登校
ちょっとダークな話になるので警告しておきます。苦手な方は読まない方がいいかもしれないです。(この警告も今更な気がしますが。)今までのが平気なら全然大丈夫だと思います。
その日の朝聞かされたことを僕はしばらく理解できなかった。――いや、今もまだ理解できていない。あの日からもう何日も経った。でも、それはだって、だって……あまりに突然で、簡単に飲み下せるような話じゃないし。目が腫れるくらい泣いたけど、泣きながらも僕は何で自分が泣いているのかいまいちピンとこないままで、自分の中にあったものがスッポリと抜け落ちてしまった様な、なんだか遣る瀬無いような気持ちにも自分で説明が付けられなくて。
――でもそんなこと関係なく、咲は死んだんだ。
僕は置いていかれたのだろうか。それとも残されたのだろうか。今になってあの時の言葉が冗談じゃないと気がついて、それで今から過去の自分の失態を取り繕う様に彼女の後を追う事は許されているのだろうか。
そもそも僕は彼女にとって何だったのだろうか。僕の気持ちは一方通行だったのだろうか。いやでもそういうことではなかったんだろうというのは何となく分かって、でも最後の最後に僕との間に一線を引かれた様な、突き放された気がしてならない。考えすぎかな。そうだといいな。
今まではお互いに仲間とは言い合っていたけどその実裏では互いに鎖をつなぎ合っているようなところがあって。ある意味運命共同体とでもいうか、そういうことになる時は一緒だって言外に約束していた様なものだった筈だ。実際、『死ぬのはよくないこと』っていう漠然とした一般常識によって生まれた謎の罪悪感の様なものに屈した片方が、もう片方を押さえつけることがお互いに入れ替わり多々あった。でも結局ダメだったんだろう。彼女は強い意志で鎖を断ち切ったんだから。
じゃあ僕はもう生きていなくていいかな。でも、僕の中に何もないからと言ってそれは死ぬ理由にはならないよね。あれ、そうは言うけど死ぬのに理由なんているのかな? ……いや、いるよね。だって、じゃなきゃ可笑しいし。自死っていうのは普通の死じゃない。死に優劣があるのかってそういう話じゃなくて、死ってのは普通理不尽に訪れるものでしょ? それを自分の都合でやろうってのはおかしな話だよね? だから自殺するには普通はいらない『勇気』ってやつとそれ相応の『言い訳』がいる。社会に対して迷惑をかけるけどごめんねっていう『言い訳』が。
あれ、そういえば僕はさっきまで何を考えていたんだっけ? …………ああそっか、僕は咲に置いていかれたって話だ。それで、もう何回同じことを考えたっけ、一度も結論出せてないくせに。というか出す気もないくせにさ。
ああほんと馬鹿らしいな。なんでこんなことずっと考えてんだろ。もう今日は寝よう。それでちょっとは楽しい夢でも見れたらいいな。……ここ最近夢を見れてないんだけど。
明日から長らく休みだった学校が始まる。それで思い出を拾い集めよう。もう、これから先の事なんて心底どうでもいいから。
ああそうだ。屋上、封鎖されてないといいな。
◇ ◇ ◇
朝五時、目が覚めた。よく寝れた気がしない。夢は見てないと思う。
ため息を吐いてベッドから身を起こして、床に足を下ろす。そして踏ん張って立ち上がって、リビングに向かってふらふらと歩き出す。何日も主にベッドの上で過ごしていたせいで足が思う様に動かないけど、歩けるならそれでいいや。
朝食は……ご飯とかパンは吐いてしまうから食べれないし、期限切れ間近のシリアルで済ませよう。多分家にあるものの中で一番喉を通る。
あと、お風呂に入らないと。自分じゃあまり感じないけど酷い匂いがしていることだろうし。
面倒くさく思いながらも僕はちゃんと学校に行く支度を済ませる。時計を見ると丁度六時半だった。今から家を出て学校に着くのは七時。少々早すぎる気もするけどそろそろ家を出るか。誰かと鉢合わせても面倒だし。
そんなわけで僕は家を出る。因みに集団登校というものを僕はしていない。僕がいても煙たがられるだけだしという勝手な判断だ。近所に住んでいる誰かの親達からたまに小言を言われるが、僕の身の上を知っているからか声を大にしては言ってこない。結局他人は他人ってことだ。
ランドセルを背負って玄関に出て、扉を開けて、雨が降っていたので傘を棚から取り出して、家の外に出て、鍵を閉めて、傘をさして学校に向かって歩く。何の楽しみもない、日常。
