むかしのこと
翔くんの昔のおはなしなのです。何話か続くのです。
一応章分けしてあるけど閑話的な扱いで大丈夫なのです。
校舎のはずれにある階段、それを登り切った先にある場所は僕の避難所であり、居場所であり……唯一安心することのできる場所だった――――
朝、登校すると僕はすぐにいつもの場所へ向かった。
教室にいても碌なことにならないので、荷物を背負ったまま廊下を歩き、校舎の一番端へと向かう。
そこにあるのは小さな階段。
誰も使っていないのか、昇降口のすぐ正面にある大階段と比べると小さく、薄暗い。
それもそのはず、この階段がどこへ続いているのかというと天文ドームである。
小学校にしては珍しく、この学校には小さいながらも天文ドームがある。
天文ドームなんて日常的に行くものでもければ授業でも使うことはないため何故あるのか本当に謎であるけれど、僕のようなクラスのはぐれ者からすればありがたい場所だ。
天文ドームには屋上へと繋がる小さな扉がある。
そして、これもまた何故か年中鍵はかかっていない。
そんな少し重い金属の扉を開けると、ほんの少し広い屋上が広がっている。本当に何もない殺風景な場所だ。
でも……ここから眺める景色は意外と僕の心を癒してくれる。
僕は冷たい鉄柵に触れる。
『生きるのがつらくなったらいつでも飛んでください』とでも言わんばかりの小さい鉄柵。
だけど、鉄柵は鉄柵の役目をちゃんと果たしている。
だって、これはいつも一度僕を立ち止まらせるのだから。
僕に毎回訴えてくる、『本当に飛ぶのか』って。
考えさせる。
そして僕は小心者だから飛べない。
今日は青空と、この景色に勇気をもらったという事にして柵からそっと離れる。
急がないと朝の会に間に合わないから、そろそろ教室へ向かおう。
僕はそう思い、教室へ向かって歩き始めた。
今日はあまりここにいたくない、何故かそんか気分だったから。
――こうして、僕の日常は今日も始まった。
◇ ◇ ◇
チャイムの鳴るほんの少し前に教室へ入ると、すぐに荷物を自分のロッカーへ入れ席に着く。
僕に声をかけようとしていた人たちはチャイムを聞いて、急いで自分の席へ戻った。
声をかけられても碌なことにならないのは目に見えているので、これでいいのだと思う。
それからすぐにガラガラと教室の前の扉が音を立てて開かれた。
そして、少しおっとりとした様子の女性の先生が少し早歩きで入ってくる。
「これから朝の会を始めます」
前に出ている生徒は先生が席に座ったことを確認するとそう言った。
そこからは、よくある普通の朝の会が始まった。
と思いきや今日は少し違った。
「転校生を紹介します」
先生は突然そんなことを言う。
五年の三学期、それも終わりが近づいているこの時期に転校生は珍しいなと思った。
でも正直に言ってあまり興味はない。
クラスメイト達の騒いでいるような、男か女かなんて正直どうでもよくて、僕をいじめる人が増えないでほしいなぁなんて思うだけだった。
先生に呼ばれ入ってきたのは、大人しそうで、少し儚げな長髪の少女。
その子は黒板に『遠坂 咲』と綺麗な字で書くと、軽く自己紹介をした。そして、先生に席に案内され着席する。
一番奥の窓側の席、前から空席だった場所だ。
そしてそれは僕の後ろの席でもある。
彼女が僕の隣を通るとき、この後一旦この席を離れないといけないようなので一応挨拶はしておこうと
「よろしく」
と、小さく言う。
聞こえていなくても別にいい。
僕としてはいい意味でも、悪い意味でもあまり関わってほしくないのだから。
後ろからカタっと椅子に座る音が聞こえる。
そしてその後、小声で
「はい、こちらこそ」
と言う声が聞こえる。
当番は彼女が席に着いたことを確認すると、朝の会を終わらせた。
僕はササっと自分の席を離れ、自分のロッカーへ向かう。
そして、鞄の中から必要な教科書と筆記用具を取り出すと自分の席の方を見る。
すると、やはりというべきか人だかりができていた。
これは自分の席には座れそうもないな。
僕はそう考えると、手に持っていた教科書をロッカーの中に戻して何とはなしに廊下へ出た。
所々から聞こえる話し声ではどうやら転校生の話題で持ちきりのようだ。
こんな事を考える僕は酷い奴だと思うが、今日だけだとしても興味が僕に向かないのは少し嬉しかった。
申し訳ないと思ったからなのかは自分でも分からないが、心の中であの少女が学校生活をうまくやれる事を祈っておいた。
◇ ◇ ◇
嫌なものを見てしまった。
いや、聞いてしまったというのが正しいか。
放課後、すぐに帰るといじめっ子たちに見つかって色々と嫌な思いをさせられる(経験済み)ので、最近はしばらく何時もの避難場所で時間を潰すことが日課だった。
今日もそれは変わらず、僕は帰りの会が終わった後教室で少し帰る準備をする。
そして、いつものようにあの避難場所へと向かう。
そんな矢先だった。
