7. 新宿アイル
モジャコもミチルもパルノーも、慄然と視線を交わした。
けれども、ハルはまだ心がざわめくのを感じた。
(デッサがいない……)
フォルトヴを使った連続の、しかも超短距離の移動。おそらくそうとう無茶な行動だろう。そうでなければとっくに使っていたはずで、しかも、モジャコをも凌駕するような理性を捨てた戦闘スタイルは間違いなく諸刃だ。
考えられるのはコルヴェナ自身、デッサの異変を感じて彼女を見切ったということ。
(コルヴェナはいま、どこかの建物の上に潜伏しながら、体力の回復とタイミングを待って中距離移動をしようとしているはずだ……!!)
いけない——とハルは直感した。「フォルトヴで新宿へ移動しようとした瞬間に、コルヴェナはデッサに急襲される!!」
リグナは何も答えずに近くのビルの屋上へ跳び上がった。モジャコとミチルは周囲の気配に全神経を集中させる——。
新宿——コクーンタワー。
林立する超高層ビル群の中で、ひときわ目を引くその特異な外観は、コクーンタワーの名にあるとおりに繭をイメージしているという。高さは二〇三・七メートル。東方向の視界は広く、眼下には深夜の新宿駅が横たわる。
そこに、ロカ・クレンは立っていた。
顔立ちは妹によく似ている。しかし双眸はコルヴェナと違い、ずっと落ち着いていて、ともすれば冷めているような印象も受けた。身にまとう制服も、デザインは同じでも全体的におとなしい。
ロカは手首に装着した小型コンソールに向かってしきりに呼びかけていた。
「——コルヴェナ、どうした? 繰り返す、コルヴェナ——?」
応答は無い。ロカの周りにはいくつもの装置と端末が雑然と並べられていて、その中の一つが勝手に起動し、空中に三次元の像を結んだ。
(ボヒーユ……)ロカは口許でつぶやいた。
背の低い猫背の小男だ。目の前にいるのに下から窺うように視線を向ける。不愉快にねっとりとまとわりつく声でボヒーユは話しはじめた。
「——あらかじめ断っておくが、これはリアルタイム通信ではないよ。六一〇〇万光年の距離はいかんともしがたいからね。意外かな、ロカ・クレンくん? いや、わたしもきみがちゃんと仕事をしてくれれば、わざわざ出張るようなことはしたくなかったんだよ」
「……」
ロカは相手を無視して端末を操作する——が、キーボードは何も入力を受け付けなかった。(乗っ取られた……)
「きみ、アイルになにか細工しただろう? 困るんだよね、こういうの。きみのことだ、おおかた不可抗力にかこつけて計画を失敗させるつもりだったのだろう。まあでも、わたしは慎重な性格だから手は打っておいたわけだ。ここまでの働きには感謝するよ。あとはわたしに任せたまえ。なに、きみときみの妹に危害を加えるつもりはないよ。もっとも、不可避の事態が起こったときのことまでは、わたしも確約しかねるがね。では二度と会うこともないだろうが、ごきげんよう」
「……」
三次元映像はふっと消えた。ロカは再びコルヴェナへの通信を試みる。
「コルヴェナ! コルヴェナ——!!」
「いた……!!」
つぶやいて、ミチルは東の方向、十数階建ての白いマンションを振り仰いだ。
リグナはすぐに建物の上を跳び移っていく。
交差点の北東にある別のマンションから飛び下りる人影が見えた。デッサだ。同じように屋根の上を向かってくる。
距離は双方とも一〇〇メートル弱で、リグナのほうがわずかに近い。
(間に合う)
——が、デッサが腕にライフルを装着しているのを見て、リグナは考えを改めた。
マンションの屋上で、コルヴェナは荒く息をしながら、口の端から流れる血を拭った。そのわずかな動作でさえやっとで、動くたびに全身に電気が走るような猛烈な痛みと痺れを感じていた。
(ふふ、コルヴェナ・クレンがこれくらいで参るわけないわ!)