アスファルトを見つめながらひたすらに足を動かす。それでいつも気付いたら学校の前についている。我ながら陰キャムーブをかましているなと自嘲する。口角は上がらなかった
そんな事を考えてたら今日もいつの間にか校門に着いていた。でもいつもより遅く感じる。やっぱりいつにも増してつまらないからかな。
それにしてもどうしようか、いくら何でも早過ぎたかもしれない。幸いと言っていいのか分からないけど、いつもの様に生徒用の扉は端っこの一つだけ空いていたから中には入れたけど、この後どうしようか。天文ドームの方へ向かってみてもいいけど、何だか先生と鉢合わせそうな予感がする。僕の悪い予感は大体当たるからあまり行きたくはない。じゃあ図書室? いや、流石にこんな早くに開いているわけないだろう。大体、普通この時間に生徒はいないはずなのだから。
……まあ何にせよ教室に向かおう。その後トイレにでもこもってればいいさ。
結局何かを考える事は諦めて、上履きに履き替えると、てくてくと自分の教室へと向かう。
階段を上って、廊下を歩いて、教室の前に着く。そして、教室の扉を開ける。
当然のことだけど、シーンとして静かだった。当たり前だ。でも当たり前じゃないものが一つ。僕の机の一つ後ろの机、その上に小さな花瓶がポツンと置かれていた。
まるでその空間に固定されてしまったかの様に、僕はしばらくその場から動けなかった。……何とも言えない感情が僕の中で湧き上がってくる。
「苦しい。咲がいないと、苦しい」
ぎゅうと心臓が締め付けられる様に痛んだ。思わず手で胸を押さえる。でも治るどころか余計に悪くなる。
多分これは罰だ。自分の気持ちをひた隠しにしてきた、現実から目を逸らし続けてきた、自分への罰だ。
咲とお互いに仲間という関係でいるために見て見ぬ振りをしていた事への手痛いしっぺ返し。
何で今になって気付いちゃうのかな。……ああやっぱり、僕は咲のことを好きになってしまっていたのかもしれない。じゃないとこんなごちゃごちゃした感情に説明がつかない。でも今更気がついたところでもう遅すぎる。
僕は何とか硬直から抜け出し、足を進める。そして、ランドセルを後ろのロッカーへ突っ込むと自分の席に座った。何となく、だらんと突っ伏してみる。なんだか机の冷たさが体に染みる。
ああ、もう今日はこのままでいいや。わざわざクラスメイトと出会わない様にとか、そんな事もうどうでもいい。ただしばらくこうしていたい。
「気づけなくてごめん。ほんと馬鹿だよね、今になってやっと気づくなんて。…………死んだ後どうなるかなんて分からないけどさ、苦しみなくいれてるならいいな」
そうやって呟いてみる。僕が願ったところでどうにかなる様なものじゃないけど。でも、死んだ後まで苦しんで欲しくない。
「…………ああ、なんか急に眠くなってきた。誰かさんのせいで最近まともに寝れてないからなぁ。なんて」
気を紛らわせるために冗談を一つ。だけど、言ったそばから虚しさが溢れてくる。
ああもうダメだ、寝てよう。これ以上何かを考えていたらもっと鬱屈としてしまいそうだ。
そう思って、思考に半ば強引に蓋をして、瞼を閉じる。
意外にもあっさりと、僕の意識は段々微睡に沈んでいった。
◇ ◇ ◇
「ほら、起きろよ」
そして、いくらか時間が過ぎて、僕は頭と首筋に何か冷たい不快な感覚を感じて目を覚ました。最悪の目覚めだったが、ゆっくりと起き上がる。
すると頭の上から顔、そして首元へとその不快な感覚が滴ってくる。何かと思って首に手を当ててみるとそれが何か分かった。水だ。
なぜ水が、そう思って顔を上げる。目の前にはクラスメイトが何人か立っていた。
「あっ、こいつ起きたぞ」
「ぷっ、ほんとだ。でも何されたか分かってないみたい」
――分かってるさ、どうせまたイジメだろ? 雨の日だから水をかけても不自然にはならないだろうってことか? こいつらにしては考えたな。でもまあ、反応してやるだけ無駄だ。ああ、やっぱりこんなとこで寝るべきじゃなかった。……それで、今何時なんだろうか。
そう思って時計を見ようとする。でもこいつらが邪魔でよく見えない。仕方が無いので体を動かして覗いでみる。――――8時15分か。もうすぐで朝の会が始まる。
「――おい! 無視すんな、よっ!」
ガタンと机が大きな音を立てて揺れる。何事かと思えば、目の前の男子が僕の机を足で蹴ったらしい。はぁ、今日は朝から水を掛けられたり災難だ。ただでさえ気分が沈んで――――ん、水?