今もまだ、トイレの方から女子の笑い声が聞こえる。
僕が教室を出て廊下に出た時、廊下の突き当たりにあるトイレへ女子四人が入っていくのを見た。
三人はクラスのいじめっ子。
もう一人は遠坂さん。
彼女がこの学校へやってきて一か月くらい立って、クラスに馴染んだと言えばそこまで。
だけど、なにか、僕の胸の中で騒めく何かがあった。
だから、傍から見たら変質者だけどこうして廊下の角から様子を窺っている。
――一応言っておくけど聞き耳を立てているのであって、けして覗き込んでいる訳ではない。
そうしていたら、先ほどザバッ――という水の音が。続けてカランという金属が床に落ちる音が聞こえてきた。
――あぁ、本当に嫌だ。
僕は廊下の壁に寄りかかり、そんな事を思う。
こういうのを聞いてしまうと罪悪感を感じてしまう。
僕がどうこうしても変わらない問題だろうし、する気もないけど。
でもだからこそ、動かない自分に嫌気が差す。
これじゃあ僕も他のいじめっ子達とまるで変わらないな。
傍観者の視線が、態度が、精神的にくることを知っているのに。
ここまで言っておいて何も起きていなかったら恥ずかしいけれど、それが一番いい。
そう思っていたけれど、ちらっといじめっ子達三人が笑いながらトイレから出てきたのが見えて、そうでない事を察した。
なんというか、彼女らがそこまでする奴らだとは思わなかった。
平気で越えちゃならないラインを越えてくるような奴らだなんて、思いたくもなかった。
あの人達に少しでも期待していた僕が間違っていたんだ。
僕がトイレから出てきた彼女らの方を見ると、何事もなかったかのように三人で笑って昇降口へ向かって歩いていた。
それを確認すると、ランドセルとは別に持っているカバン、所謂サブバックから大きなタオルとビニール袋を出した。
なぜタオルを持っているかというと、たまにいじめっ子たちに校舎の外にある池に突き落とされるから。
わざわざ池の方まで追いやられて――――と、この話は置いておいて。
濡れたままではいけないので、体を拭くために一応常備している。
といっても、結局のところ保健室に行けば万事解決なのだが。
でも、保健室で『いじめられた』なんて言ったらどうなることか……。
いじめがエスカレートするのは当たり前として、先生たちから質問攻めにあい、最終的にクラスが妙な事で団結して僕が悪者に仕立て上げられる。
そんな未来が僕にははっきり見える。
なので、基本的に外の池に突き落とされたときは『自分で落ちた』と言って偽るのだが、今回の場合そんな言い訳は無理があるだろう。なんせ事件現場が校舎内だし。
それにしても、まさかこんな風にタオルを使うことになろうとは思いもしなかった。
そんなことを考えながら、僕はトイレの少し前の床にビニール袋とタオルを置く。
あまり関わるつもりはないけど、何かの役に立つならこれくらいは別にいいかな……?
なんて、自分に言い訳しつつ、ここから離れていつもの避難場所へ行くことにした。
◇ ◇ ◇
天文ドームにある金属の扉はやっぱり施錠されていなかった。
されていたら困るけれど。
とにかく、開いていることを確認すると僕は少し重いその扉を開いた。
少し開けると外から冷たい風が入ってくる。
天文ドームの中も一日中あまり日が入らなくて冷たいけれど、それよりも湿った冷たい空気が部屋に流れ込む。
「雨の匂い……」
もう少し腕に力を入れて扉を開け外へ出ると、雨の匂いと灰色の曇り空が広がっていた。
天気予報では今日は一日中曇りのはずだったけど、どうやら珍しく外れるかもしれない。
僕は、鉄柵の方へ近づく。
ここから見える少し大きな道路の先、そこにある丁字路に早くに学校を出た生徒が着くあたりで僕はいつも学校を出る。
これくらいの時間に学校を出ると誰とも鉢合わせずに済むからだ。
いつもはここで十分くらい待つのだが、今日はさっきのことがあったから五分位になりそうだ。
それでも、特にやることが無いのには変わりないのでなんとなく冷えて冷たい鉄柵にもたれかかる。
そんな時だった、後ろからタッタッと地面を蹴る音が聞こえた。
それもかなり急いでいるような……?
それに気づいた直後、僕は何者かに肩を掴まれた――――いや引っ張られてる!?
「うわっ!?」
自慢じゃないが、僕は力は強くないのでされるがままに後ろへ転ばされ、硬いコンクリートの床に大きく尻餅をついた後、勢いそのままに倒れてしまった。
……普通に痛い。
何が起こったのか分からないまま僕は曇り空を眺める。
さっきので頭に負荷がかかったのか、ぐわんぐわんと視界が歪んでいる。
それに少し気持ち悪くなってきた。
でもそんな頭でも考えなきゃいけないことがある。
なんで転ばされたんだ?
というか誰に?
それが気になり自分の後ろ、というか頭の上の方にいるであろう存在を確かめようと目をそちらに向ける。
するとそこには、肩で息をしている何故か全身濡れた少女がいた。
――――遠坂さん?