胸の内ではいつものとおりに強がってみても、さすがに空元気だということは自分でもわかる。それでもどうにか息が収まってきて、コルヴェナは左腕にはめたリング状の装置に手を伸ばした。
そこへ、高く跳び上がったデッサが真横に現れた。迷いなく光弾を放ってくる。
「え……」コルヴェナは声を漏らすことしかできない。
割り込んだリグナが脚を伸ばし、ギリギリで光弾の軌道を変える。
光弾はコルヴェナをかすめて空へ。
しかし、その隙に屋上に降り立ったデッサは、ためらうことなく攻撃してきた。
コルヴェナは、紅い電撃のブーツとゴーグルを実体化させながら、どうにかかわしていくものの、あっという間に屋上の角に追いつめられてしまった。
デッサは真下からコルヴェナを撥ね上げ、さらに強烈なハイキックを繰り出し、それを間一髪リグナが防御する——が、翻って、デッサはコルヴェナの手からヴィルテの格納容器を強引に奪い取った。
高く跳躍して南東方向へ投げる。
コルヴェナは柵の外へ振り飛ばされた。「な……っ!!」
舞い戻ったリグナはデッサを強烈な回し蹴りで弾き飛ばし、手を伸ばした。
「つかまれ!!」
リグナもコルヴェナも指の先まで懸命に伸ばす。けれども届かない。
真っ逆さまに落ちていく。
とっさに、リグナは素早く分離したクロイツェルから地面に向かって光弾を放った。
その着弾点にモジャコが飛び込む。
地面すれすれでコルヴェナに体当たりして、そのまま、抱きかかえるように十数メートル転がり、ようやく止まった。
直後にデッサがアスファルトに激突する。その横にリグナは降り立った。
「モジャコ!! コルヴェナちゃん!! だいじょぶ!?」
追いついたハルは叫んだ。
なんとか——とモジャコは起き上がった。
「気は失ってるけど、コルヴェナも無事だよ……」
「よかった……!」
ハルは息を弾ませ、膝に手を突く。「ポジヲくん、パルノーくん、二人を助けてあげて! リグナちゃん、背面拡張コンソールを貸して!」
「うん」
ほほいのほーい。
頷いてリグナは背中のコンソールを開いた。相変わらずのぼんやり眼ながら、なんとかコルヴェナを救えたことに安堵しているような気がしなくはない。
ハルはキーボードの上に素早く指を走らせた。
「やっぱりだ、いまならデッサにアクセスできる。あ、よかった、リモート接続でもローカライズが有効だ」
一時的に機能を停止していることで、リグナのほうからデッサへ接続できるようになっていた。英語表示も有効で、ハルはディスプレイに流れる文字を睨みながら、どんどんコマンドを打ち込んでいく。
しばらくしてコルヴェナは意識を取り戻した。へたり込んだまま、焦点の合わない目であたりを見回す。
「コルヴェナちゃん、なにか携帯端末っぽいもの、持ってない?」視線はそのままにハルは質問する。
コルヴェナはよくわからないまま、左腕に装着した小型コンソールを「これ?」と見せた。
「再起動してくれる?」
「ほえ」
まだ薄い意識のなか、いわれるがままに操作すれば、すぐに小型コンソールから声が聞こえてきた。
「しばらく妨害されて通信できなくなっていたの」ハルは説明する。
声はロカのものだ。
「コルヴェナか!? だいじょうぶか!?」
「あれえ、兄さんだあ……」
ほえほえほわわん。
ハルが代わって簡単に状況を説明してから「お互いに情報交換したい」と提案した。
少しの沈黙のあと、ロカは聞き返した。
「信用するのか——?」
それにはちょくせつ答えず、ハルはコルヴェナに質問した。「お兄さんって、どんなひと?」
両目の焦点が急にはっきりして、紅の眉が三角に尖る。コルヴェナは、ばびんっ、とハルを人さし指で指した。
「ずばり策士! あたしと同じくね! ふふっ、油断は禁物ってところかしら!!」