おかしいな。おかしい。こいつらがやるとしたら、もっとバケツでやるなり大袈裟にやるはずだ。だって限度を知らない馬鹿だから。でも今日は違う。髪が濡れて、頬を滴る程度。ああそうだ、やっぱりおかしい。
何か、悍ましい何かにせき立てられるかの様に僕は立ち上がった。
「ハッ、やっとその気になったか?」
何か目の前の男子が囀っていた様な気がするが耳に入ってこなかった。僕はそんなことよりも今、確認しなければならない。
ゆっくりと後ろを振り向く。
「――――は?」
自分でも信じられないくらい、低く冷たい声が僕の口から出た。
咲の机の上には確かにあった筈だ。だが、今は生けてあったはずの花が適当に放置されているだけだ。
僕はもう一度振り向く。そして今度はさっきから五月蝿い男子達に向き直る。
彼らのうち一人、さっきから机を蹴飛ばしたり面倒くさい奴の手には案の定花瓶が握られていた。
僕の中で何かが切れた音がした。
「……それ、なに?」
「あ? そりゃ花瓶だろ? 丁度いいところにあったから有り難く使わせて――」
「もういい、黙れ」
言葉を遮って、とにかく黙らせる。聞いていてあまりに不快で耐えられなかった。どうなったらそんな事を考えられるのか皆目理解できない。したいとも思わない。
「何だよその口の聞き方、そっちが黙っとけよ! それとも一発殴らないと分からないのか」
そんな事を言って馬鹿が殴り掛かってくる。――なんでこんな奴が生きてて咲が死ななきゃならなかったんだ? ああもう本当にうんざりだ。今回ばかりは、黙ってちゃいけない。
飛んできた拳を払って、代わりに全力で頬を打ってやる。すると、馬鹿は驚いた表情のまま後ろへ数歩下がって倒れる。気持ちの悪い感覚が腕に残った。
別に僕だってやられっぱなしで何も思わない訳じゃない。ただ受け身になっておけば面倒ごとにならず早く終われるから反抗しないだけだ。
「――痛っ!?」
馬鹿がそんな声を上げると、教室中が静まり返った。
「ああもういい、もういいよ。その花瓶渡してくれないかな? 水入れてくるから」
「な……」
返事はなかった。でも倒れている馬鹿の元まで行って花瓶を取り上げる。ちょっと反抗していたが案外簡単に離してくれた。気が動転していたのだろう。
まあ何はともあれ花瓶が割れなくてよかった。……流石に僕も短絡的過ぎたな。反省しないと。
兎に角、僕は教室を出て水道へ向かう。そして、蛇口を捻って、水を花瓶に入れる。――本当に僕は何をしているんだ。情緒不安定がすぎる。
……心の中でそんな自虐を挟みつつ、僕は水を入れ終わり、教室へと戻った。そして、咲の机の上に花瓶を置くと、散らばっていた花たちを丁寧にその中へ戻す。
そういえばこの花達は先生が買ってきてくれたのだろうか。あの先生いつもおどおどしてて頼りないところがあって、プリントを散らかしたり、何かと問題を起こすのがしょっちゅうだったけどそれをよく咲が助けてあげていて、そんな関係だったからか結構あの二人も親しかった筈だ。
まさかこんな事になるとは先生も思わなかっ――
「遠坂殺したのお前なんだろ、日野」
突然だ。本当に突然そんな事をあの馬鹿に言われた。こっちが思い出に浸っている時に、そんなわけのわからない事を。
「お前は知らないかもしれないけど学年中で話題になってるんだぞ? 遠坂が自殺なんてする訳ない。きっと日野が殺したんだ、ってな」
「…………」
「何も言わないって事はそうなんだろ? この人殺しが」
こいつの言葉にクラス中が響動めく。そして全ての目線が一点に向けられる。多分クラスのほとんどがこいつと同じように思っていたらしいことが、それだけで何となく分かった。