この状況がよく分からずに固まっていると彼女と目が合った。
そして何も喋らず睨まれた。
どうして……。
それからしばらく沈黙の時間が続く。
いや、どうしたらいいの?
そんなこんなで互いに何も言わず静寂な時が流れる。
でも、流石にこのままだとよくないので何か言う事にしよう。
危ないとか、どうしたのとか、なんでとか、いろいろ聞きたいことがある。
でもとりあえずは……
「大丈夫?」
色々聞きたいことはあるけどさっきのことが少し心配だった。
どうせ彼女は僕のことを後からつけてきていたのだろうし、僕がタオルを置いたことも大方予想がついているのだろうから。
でも、言った後になって気がついたけれど転ばした相手から逆に心配されるって……よくわからない事を言ってしまったかもしれない。
でも仕方がない、上手く頭が回らないんだもの。
――視界は回っているけども。
「大丈夫じゃない。それで、貴方はこんなところで何を?」
「何をって、風にあたっていた?」
いきなりどういう事?
というか、大丈夫じゃないって即答されたんだけど!?
「そんなこと言って隠しても無駄。……貴方飛ぼうとしてたでしょ」
「……え?」
ど、どういう事!?
飛ぼうとしてたって、もしかして勘違いされた?
「ち、違うよ!? 本当にただここに来ていただけ」
「…………本当に?」
「う、うん」
なんというか、それは申し訳ない。
「勘違いさせてたならごめん……」
「いや、こっちこそ…………勘違いで転ばせちゃって」
――今度はさっきよりも重い空気で静寂に包まれる。
き、きつい……。
「あのタオルは貴方のもの?」
何をどうしようか悩んでいたら彼女はそんなことを言った。
ここまで関わってしまった以上隠してもしょうがないのでうんと頷いておく。
僕なんかと関わったって絶対碌な事にならないのに。
申し訳ない。
「返すわ。私には使えない」
「……どうして?」
「汚してしまうもの。貴方も嫌でしょ?」
予想の斜め上の言葉がどんどんと……。
なんと返せばいいのか困ってしまう。
「……僕は使ってくれない方が嫌、かな」
「え、どうして?」
「どうしてって言われても何とも言えないけど。使われないのもそれはそれで嫌かなって」
「そうなの? じゃあ使う」
あっさり、本当にあっさりとそう言った彼女は彼女の足元に置いてあったタオルで体を拭いた。
「ねぇ」
「ん、何?」
「偶々聞いたんだけどさ、左手、怪我してるんだって?」
「――!?」
体を拭いている彼女に突然そんなことを言われた。
ドクンと心臓が強く跳ねる。
知られたくなかった。
これだけは、知られてはダメだったのに。
自分でもわかる、これは良くない。
トラウマが蘇ってくる。息が苦しくなる。
脳の片隅にうっすらとちらつく。
一年位前のあの時もこんな風に誰かを助けて、その時に腕を見られて……。
思い出したくない……けど、ダメだ。
自分の意志とは勝手に頭は思い出してしまう。
『……バケモノ!!』
『あっちへ行け!』
『気持ち悪い』
っ……!!
あぁ、不味いかも。
だんだん闇の渦に飲み込まれていくような感覚。
ただでさえ今は体調が悪いって言うのに、ひどい吐き気がする。
『お前に面白いことしてやるよ』
そう言って一人の少年が動けないように僕の腕をつかむ。
そしてもう一人の少年がガスコンロに火をつける。
必死に抵抗するが、それも抑え込まれ――
あ、ああ……。
「や、やだ…………」
自分の意志とは裏腹にどんどんと思い出してしまう。
それが嫌で、なんとか耐えようともがくが、震えて丸くなってしまう。
いつもは突然フラッシュバックしてもここまで酷くはならないのに……!
『貴方なんて死んでしまえばいいのに』
ついには、遠坂さんにそんなことを言われた気がした。
いや、本当に言われているのか?
そう思うと何か、もうどうでもいい気がしてきた。
『貴方なんて生きているよりも死んだ方がまし』
「死んだ方がまし……?」
生きているから辛い?
死んだら楽になれるのかな?
僕は無意識のうちに立ち上がると、鉄柵を掴む。
なぜだろう、今なら飛べる気がする。
「駄目っ!!」
鉄柵を越えようとしていると、後ろから掴まれた。
そして思いっきり鉄柵から引き離された。
「痛っ」
また、後ろに大きく尻餅をついた後倒れてしまう。
でも、おかげで正気に戻れた。
そして正気に戻って気づけば自分が物凄く過呼吸であることにも気が付く。
肺が締め付けられるように痛くて、辛い。
はぁ、はぁと大きく肩で息をするのでやっとだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
そんな僕に彼女の掠れた声が聞こえてくる。
彼女は悪くないのに僕のせいで……。
謝らないと、謝らないと……!
そう思うけれど、思うように言葉は出せなかった。
代わりに視界が暗転していく。
「ごめん」
精一杯それだけ言葉に出した後、僕は気絶してしまった。