(あ、もとに戻った……)とモジャコ。
自称・策士だが実際には策士ではないコルヴェナが策士だというのなら、ロカは策士ではなく、そして要するに嘘は吐けないタイプだということだろう。
ハルの答えはシンプルだった。
「協力してほしい。ただそれだけ」
「——わかった」
ロカがありのままに話したことによれば、彼はもともと円環の形成を失敗させるつもりだったようだ。
「感謝するのは自由の身にしてもらったことだけだよ。あんなヤツに手柄をくれてやる義理は無い」
「ええっ!?」伝えられていなかったようで、コルヴェナは抗議した。「なんでもっと早く教えてくれなかったの!?」
「コルヴェナならすべてを理解して行動してくれると信じていたからだよ」
完全に棒読み。しかしコルヴェナは、ふふ、と笑って胸を張った。「当然かしら!」
事前に聞いていたら顔に出ていたに違いない。
(さすが兄妹、わかってるなー)とハルもモジャコも感心。
「これ、返しとくわ」と、コルヴェナは何かを差し出した。
三ノ輪橋の跡で奪ったハルのスマホだ。リグナのバズーカから発射された碧い電撃の光弾を喰らっているのに、ケースが若干黒焦げになっているだけで本体は無事。
(さすが、じじい特製、超薄型なのに雷の直撃にも耐えるケース……)
——円環のコアとアイルの制御はすでにボヒーユ側に奪われていた。もはやロカにも手出しができない。
「ギルレンデが二体、潜伏していた。戦闘特化型ヒト型機械兵だ。コードネームはユツァとノラン」
ロカの分析によればユツァは新宿駅、ノランは清澄白河駅付近にいるらしい。「円環のコアは清澄白河駅に設置した。おそらく、ヴィルテを捕捉したノランはもう注入をはじめている」
都営大江戸線は、練馬区の光が丘駅から新宿副都心の都庁前駅までの部分と、都内最深部を都庁前から反時計回りに代々木、六本木、汐留、月島、清澄白河、両国、上野御徒町、飯田橋、東新宿を経由し、都庁前に戻る環状部分とで構成される。全長は四〇・七キロメートル、環状部分は二八・六キロメートル。清澄白河は環状部分の東端にあたる。
「新しい円環コアは半世紀前の円環コアの完全な複製だ。聞こえはいいけど、単に中身を理解するだけの技術力がなくて、そっくりそのままコピーするしかなかっただけだ」
「でもそうだとしたら、まだ希望はあるかもしれない」とハル。
「どういうこと?」とモジャコは聞き返した。
「半世紀前のコードで、新しい円環コアのセキュリティを解除できるはずだから。制御を奪い返すところまでは無理でも、妨害はできると思う」
とはいえ、その肝心の解除コードがどこにあるのかわからない。九つの〈追憶のカケラ〉には無かった。
ふと、ハルはリグナの碧い瞳を見て、ぽんっと両手を合わせた。
当人は、なんじゃらほい? と小首を傾げる。
まだ機能を停止したままのデッサに歩み寄り、ハルはちょっとごめんね——と後頭部を確認した。
「やっぱりだ」
リグナの背面拡張コンソールは、あとからオーラによって付け足されたものだ。ほかと同じような素材でできているし、機能本位なデザインもよく似ているものの、それは両腕の可動域を阻害しないぎりぎりの場所に、なかば強引にはめ込まれていた。
その背面拡張コンソールと同じように、はじめは無かったと思われるものがあった。額の装身具や左耳の通信機と一体化したバレッタだ。確かに髪をまとめる役割は担っているが、ほかに何の機能もなければ、ヒト型機械兵として必要なものでもない。そしてデッサの後頭部を確認すると、やはりそれは無かった。
Prototyped Next-Generation Ldufreide: RIGNA (RE-registered as LOESIAU BLIU).
