失われたものと
話の視点が〈佐藤さん→翔くん〉に途中で切り替わるので注意です
私の言葉なんて気にも留めないで、彼は、日野くんは、教室から出て行ってしまった。過ぎてしまったことはもう元には戻せない。それは痛いほど咲ちゃんに教えられた筈なのに、また私はどうすることもできなかった。それに、それどころか私は……私のせいで彼にあんな事を……。
頭が真っ白になって、もうダメだった。
日野くんが訳のわからない事で問い詰められてて、私が何とかしなきゃって思ってよく考えずにとにかく声を上げた。――でもそれで結局何になった? 私のせいで話はどんどんと悪い方へ進んでいっただけだ。そして私を庇う様に日野くんは……。
「おい、あいつ逃げたってことはやっぱり……」
「そういう、ことだよな?」
「やっぱり日野は、遠坂のこと追い詰めたんだ。あいつが、殺したんだ」
ちがう。ちがうちがうちがうちがう。
「おい、これ、許されないよな? けーさつとか先生に言った方が」
「そ、そうだよね……? だってあいつは人ごろしのはんざいしゃで」
やめて。なんで、もうこれ以上……こんな事、わけが、分かんなくて……。
「わたし、わたしが、わたしのせいで……」
「……風香ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「さとちゃん、保健室行こうか……?」
ぁ、っ……ぁああっ。私は、私は、私が……私が馬鹿なせいで! 咲ちゃんが死んでしまって、日野くんも傷ついて、それで、私だけなんでこんな…………無傷でいるの?
「もうむりだよ……咲ちゃん。私もう、やだよぉ」
もう足に力が入らなくて、私はその場に崩れる。
最後に咲ちゃんからもらった言葉、私、守れなかったよ。ごめん咲ちゃん、許して……。私には何もできなかった。それどころかこんな事に……。
「さ、さとちゃん……!? 本当に大丈夫?」
「保健室行った方がいいよ? 私、着いていくからさ」
ああうるさいなあもう。私に構わないでくれればいいのに。
「大丈夫だからさ、放っておいてくれないかな」
「え……でも、絶対体調悪い……よね? 一緒に保健室いこ?」
「……放っておいてって、私言ったよね?」
「っ……」
この子達が私に構うほど、私は傷ついていく。それが嫌で、私は彼女たちを拒絶した。
でもこれは、やってはいけない事なんだろうなぁとも、同時に思う。
後に引くなら、今しかない。ここで「ごめん」と一言謝れば、まだ戻れる。でも私は――
「――な、何事ですか?」
ガラガラと扉を開けて入ってきたのは担任の先生だった。やっぱり何がここで起こったのか理解していないみたい。
「せ、先生! えっと、あの、風香ちゃんが体調悪いみたいで」
「そうなの……?」
ああもう、なんなの。今はそれどころじゃなくて、もっと大切なことが。
でもそんな事関係なく、トントンと足音が近づいてくる。そして、私の前でトンと止まった。
「佐藤さん、大丈夫……ですか?」
まるで探る様に慎重に先生はそう言った。
嫌いじゃないなぁ、そういうの。周りの人よりよっぽどマシだ。
「大丈夫ですよ、先生。ちょっと立ちくらみがして、それだけで……気にしないでほしいかなぁ」
「……そう、なんですか? でもやっぱり少しどこかで休みましょう?」
ああ、先生もそう言うんだ。まるで私が異常者みたいにさ。まあでも先生は仕方ないよね〜……ここであった事なんて何も知らないんだから。
「えっと、立てますか……?」
そう言って先生は私の前に手を差し出す。
あはは、一体どんな顔してこんな事してるんだろう。私のことどんな目で見てるんだろう。
そんな些細な事を思って、私はふと、顔をあげてみる。
「………………っ」
私なんかより、よっぽど辛い顔をしていた。
目に大きな隈を浮かべて、いつもの、あの、おっとりした頼りない顔はどこにも無くて
「……保健室、行きましょう?」
先生はもう、疲れ切っていて限界みたいだった。
私は、私は……。
「先生、私、行ってきます」
「え……?」
「咲ちゃんと約束したから、私、行ってきます。……このままじゃ、もう取り返しがつかなくなってしまうから」
「さ、佐藤さん?」
私はなんとか立ち上がり、駆け出した。行き先は分かってる。咲ちゃんに教えてもらったから。
自分ではもう無理だって思ってたけど、どうやらまだやれるみたい。……いや、やらなきゃダメなんだ。
