」

 「…あんな奇麗な子、見た事無かったんだ」

 「へえ」


 え、それだけ?と思わず続きそうになったが、ファーガソンはすんでのところで飲み込んだ。


 「でも話してみたら、何と言うか、聡明で。学は無いけど、とても思慮深い人で。それで優しくて、時に頼りになるから…でも、説明できない何かもあるんだ。取り合えず、好きなんだ、とっても」

 「そうか」

 「僕らに、将来はあると思う?」


 …早くないか?という言葉もまた、すんでのところで受け止めた。誰にでもそういう時期はあるのだ、今はまだ温かく見守るのみ、とファーガソンは自分に言い聞かせる。


 尚、ファーガソンが学生の頃熱をあげていたのは、まさかの級友だった。ちなみに女性は入学を禁止されている。人生で一度切りの事ではあったが、何を血迷っていたのか、下手すれば絞首刑もあり得た、と今更ながらに心臓に悪い記憶である。勿論、ファーガソンは墓まで持っていくつもりでいる。


 「まあ、お前らが結ばれた日は俺の命日だ。確実に喜ばれない嫁を紹介した俺は、きっとお前の母に殺されるだろう…ふっ、だが可愛い名付け子の幸せが何よりも優先だ。俺の屍を超えて行け!」


 お家騒動があれば面白そうだな、という能天気な考えもまた一瞬頭を過ったが、勿論余計な事は何も言わない。とはいえ、ジョンの幸せを願っている、というのに嘘は無かったが、身分差や価値観の違いがら生じえる未来も考えると、素直に後押しできるかは微妙だった。が、そういった事を説くのはジョンの両親に任せれば良い。ジョンの母(従姉弟)は正直怖いが、自分はせめて味方でいよう、と考えがまとまった所で、ファーガソンはその思いを英知の言葉で〆る。


 「まあ、頑張れ。健闘を祈る」

 「真剣に相談乗る気、無いでしょ」


 心外だ、と笑いながら、ふとファーガソンは、ああそういえばノックスに確認を取る事があった、と思い出す。


 「ジョ二ー坊、ちょっと仕事の確認をしてくる。そこで待ってろ、今日は晩飯奢ってやる。その時もっと詳しく話そうや」

 「牡蠣が食べたい」

 「おう、いいぞ」


 解剖後の死体を前に、躊躇い無くそう発言した名付け子に、しみじみ成長を感じながら、ファーガソンは講義室を抜け出す。ノックスの執務室へと向かって足を運んだが、幸い、目的の人物はその途中にある、中庭に面した玄関口にいた。お気に入りの助手、ディヴィッド・パターソンもいたが。二人並ぶと何故こうも親子っぽいのだろう、とファーガソンは思う。きっと、どちらも人間的に何かが欠如しているからだろうな、とまた失礼な感想を内心呟く。


 来客の相手をしているのか、中庭の方には男が二人いた。一人は丸顔の三十代、恐らくファーガソンと歳が近く、もう一人はまだかなり若く、面長で痩せている。丸顔の方はかなり饒舌な印象を受けたが、若い方は一言も喋らず、後ろに方で身を潜めていた。


 近づいて来るファーガソンに気が付いたノックスは、隠しきれない興奮で思わず叫ぶ。


 「ああ、ファーガソン君か。見たまえ、新しい死体が入ったのだよ。しかも最高の状態だ!」


 これまた嬉しそうに話すノックスに、ファーガスンは若干引いたが、確かに死体の入手は学校としても助かる。人の死に関して、こんな風に喜んで良いのだろうか?という疑問は、この際仕舞い込んだ。


 「しかも若い女だ」

 「…そうか。それは気の毒に…」

 「なに、売女だ。堕落した人生の結末さ。因果応報、自業自得。最後に役に立つだけまだマシというものだ」


 悪びれも無くそう発言したのはディヴィッド。幾ら何でも不謹慎だとファーガソンは思ったが、仮にそれを注意した所で、こういった類の者に通じない。布がはがされ、上半身が露わになった娘を見て、流石に哀れになったファーガソンは…まあ、後で解剖されるので、どこまで意味があるのかは解らなかったが…せめてこれ以上人目に触れない様布をかけ直そうとする。しかしふとその時、眠るように横たわる娘に、酷い既視感を感じた。


 「ふん、どんなに美しい容姿をしてようと、死体に見惚れるのは如何なものだと思うよ、ピーター」

 「いや、この子…どこかで見た事ある」


 てめえにだけは言われたくねぇ!という言葉もまた飲み込み、ファーガソンは遺体を持ってきたらしい男に目を向ける。


 「この子、死因は?」

 「アルコールの過剰摂取だと聞きました」

 「聞いた?」

 「私は引き取っただけですので」


 笑顔を崩さず、淡々と答える男にもまた、少しばかり違和感を感じた。こいつ、この前も来てなかったか?後ろの男もだ。しかし、人の顔を覚えるのが苦手なファーガソンは、確証が持てなかったし、そもそも遺体の引き取りは基本ディヴィッドがやっている。断言は出来なかった。