——オーラによって書き換えられたリグナの説明だ。
「ねえ」
ハルはモジャコの頭の上のジシェに質問した。「ロエシア・ブリーウって、なんて意味?」
「『青い鳥』でござる」
(そういうことか)
ハルはリグナを呼んだ。「ちょっとここへ来てくれる?」
「?」
ほんじゃらけー。
ててててて、とやってきたリグナに後ろを向いてもらって、ハルは携帯大幣を高く差し上げた。
淡い紫苑の髪をまとめるバレッタは虹色に輝き、そしてある立体に変化していく。
それは正十二面体で、三ノ輪橋の跡で出現したものと同じように、けれどもそれよりずっと激しくきらめき、回転しながら空中に浮かび上がった。
まやかしのメモリーカードを残した六つ目の〈追憶のカケラ〉が虚実なのだとしたら、リグナから現れたこの〈追憶のカケラ〉が真実だったということ。
立体がきらめく粒子になって四散すると、ハルの手のひらには碧いメモリーカードがゆっくりと降りてきた。
(本当に大切なものはずっと近くにあった……)
たぶんリグナこそが、時空の背反に巻き込まれて存在が失われていくなか、オーラが想いを預けた〈追憶のカケラ〉そのものなのだろう。
ほかに何の機能もなければヒト型機械兵として必要なものでもない。だけど、オーラはリグナをいとおしく思っていたからこそ、その髪と同じ色のメモリーカードをバレッタとして残したのだ。
ところで。
ここで問題。どうしてコルヴェナは秋葉原に来ることができたのでしょう?
ヒント。
①携帯大幣が〈追憶のカケラ〉に接近するとある種の共鳴が起こる。
②秋葉原で目標地点にたどりつく以前、ハルは駅のまわりをウロウロしていた。
③リグナは、秋葉原駅中央改札口北側にある広場に埋まっていたらしい。
答え——携帯大幣がリグナという〈追憶のカケラ〉に接近して共鳴を発生させていたから。
ハルは、碧いメモリーカードをリグナの背面拡張コンソールの挿入口に入れた。
「あった……、円環コアのセキュリティ解除コード……」
そしてそれとは別に、オーラが残したもうひとつの可能性を見つけてハルは声を漏らした。「ロートの追憶への交信……」
どどど、とエンジン音を響かせ、霜降橋の交差点を大型のバイクが右折してきた。ハンドルを握るのはモジャコの姉、楙莝瑪瑙で、後ろは派手派手アロハに三角グラサン。
モジャコに呼ばれた瑪瑙が途中でハイパーじじいを拾ったようだ。
(来たか……)ハルは苦虫を噛み潰す。
そのうち登場するだろうとは思っていたものの。
高嶺は、よっこいせ、とバイクから降り、ヘルメットを取って白いハットをかぶり直した。瑪瑙はデニムにカジュアルな革ジャケットのコーデ。
「ミコちゃん、久しぶり♥」お姉さん再び。
「はは……」ハルは乾いた笑い。
「かっかっかっ!」そしてじじいは高笑い。
——ひととおり分析して、ハルはみんなの顔を見回した。デッサもすでに再起動している。
「じゃあ、整理するよ」
何も無い空中、視線の高さに一キロメートル四方の地図が描画される。データはハルのスマホから転送されているもので、映像はそれを受信したパルノーの小型コンソールから投影されているもの。データを転送できているのは高嶺がちゃちゃっとスマホをチューニングした結果。
(まったく、初めて見たハードの仕組みを、なんでそんなにすぐ理解できるんだか……)
ハルは呆れる——が、初めて見た通信プロトコルの仕様を、さくさくっと理解して設定したのはハルだったので、モジャコは、どっちもどっちだ、と思った。
中央にあるのは新宿駅の巨大ターミナル。縦方向に左から京王、小田急、JRの駅が並び、そこへ右手から丸ノ内線と都営新宿線が並走しながら向かってくる。二つの路線はすぐ手前の新宿三丁目駅で交わり、上下を入れ替え、丸ノ内線のほうは京王、小田急、JRのホーム北端をかすめるところに、都営新宿線のほうは南の甲州街道の地下に駅を設けている。