でも、それは間違ってると僕は言っていいのだろうか。だって僕は咲の近くにいておきながら咲の力になることができなくて、自殺するまで追い詰められていた事にも気が付かなかった。僕が見殺しにした様なものじゃないか。
「本当に、そうだったの……?」
クラスメイトのうち一人が小さな声でそう呟いたのが聞こえた。普通なら聞こえないくらいの小さな声。でもクラス中が静まり返った今は違かった。それを皮切りにして、次第に同調の波が広まっていく。
『遠坂咲を死に追いやったのは日野翔だ』
事実とは捻じ曲がった気持ちの悪い妄想が、彼らの心の中で確かに根を下ろしていく。事実へと挿げ替えられていく。
こうなってしまえばもう誰にも止める事はできな――
「待って、待ってよ! 何でそんな事になってるの、そんな訳ないでしょ!?」
その時だ、上がるはずがないと思っていた声が上がった。……佐藤さんだった。
「何でって、だからこいつが遠坂を自殺まで追いやったんだよ。さっきだって問い詰められても何も言わなかっただろ?」
「何、何なの……あなたは咲ちゃんの何なの? 何でそんな事言えるの? こんなバカみたいな事捏ち上げて勝手に断罪してさ、意味分かんないよ」
「は? んだよ、俺だけじゃない、皆んな言わないだけでそう思ってるんだよ! だろ?」
「だからってさ、それはない。それに責任があるとすれば日野くんじゃない。同じ部屋にいながら何もできなかった私だもん!」
佐藤さんは叫ぶ。でもそれはまずい。このままじゃ、どんどん良くない方向へ行ってしまう。
「――じゃあお前が犯人、ってことか?」
「え……?」
コイツらは別に犯人とかそういうのが誰で、どうして咲が死んだのかなんて正直どうでもいいんだろう。
何でもいいんだ。きっと。
「ふーちゃん、別にあんな奴のこと庇う事ないよ。ふーちゃんは悪くないんだから」
「そうだよ! なんでそんな事するの? 何もできなくて風香ちゃんが一番辛いはずなのに、そんな事しなくていいって!」
「え、待って、そうじゃなくて、でも……」
「……おい、本当にお前なのか。それとも日野なのか?」
佐藤さんの友達なんだろうか。彼女たちから庇う声が上がる。でも、時間の問題かもしれない。
「ちょっと原口くん、それはないでしょ!?」
「本当だよ、何でそんなこと言うの? 風香ちゃんがそんなことする訳ないじゃん!」
「お、おう。だよな、やっぱり悪いのは日野で」
「そ、そうじゃない! 日野くんは絶対悪くない。それに、なんでこんな事で言い争いしなきゃいけないの?」
「……おい、何でそんなに日野のこと庇うんだよ?」
「信じられないけど、そこまで言うってことはなにかあるんじゃ……」
どんどんと、ヒビが大きくなっていく。隣のクラスから野次馬が覗きにやって来始めた。――全く、なんでこんな事やってるんだ。
「こんなの、咲が……可哀想だ」
もう、こんなことやめよう。こんな奴らに弄ばれる為に咲は死んだんじゃない。
僕は深呼吸を一つすると、教室の外へ向かって歩き出す。
「え……ひ、日野くん?」
ここでそれがどんな意味を持つのか分からないほど僕は馬鹿じゃない。
もうこのクラスの人間だけじゃない。他クラスの野次馬までこれを見ている。彼らの目に僕の姿がどう映るか、簡単に想像がつく。
ああそうだ。これは、言外の投降だ。
「待って、ダメだよ、日野くん!」
佐藤さんの悲痛な叫びが響く。でも、無視する。そして、そのまま僕は扉の外へ出た。廊下にいた野次馬たちから驚きの声と「やっぱり」だとかの納得した様な声が聞こえてくる。
それでも、僕はそれを振り切ってただ只管に教室から離れる。強烈な吐き気を堪えながら。