 「では、私らはこれで」


 二人組の男は八ポンド、ノックスから受け取ると、もう用は無いとばかりに帰路に着く。ファーガソンもまた、引き止める理由は無かったが…やはり、何かが引っかかった。


 「じゃあ、ファーガソン君、遺体を安置室に。書類は明日引き取りに来てくれ」

 「え、ああ、了解です」


 ノックスもまた上機嫌に執務室へと早々に引取り、ファーガソンはディヴィッドと二人きりに残される。あまり気の合わない人物ではあったが、ファーガソンはどうしても釈然できず、その疑問を同僚に投げつけた。


 「あの二人、この前も来ていなかったか?」

 「さあ、どうだったかな?」

 「そうか。お前も記憶力が悪いようだな」

 「…まあ、偶に来るよ。でも、それは助かるじゃないか」


 嫌な予想が一瞬思考を掠め、ファーガソンは顔を歪めた。


 「まさか、死体盗掘人の類じゃないだろうな?」

 「いや、下宿宿を経営しているとか。病で死んだ下宿人が主だな。味を占めて以来、他の下宿で死んだ人物を二束三文で引取り、ここで転売しているって話だ」

 「その話、本当だろうか?」

 「信じない理由は無いだろう?」

 「遺体の売買は、法律でも怪しい部分だ。危ない橋は渡らない方が良いぞ。本来ならば、死刑囚、自殺者、孤児と獄中死した者に限られている」

 「必要悪だ。死刑囚は年々減るし、獄中死も同様。一方、生徒の数は増えるに増えている」

 

 思わず溜息を吐きながら、ファーガソンは苦々しく説明する。


 「それでも、超えてはならない一線はあろうに」

 「まあ、それでも死体のみ(・・)での取引なら、ほぼ罪にならないのが現実だね。遺品の金品も取れば重罪だが、丸裸で取引される遺体に、適応される法律は無いのさ」

 「遺族の気持ちもあるだろう。墓守塔やモートセーフが作られる理由を、一つ考えてみるんだな」


 が、何を言っても無駄だろう事はファーガソンは重々理解していたし、実際ディヴィッドは「愚か者の考えは理解できないよ」と答える。これ以上残っても、腹正しいだけだと理解したファーガソンは、話を適当に切り上げ、娘の遺体を安置室へと運ぶ。


 (どこだっけ…)


 言いようのない不快感、そして焦りを感じるファーガソン。何かどんでも無い事が起きてしまった様な気がしていたが、その理由が解らず、やきもきする。


 (この子、見た事がある筈なんだ。しかも、凄く大事な事の様な…)


 もう一度、布の下の顔を覗いてみると、やはり、知っている様な気がする。とはいえ、安置室に長居はしたくなかったので、何とも言えない苛立ちを感じながら、ジョンを残した講義室へと向かう。


 扉に手をかけ、開けると、待ちくたびれたジョンが顔を上げ、ファーガソンと目を合わせた。しかし、その瞬間。



 『あの子とか良いんじゃないのか?』


 去年、自分の口から発せられた台詞が、ファーガソンの頭に流れた。一瞬だけ、あの日、あの瞬間に引きずり込まれた様な、そんな感覚を経験した。


 顔を真っ赤にするジョンを促したその先にいた娘。巻き毛の茶髪と、大きな琥珀色の双眸が印象的だった。


 『まあ、初めて?恥じる事は無いわ、とっても光栄よ』


 コロコロと笑う娘に、ジョンはしどろもどろになって、でも少し何かに期待する様に、部屋へと入って行ったあの日。あの時の娘。



 「ピーター叔父さん?」


 何かに違和感をジョンが、ファーガソンを現実へと引き戻した。しかし、ついさっきまで、思い悩みながらも、でも幸せそうに惚気ていたジョンの姿が再び頭を過った瞬間。


 心臓が早鐘の様に打ちだした一方で、ファーガソンの顔から、表情が消えた。


 その日、持ち込まれた娘はメアリー・ミッチェル。ジョンの愛しい恋人で、間違い無かった。

【歴史背景・サージャンズ広場10番地(10 Surgeon’s Square)】

 名前改め現在はハイスクール・ヤーズ(High School Yards)。当時はこんな感じでした(1827年の銅版画)。


挿絵(By みてみん)



【歴史背景・講義費用】

 ノックス先生の講義の日、値段は多分これで合っている…と思います。現代の価格にすると、(合っているかは解りませんが)6ポンドが訳10~11万円位…かなぁ?ちょっとこの辺りは詳しく無いので、話半分に聞いてもらえると助かります。



【歴史背景・ファーガソンの初恋回想】

 同性同士の恋愛は、普通に極刑もあり得ました。最後の犠牲者は1835年、実質法律として残っていたのは、1861年までです。

 


【歴史背景・モートセーフ】

 対死体泥棒用の鉄作。



【歴史背景・牡蠣】

 今では高級食材ですが、19世紀初期までは、エディンバラでは安くて新鮮に入手できる食材でした。

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