今の日野くんは一人にしておけない。
◆ ◆ ◆
教室を後にした僕は、フラフラと校舎を彷徨う。行く当てはない。後先考えず飛び出した結果だ。でも後悔はないし、したくない。だって嬉しかったんだ、声を上げてくれたことが。
「あはは、やっちゃったな……。でもこれでいいよね、咲?」
返事はない。それは当然だ。でも……いなくなった様な気がしない。まだ、認められてない。僕だけが取り残されているのだろうか。
――だってまた僕はこうして、ここへ来てしまったのだから。
「相変わらず埃っぽくて暗いなぁ。でも、今はそれが落ち着く」
ここは僕のいつもの避難場所、天文ドームだ。人が入った様な形跡が僅かにある。……ここが使えなくなるのも時間の問題か。
嫌だなぁ、それは。僕の思い出に他人が強制的に蓋をするというのは耐え難く、無上に虚しい。
何となく、長椅子に座ってみる。
「あの日、気絶した僕はここに寝かされてたんだっけ。それで咲はあそこで寝ていて……。あぁ、今思ってもあれは恥ずかしいな」
ここでの想い出が、頭の中に押し寄せてくる。でもそれと同時に虚しさと言うものが心の内で広がっていく。胸が締め付けられる。
「外、でよう」
立ち上がって、少し重い金属の扉を開ける。すると、外から冷たくじめっとした雨の匂いが部屋に入り込んで来る。ああそうだ、外は今雨が降っている。それでも、僕は外に出る。
当然のことだけど雨に濡れる。まあ、元々頭から水をかけられていたから大して気にならない。
「……やっぱり、止める気ないよね」
目の前の小さな鉄柵を見てそう思う。……でも実際これで止めれているのだから驚きだ。
僕は、懐かしいものに触れるかの様に、それに近づいて、凭れ掛かる。ひんやりとした冷たさが身に染みる。それも、いつも通りだ。
でも、いつもと違うことが一つ。
「……そっか。今日は本当に止めてくれないんだ」
この鉄柵に触れた瞬間にそれを感じ取ってしまった。
今ならいける。僕は飛べる。……間違いなく、咲と同じように。そう思うと凄く楽だった。
ただ何とは無しに体重を全てこの鉄柵に預け、身を乗り出してみる。
地面が遥か遠くにあるように見えて怖かった。下はコンクリートだ。ここから飛び降りたら間違いなく僕は死ぬ。そう考えると、体が震えてしまう。
でも咲はこれ以上の高さを飛んだんだ。一体それにはどれほどの勇気と、覚悟が必要で……。
ああでもこれが最後の壁なんだと、理解した。
咲のいない、何もない日常を過ごすくらいなら僕は、咲や両親の元へ行きたい。どうせもうクラスには戻れないんだし。だから、そのためならこの壁を乗り越えることくらい簡単なことで、でもなかなかそれが出来ないのはどうしようもなく待ってしまうからだろうか、助けというやつを。そんなもの来るはずないと分かって――――
そんな時だ、ドタドタと走る音が雨音に紛れて聞こえた、気がした。
気のせいだと思った。だってこの場所を知っている人間なんてほとんど居なくて、まるで僕がここにいる事を分かっているかのように走ってくるなんて、そんな事があるはずもないから。
下手な希望を持ち続けるよりは、いっそここで全て断ち切って、それで――
はは……信じていいのかな、これは。
後ろ、天文ドームの方からギギッという扉を開ける音が聞こえた。ああ、何度聞いても重そうな音だ。
「っ……!? ひ、日野くんっ!!」
ここへやって来た存在は僕の姿を見た瞬間、まるで幽霊でも見たかのような声を上げた。そして続けて水溜まりを蹴って走るような音が近づいてきて――僕が後ろを振り向くよりもずっと速く、その存在は僕の両肩を力強く掴む。
「なっ……」
突然の出来事に僕の理解が追いつくよりも先に、フワッとした浮遊感が僕を襲う。まさか柵が外れて外へ落ちてしまったのかと思ったが、どうやらそうじゃないらしい。
気づけば僕は屋上の床の上に体を打ちつけ、寝っ転がるように倒れていた。
背中と腿にジーンと痛みが走る。
どうやら僕は肩を後ろに引っ張られて、その勢いのまま後ろ向きに転ばされたらしいと、その時になってようやく理解した。
「はは……デジャヴだ」
使い方は間違ってるんだろうが、目の前の、肩で息をしている少女を見て思わずそう呟きたくなって仕方なかった。
「佐藤さん、ありがとう……止めに来てくれて」