新宿三丁目駅では画面の右上からのびてきた副都心線も交差する。副都心線は新宿駅には立ち寄らず、カーブを描きつつJRの線路と並んで画面の下へ消えている。丸ノ内線と副都心線の駅はそれぞれの東端と北端、地図でいうと右端と上端でほぼ直角に接続する。そこが新宿三丁目交差点で、交差点の右手にある都営新宿線の駅へは連絡通路がのびている。
丸ノ内線と都営新宿線の新宿駅にはそれぞれ直交する駅があって、それが大江戸線の新宿西口駅と新宿駅。二つの駅は、同じ直線上にあるからそのまま進めばつながることになる——が、トンネルは駅を出たあと、両方とも都庁前駅の方向へ九〇度の急カーブで曲がって合流していた。
「——だから、そこを短絡できるようにアイルの発生装置を設置した」
急カーブがはじまる二つの地点を、ロカは画面上で指し示した。
ハルが説明を引き継ぐ。
「二手に分かれて、モジャコとコルヴェナちゃん、そしてポジヲくんとリグナちゃんとデッサちゃんは、それぞれの地点へ向かう。目標はアイル発生装置の出力低下——」
空間投影の映像が切り替わり、クォータービューの立体地図が二つ表示される。駅の構内図で左は新宿三丁目駅、右は丸ノ内線新宿駅と大江戸線新宿西口駅。そこへあとから赤い線が描き足されていく。
「ロカくんの分析では、ヒト型機械兵のユツァがいるのは新宿駅のほう。まもなくここにノランが合流する。モジャコとコルヴェナちゃんは、四ツ谷駅から丸ノ内線のトンネルに入って新宿駅へ、そして丸ノ内線の新宿駅から大江戸線の新宿西口駅へ向かう。途中の新宿三丁目駅には、改六型のボーデが大量に展開しているから気をつけてね」
モジャコは「オッケー」と、左手でつくった拳を右の手のひらにぶつけた。
「だいじょぶ、だいじょぶ。なるべく引きつけて、リグナたちの進路も確保するよ」
コルヴェナのほうも、ふふん、と胸を張る。
「ルートは夜目が利くジシェが覚えてね」
「心得たでござる!」
モジャコの頭の上でジシェは答える。
ハルは、立体地図の右側を都営新宿線と大江戸線の新宿駅に切り替え、さらにもう一枚、副都心線の雑司が谷駅のものを加えた。赤い線をリセットして新しく描き直す。
こちらはずっとややこしく、雑司が谷駅から副都心線のトンネルに入って新宿三丁目駅へ、新宿三丁目駅で都営新宿線へ移動、そこから新宿線のトンネル経由で新宿駅へ、さらに大江戸線の新宿駅に向かう——というルート。
「ポジヲくんとリグナちゃんとデッサちゃんはこれ」
ハルには「これ」というほかに説明のしようがない。
当然ながらルートはポジヲ考案。すべては鉄ヲタの御心のままに。
(迷路だよ、これ……)とハル。
(どうしてまた、こんな面倒なルートに……?)とモジャコ。
「雑司が谷駅って、副都心線のなかでいちばんらしくない駅なんだ。古くからの住宅地の中だから深夜は人通りがないし、シャッターを破壊して侵入するなら、間違いなくここ!」
こわ……。
侵入した後は最短ルートらしいが、それはもうどうでもいい……。
ミチルは「任せてね!」とゴーグルを着け、リグナは「わかった」と、ほほいのほーい。デッサは軽く頷くだけだ。
「ロカくんは、旧円環コアのセキュリティ解除コードで新円環コアに侵入して、可能な限り稼働を遅らせる。パルノーくんとじじいは、ここで〈ロートの追憶〉への交信を準備」
パルノーもマイク越しのロカも黙って頷き、じじいは「かっかっかっ!」
「そして、わたしは瑪瑙さんと松が谷の秋葉神社へ急ぎます——」
「いやん、ミコちゃんってば♡ お姉さんって呼んで♥」
「ええと……」
仕方がないのでハルはいい直した。「お姉さんと松が谷の秋葉神社へ急ぎます」
「なんだか妹ができたみたい♥」
あなたには、琥珀という妹がすでにいます。
ミチルは、デッサが分離した〈ティアの羽根〉という装置を両肩に装着した。透明にぼんやり光る羽根が背中に生まれる。周囲の景色が歪み、ミチルの体は地面からわずかに浮かび上がった。
人間用の簡単な飛翔装置らしい。それにしてもデッサが装備していたということは、コルヴェナも使おうと思えば使えたわけで、そんな便利な装置をどうしてこれまで使わなかったのだろうか——?
