第零話:西門の娼館にて
初長編フィクションにチャレンジ…!
1828年、四月。エディンバラの売春宿で、ジョンは恋人のメアリーとの逢引の最中だった。その時、彼はメアリーの商売道具である安い寝台の上で、如何に自分が他の男と違うのかを、いっそ哀れな程必死に語っていた。
いずれ自分が独り立ちし、医者として成功した暁には、きっとメアリーを囲える程の財力が入ると、許されるなら妻として娶るのも視野に入れている、と言葉を重ねる姿は、級友の一人にでも見られればきっと笑われた事であろう。19歳の若き医学生は、初めての本気の恋に、ただただ夢中であった。
一方メアリーは、幾度情熱的な言葉を言われようと、それらに曖昧な微笑みを浮かべ、無理な事を話すなと、静かに嗜める言葉を返すだけであった。
「その気持ちはきっと、一時的だわ」
その一言で、まだ幼さの抜けない青年は遂に腹を立て、粗々しい手つきで服を着だした。
「僕だけじゃ無いんだろう!」
と、ジョンは吐き捨てた。
「そうだ、君は奇麗だから、きっと他にも、僕よりずっと素敵な事を約束する人がいるんだろう!僕の級友の中にも、君の世話になっている奴がいる事のは知っている。でもあいつ等は、裏では君を侮辱する言葉を吐いている!君が望むなら、名誉を穢された事を怒るなら、僕が決闘をしてでも懲らしめるよ!」
「穢される名誉なんて、最初から無いわよ。ジョン。そういう所なのよ、私達は住む世界が違うの」
少しばかり呆れた口調で、メアリーはジョンを嗜めた。
「それに、貴方の将来だけは、潰したくないの」
「潰すだなんて!僕は君と楽しく暮らせる事を未来の為に、人一倍頑張っているんだよ!これでも特に優秀な生徒だって、先生のお墨付きだ。元々大した事じゃない頭なんだけどね、君がいたからこそ今があるんだって、そう思えるんだ」
その言葉に、メアリーは思わず頬を紅くしたが、困った様に俯くだけであった。メアリーとて、決してジョンを悪く思っていなかった。初めて会った頃、つまり去年、彼は都会にやってきたばかりの、初心な学生でしかなかった。保護者替わりの男から数枚小銭を貰い、垢ぬけない彼を「大人にしてやった」だけの一晩。そんな青少年は、彼女の短い人生に何人もいる。しかし、真っ直ぐに愛の言葉を囁き、花や手紙の差し入れを続ける青年、それも中々の美男子に、何時しか心惹かれる様になったのは、彼女としても予想外の事であった。小銭を拒否して彼を招き入れたのは、もう大分前の話である。
ただ、それでも彼女は理性的であり、この思いは報われないであろう事を重々理解していた。彼がエディンバラで暮らし、自分に興味を持つ限りは共にいたかったが、夢物語を語られる度にメアリーが辛くなるの事を、ジョンは今一つ理解していなかった。
そんな考えが過り、思わず悲しそうな顔をメアリーがすると、ジョンは慌てて謝る。何に対してかは、やはりピンと来なかったが、取り合えず愛しい人を傷つける事は、決して本意では無かった。メアリーの巻き毛に手を絡めながら、ジョンは暫く彼女を抱きしめたものの、鐘の音が響くと同時に、名残惜しそうに服を着終えた。
「また来るよ」
と不安そうな顔で話す青年に、待っているわ、とメアリーは優しく答え、見送った。
そうしてジョンがいなくなった直後である。「入るわよ!」の掛け声と共に、二人の娘が騒々しく部屋に入って来た。メアリーの友人、ジャネットとマギーだ。
「あきれたわ、メアリー!今日もまた赤字ね!」
「ジョンが来たの?まあ、羨ましいわぁ、あんな素敵な子!」
片や非難を、片や憧れを口にするのも何時もの事。ちょっと偉そうだけど、頼りになるのがジャネット。楽観的だけど、気さくなのがマギー。いつも口喧しい友人達の登場に、思わず苦笑を浮かべるメアリーだったが、ジャネットは続けて愚痴を漏らす。
「本当、スッカリ腑抜けになっちゃって!しかもあんな芋臭い子」
「あらー?最近中々洗練されているわよ。しかも医学生!メアリー、これはチャンスよ、逃してはならないわ!遠くに行っても偶にお手紙送ってね」
「そんな事よりも、メアリー!損した分を取りに行くわよ!キャノンゲートの酒場は小金持ちが多いって話よ」
代わる代わるギャーギャー騒ぐ二人の友人の横で、メアリーも手早く身だしなみを整えた。ジャネットとはこれから客を探しに行くのだ。
「あんた本当に来ないの、マギー」
「弟の稼ぎが先日良かったから、今日は休むわ」
三人で階段を降りながら雑談をするのも何時もの事。一階の踊り場に着けば、これまたいつも通りに、初老の女がタバコを吹かしている。ボードのハルデン夫人だ。
「メアリー、あんた程々にしなさいよ。逢引なんて全く…続ける様なら追い出すわよ。そしてマギー、あんたは怠け癖はつけるんじゃないよ。弟にばっかり頼るんじゃないよ」
これでも人の良い人物ではあるのだが、愛情深さに厳しい態度も比例しているのが玉に傷、というのが三人の正直な感想だ。それでも面倒見はよく、三人は幾度となくハルデン夫人に助けられていた。
「あらあら、三人共おでかけかい?別嬪が揃うと絵になるねぇ」
のんびりした口調でそう言ったのは、ハルデン夫人の友人のマーガレット・ドハルティ。しょっちゅう入り浸っているアイルランド人の女だ。口調は婆臭いが、まだ40前らしい。
「まあ、少し位良いじゃない、母さん。今月は私の稼ぎも良いし」
玄関口で男を見送った後、戻って来たペギーが言う。ハルデン夫人の一人娘で、実質娼館の二番手だ。同じ娼館に若い娘が三人いながらも、彼女の人気は中々色褪せない。
「無理はしなくて良いのよ」
「誰も無理をしろとは言って無いだろうに」
ブツブツと文句を言い返しながら、ハルデン夫人は「気を付けて行くんだよ」と、ジャネットとメアリーを見送った。
「まかせとき!」
ジャネットが元気よく答えると、手を振るメアリーを連れて表通りへと歩いていく。
エディンバラの町は今日も騒がしい。人はここを天才の町、北のアテネ、法学、銀行、そして医学の古都と様々な名で呼ぶ。しかしその裏で広がる貧困と過密もまた現実であり、メアリー達はそこで藻掻く弱者だった。
露店や買い物客で溢れる路地の一つに入れば、二人の姿はたちまち見えなくなる。それもまた普通の事で、その日もまた本当に取り留めのない、何気ない日常の一環だった。
そんな日を境に。メアリーが二度と戻らない事を、誰一人として予期してなかった。