僕を見て叫んだ時の声を聞いた時、いや、走るような足音を聞いた時からその存在が誰なのかなんてとっくに気が付いていた。
「ばか、日野くんのばか……。こんなことしたって咲ちゃんが喜ぶはず無いのに……!」
怒りと、安堵と、色々な感情で顔をくしゃくしゃにした佐藤さんは、絞り出すようにそう言う。
ああ、その言葉を僕は待っていたのかもしれない。
「ごめん」
「反省してよ? 日野くんまでいなくなったら、私、もうどうしていいか……」
「反省する。もうしない」
「約束だからね?」
「うん、分かった」
僕がそう言うと佐藤さんは安心したようにその場にしゃがみ込んだ。こうなってしまったら僕はもう飛べないだろう。
助けられるというのは、ありがたいことだと同時に残酷なことでもある。この先死のうとしたって嫌でも彼女の事がチラつくようになるだろう。つまり、僕はもう生きるしかない。死ぬという究極の逃避行が失われたのだから。
「……とりあえず、中に入ろうか?」
「え、あ……うん」
これ以上雨に濡れても仕方がないのでそう提案したのだが、佐藤さんは今になってようやく雨が降っていることを思い出したという感じの反応をした。……それくらい必死だったということだろう。
「あっ、日野くん背中……! ご、ごめんなさい……」
佐藤さんは僕に突然謝ってくる。まあ、水溜りに思いっきり背中から転ばされたわけだし謝られて当然っちゃ当然なんだけど……これに関してはあまり何とも言えない。仕方のないことだったからね。
「気にしなくていいよ。大したことじゃないし」
「ええっと、大したことだよ……?」
「ああ、まあ慣れてるし」
「……なんか、ほんとごめんね」
なんやかんやありつつ、僕たちは天文ドームの中へ戻る。
着替えは……多分学校に置いておいたままにしてあるジャージがあるだろうし何とかなるだろう。
「それで、どうする? 教室にでも戻る?」
「それは嫌だなぁ、今はあそこに居たくない」
「そっか。じゃあしばらくここに居ようか」
「そう、だね」
どうやら僕が抜け出した後に一悶着あったらしい反応だ。まあ無理もないか、あの状況じゃ。
「あ、あのさ」
「ん?」
「私、日野くんに伝えないといけないことあるんだよね」
長椅子に腰を下ろした佐藤さんは、思い切ったようにそう口に出した。
伝えないといけないことと言われても僕には全くピンと来ない。
「――咲ちゃんから伝言があります」
「……っ」
その一言は僕を動揺させるのには十分だった。だってそれはあまりにも重すぎる言葉で、あるはずもないと思っていたものだから。
「ああ、ええっと、そんなに構えないでいいと思うよ?」
「そうなの?」
「うん。伝言って言ってもメモ用紙に書き残されてたものなんだけど、内容はね……『例の避難場所にある机の中に手紙を入れておきました。私のことをまだ嫌わないでいてくれるなら読んでほしいです』だって」
「手紙か……そんなもの遺してくれていたんだ」
「真面目な咲ちゃんらしいよね〜。でもさ、咲ちゃんは旅行の前から準備してたってことだよね?」
「……そうだね。初めからその気だったってことだ」
そう思うと何だか、何とも言えない遣る瀬無いような気持ちを抱いてしまう。
「取り敢えず手紙を探してみようか、まあ探すといっても察しの通り天文ドームにある机の中にあるんだろうね。……多分端に置いてあるあの学習机の事かな」
「机の中って書いてあったしそうかもね〜」
ということで端にあった机の中を覗き込む。すると、確かに白い紙のようなものが奥に入っているのが見えた。おそらく手紙というのはこれのことだろう、手を突っ込んで取り出す。そうして出てきたのは、割としっかりした封筒だった。
「封筒に入れるなんて、やっぱり真面目さんだね」
「そうだね」
ぴっちりと閉じられていた封筒を開け、中に入っていた紙を取り出す。
何が書かれているのか正直予想がつかない。でも僕の知りたがっている事が書いてあればいいなぁとは思う。
「佐藤さんも一緒に読む?」
「ああ……私はいいんよ〜。多分日野くんに向けた手紙だろうから私が読むのも変だろうし」
「そっか」
多分、咲も気にしないだろうとは思うけど……そういうところが佐藤さんらしいというか、でもそう言うならそうさせてもらおう。
という事で僕は取り出した紙を開いてはじめから読み始める。
◇ ◇ ◇