「人間にはモノを使うタイプと使われるタイプの二種類がいるの。でも、あたしはそのどちらでもない。あたしはすばり、モノに頼らないタイプ!」
コルヴェナは、ずばばばんっ、とミチルに人さし指を向ける。
「いい換えると、使いこなせなかったということですね!」
丸眼鏡は、すばびしんっ、とコルヴェナに人さし指を向ける。
気が合いそう。
コルヴェナと、その肩に手を添えたモジャコがフォルトヴで移動したのを見送り、リグナとミチル、そしてデッサも侵入地点へ向かう。ハルも瑪瑙のバイクに乗って松が谷の秋葉神社へ。
深夜の街は静かで、行き交う車のヘッドライトもまばらだった。
碧いメモリーカードに残された記録の中で、オーラもまた、パルノーと同じように〈ロートの追憶〉を古代の星の舟と予想した上で、ひとつの仮説を立てていた。
(星の舟は眠っているだけであり、結界とはその眠りが妨げられないように施されたもの。ルジェが星の舟の正確な位置を知ることができたのは、一九二三年九月、あの大地震で結界が揺らいだから)
結界は星の舟と強く結びついている。かつてあったはずのその制御装置を見つけ、円環に干渉されずに伝送路を構成することができたのなら、星の舟へ交信できる。
(オーラさんはそれを“ソニテ”と呼んでいた……)
ただそれがどこにあったのか、そしていまどこにあるのか、オーラにもわからなかった。
まして——ハルに知るよしもない。
そもそもすべては仮定の中の物語であって、もしすべてが正しかったとしても、交信の結果として何が起こるのか、まったくわからない。
けれども、それならただ手をこまねいて待っているのかといえば、そんなことはない。
(なにもせずに後悔するくらいなら、やるだけのことをやって後悔したほうがマシだ)
それに、いちばんわからない疑問の答えを導き出そうとするとき、すべては正しいと思えてならないのだ。
(なぜ、星の舟は東京の地下に眠るのか——?)
モジャコとコルヴェナは、四ツ谷駅の誰もいないホームに降り立った。
丸ノ内線には地形の関係で地上を走る区間が三か所かある。四ツ谷駅もその一つで、外濠の跡とその底を走るJR中央線を越えるためホームは高架になっていた。駅の前後はすぐトンネルだ。
ホームドアを乗り越えて線路に降り、そのまま駅舎が覆いかぶさる新宿側のトンネルへ。天井の低い箱形のトンネルを急ぐ。
リグナとミチル、デッサは、雑司が谷駅の1番出口の前にやってきた。
周囲は静かな住宅地で背の高い建物はほとんどなく、確かに副都心線の駅らしくはない。真上の道路には都電荒川線の線路もあって、停留場の名前は鬼子母神前。
道路は工事中のようで、あちこちがフェンスや白い鋼板で覆われ、工事関係の車両やオレンジ色の看板も多く雑然としていた。もっとも深夜とあっては物音はなく、照明がただ煌々と照らすだけ。
1番出口は換気塔を兼ねた小さな建物で、リグナがシャッターの鍵を壊して中へ侵入した。非常灯だけの薄暗いなかエスカレーターと階段のある空間を降りていく。池袋方面とある改札口を通り抜け、さらにホームのあるフロアへ。ホームドアを越えて線路に降りると、細いチューブ状の円形トンネルを新宿方面へ進んだ。
深夜の街を瑪瑙のバイクは走っていく。谷田橋交差点から不忍通りへ。
ロートの追憶——とハルは考える。
ルジェの民が円環を展開するための環状地下空間を構築しはじめたのは一九二三年九月。これはまさに関東大震災が発生したときだから、あの大地震が結界を揺り動かしたと考えるのは正しいだろう。
一方で、場所の特定まではできなかったものの、ルジェはそれよりもまえに〈ロートの追憶〉がこの星に存在することは察知している。それが一八八八年。
秋葉原という地名は、現在は松が谷にある秋葉神社がそこにあったことに由来する。
すぐには思い出せなかったけれども、その秋葉神社が秋葉原駅に場所を譲って立ち退いたのは明治二一年——一八八八年。
秋葉神社にソニテがあって、その秋葉神社が秋葉原から離れてしまったから結界が弱まった——だからルジェは星の舟の存在を知ることができたのだ——と考えるのはどうだろうか。
偶然かもしれない。
しかし、ジシェが転移先として秋葉原を選んだのは、ヴォーユ・ア・ヴォエレ座標系上、抜群に安定している場所だからだ。そうであるのなら、星の舟の眠りが妨げられないように施されていた結界、その制御装置であるソニテも秋葉原にあったのではないだろうか?
なにより、リグナは秋葉原に眠っていた。秋葉原駅の中央改札口北側にある広場の真ん中。
そこは——まさに秋葉神社があったところ。
パルノーと高嶺は、霜降橋跡から駅のほうへ半分ほど戻り、駒込妙義神社の境内に移動した。
駒込橋から霜降橋へ下る本郷通りの坂を妙義坂といい、その途中にある小路を西へ入った先にあるのが駒込妙義神社。住宅地の中にある小さな神社で、提灯の柔らかな光が静かに境内を照らしている。
拝礼してから、パルノーは仮想的なディスプレイとキーボードを空中に投影して作業をはじめた。
ロートの追憶への交信。
それには円環に干渉されずに伝送路を確保する必要がある。ポジヲが選んだのは千代田線の地下トンネルだった。
東京には十三の地下鉄路線がある。
東京メトロの銀座線、丸ノ内線、日比谷線、東西線、千代田線、有楽町線、半蔵門線、南北線、副都心線、都営地下鉄の浅草線、三田線、新宿線、大江戸線。
大江戸線は都内を環状に巡り、ほかの十二路線はすべてその環の中を通る。必然的に二か所で交差することになり、交差している以上は乗換駅があるはずだ。
——千代田線にはない。
大江戸線のパープルのラインは、千代田線のグリーンのラインと湯島駅付近、乃木坂駅付近で交差しているのに素通りする。もっと正確にいうと、千代田線の駅のほぼ真下を大江戸線のトンネルがただ通過する。
つまり、千代田線だけ大江戸線のトンネルと物理的・空間的につながっていない。
パルノーがキーボードにコマンドを打ち込むと、遠く荒川を渡る鉄橋の上に、ペリドットのように鮮やかな翠の光が閃いた。常磐線やつくばエクスプレスの鉄橋と並んで荒川を渡ってきた千代田線は、ここから地下にある北千住駅へ向かってトンネルに入っていく。
光は九つ角の星形を一筆書きに描いて収束した。
図形はゆっくりと回転をはじめる。
同じように、遠く、代々木公園の南西にも翠色の光が現れた。
北千住からトンネルに入った千代田線は、町屋、千駄木、根津、湯島といった昭和の情緒を残す街に立ち寄り、都心を貫通する。そして赤坂、明治神宮前を経由し、代々木公園と代々木上原の間で地下から顔を見せる。
そこは、新宿から南下した小田急線が急カーブで西へ方向を変える地点。上下線二組の線路の間に千代田線の二組の線路が現れ、地下から高架の代々木上原駅へ一気に登ってくる場所だ。
ペリドットの輝きは、やはり九つ角の星形を描き、星形は緩慢に回りはじめた。
ひとつは、正九角形の頂点を一つおきに結んでできた、穏やかな星形正九角形。
ひとつは、正九角形の頂点を三つおきに結んでできた、鋭い星形正九角形。
——さらにキーボードの上に指を走らせ準備を進めながら、パルノーはぽつりと言葉を零した。
「祖母は、最後まで恨み言のひとつもいっていなかったのでしょうか? 祖母はただひたすらに、使命をまっとうするために走りつづけていたのでしょうか?」
「これでもか、というくらいの恨み節じゃ!」
高嶺は、かっかっかっ、と笑った。「なによりも、生まれたばかりの娘を抱きしめてやれんことを、ずっと悔やんでおった!」
「それを聞いて安心しました。母は、祖母の行動をなかば神聖化されることを嫌います。祖母はただの人であったと、そう思いたいのです」