書かれていたのは遺書とも取れるようなものだった。まるで僕の行動を見越したように――いや、実際見越していたんだろう。『翔くんはまだ死なないでほしい』だとか『風香のことを支えてあげてほしい』だとか書かれていた。死なないでほしいとか自分は先にいなくなっておいてとか思うけど、でもきっとそれは切実な願いなんだろう。だって僕も自分がどうなろうと周りの人には生きていて欲しいと思ってしまうから。あと、佐藤さんのことに関して言えば支えられたのは僕の方だったな。
他に書かれていたのは咲の家族関係についてだ。それは僕は今まであまり触れようとしてこなかった部分であり、咲も意識して見せようとはしなかった部分で、でも咲がなぜこうなってしまったのかに繋がる大事な部分でもあった。一番驚いたのは咲が遠坂蕾の妹だったことだろうか。名前くらいは聞いた事があったので結構衝撃だった。でも才能というものに振り回されて家族という形が崩壊していく……咲からすればやはり相当辛かったんだろう。姉の善意と両親の冷淡さと圧力と期待と中傷と、色々なものの間で板挟みになって……考えるだけで胸が締め付けられる。
「どう、だった?」
「……なんていうかさ、咲のこともっと踏み込んでまで知っておくべきだったかなって今更だけど後悔した。嫌われる覚悟でもっと話を聞いていたらこうはならなかったんじゃないかって」
「そうだね……私もねずっとそうやって後悔してるの。あの日一番近くにいた私ならどうにかできたはずなのに、あんな喧嘩別れみたいな最後で咲ちゃんに辛い思いをさせちゃったから」
後悔、やっぱりするよね。佐藤さんなんてあの日一緒の部屋にいたんだし、僕なんかよりずっと悩んでいそうだ。咲も酷いことをする。
「そういえばさ、佐藤さんは咲から何か伝えられなかったの?」
「私……? 咲ちゃん酷くってね、私にはくれなかったんだ、そういうの。貰ったのは日野くんへの伝言と咲ちゃんらしからぬぐちゃぐちゃの字で書かれてた言い訳みたいな文章かな」
「そうなんだ」
「うん、あれはかっこ悪かったなぁ。でも等身大の言葉みたいでさ、あれはあれでね、好きなの」
「……ちょっと気になる、それ」
「え〜ダメだよ? 見せたら絶対怒られちゃう。だって好きな人にはそういうとこ見られたくないでしょ?」
「そ、そっか」
佐藤さんは口を滑らせてとんでも無いことを言い放った。……咲の名誉のためにもここは聞かなかったことにしておこう。
「……さて日野くん、これからどうしようか〜」
「これから?」
「そう、だって私たち今とってもまずい状況でしょ? 咲ちゃんのこと追い詰めたって勝手に思われて、それでクラス……ううん、学年、学校中から白い目で見られること間違いなし。面白いくらい詰んでるんよね〜」
「あはは……笑えないね」
いつまでも目を背けてられない問題だ。僕はともかく佐藤さんだけでも何とかならないだろうか。
それに、目を背けている問題といえば……修学旅行で出会った咲の友人二人、明野さんと立川さんに訃報を伝えるべきかどうか。色々と問題が山積みだ。
「まあ何とかするよ、その辺はさ」
「……できるのかなぁ。でも弱気になってちゃダメだよね。私も頑張ろ!」
頑張らないと。咲が僕に少しでも救われたというなら、僕の行動にも少しは価値があったということだろう。だったら僕は、これからも同じ事をしていけばいい。
咲のいない生活はやっぱり不安だ。昔は咲がいなくても何とかやっていたのに、こうしていなくなって分かる、咲がどれだけ僕の支えになってくれていたか。
「日野くん、一緒に頑張ろうね」
「そうだね」
「……一緒に、だからね? 一人で背負い込まないでよ?」
「あはは……分かってる、一緒に頑張ろうか」
「うん!」
佐藤さんには見透かされてたか、彼女妙に鋭いからなぁ。でも、心強い。状況は最悪、でも彼女の元気な姿を見ていると不思議と何とかなる気がしてくる。
佐藤さんに置いていかれないためにも少しずつ前を向いていかないと。
「さて、じゃあ教室に戻るかどうするか……」
「行きたくないな〜。でも最初の一歩かな、じゃあ踏み出さないと!」
そう言って佐藤さんは勢いよく立ち上がる。
「戻ろっか、日野くん」
「そうだね」
柔かに微笑んで進むべき道を照らしてくれる、その頼もしさに感動しつつも僕はそれに置いていかれないように立ち上がる。
そして扉を開け、僕たちは教室へと向かった。
一応過去のお話はこれで一区切りです。大分長くなってしまい申し訳ない。