「オーラ殿に遭遇したのは神楽河岸というあたりじゃ!」と高嶺。
ハルがもし聞いていたら信じがたいことに、「クソじじい」にも若者と呼ばれるころがあって、高嶺がオーラと遭遇したのは、夜も遅く、研究を終えて大学の校舎を出たところだったらしい。神楽坂下、外濠を望むあたり。
「街はすっかり変わってしまったが、外濠の水辺と桜並木だけは変わらん。すべてが終わったら目に焼きつけて帰るがよかろう!」
はい——と答えて、パルノーは作業を続けた。
新宿三丁目駅の空間に入ると、ボーデが大量に押し寄せてきた。
「改六型ボーデでござる!」ジシェが叫んだ。
さて、どうするか——と、モジャコは横を走るコルヴェナをちら見する。
(急に共闘することになったけど、ついさっきまでは敵どうしだったわけだし、ブライドも高そうだし、だいじょぶかな?)
けれども視線に気がついたコルヴェナは、走りながら「ふふっ」とほくそ笑んだ。ずばびよーん、とモジャコに指を突き立てる。
「宿命のライバルが共通の敵を前に協力して立ち向かう……。ずばり、美しくなくて!!」
美しいかどうかはともかく前向きなのは喜ばしいことである。
ところでジシェの話によれば、改六型ボーデは六型ボーデとは違って打撃が通用するらしい。
「ではさっそく!」コルヴェナは、はりきってガーネットの電撃をまとった半透明のガントレットとブーツ、そしてゴーグルを実体化した。
「あ、おい……」モジャコは呼び止める。
コルヴェナは聞いていない。向かってきたボーデを迷わず蹴り返せば、ボーデはその場で大爆発した。「うぎゃ」
改六型ボーデには確かに打撃は通用するが、衝撃を受けると高確率で爆発し、しかも誘発を呼ぶらしい。
「ぜんぜん平気!」吹っ飛ばされたコルヴェナは爽やかに立ち上がった。「うっかりはいけないわね!」
もとはといえば、改六型ボーデはコルヴェナたちが持ち込んだ兵器ではなかろうか……?
モジャコは思い悩む。とはいえ「うっかり」と自信過剰に目をつむれば、もともと潜在能力は高いので頼もしい相棒ではある……と信じたい。
「二つを同じ速度でぶつければ、爆発は相殺されるでござる!」
「オッケー」とモジャコ。
「任しときなさい!」とコルヴェナ。
視線をかわし、お互いに素早く別々のボーデの後ろに回り込む。そして方向はそのままに角度を変えてぶつける。あうんの呼吸だ。
三回に一回はコルヴェナはしくじるけれども、なにしろ頑丈なので心配はない。その間に、モジャコは別のボーデをいなして仲間に突っ込ませ、誘発させる。
「むむ! モジャコ殿、コルヴェナ殿、新手でござる!」
改六型ボーデはどんどん押し寄せてきた。
「望むところだな!」
階段や狭い通路に集中するボーデは誘発させれば一網打尽。
「向かうところ敵なし! そうでなくて、モヨコさん!?」
「あ、後ろ!」
悦に入っているコルヴェナの後頭部をボーデが直撃した。「ふんぎゃー」
(ポジティブも度を超えるとなー)とモジャコは思った。
あと、できることなら名前は覚えてほしい……。
「兄さんから通信!」とコルヴェナは手首の小型コンソールを確認した。「円環の形成がはじまったって!」
「完成までは!?」
「かなり妨害工作はしたみたいだけど、もって三分!」
「上等!」
改六型ボーデをほぼ殲滅して次のトンネルへ。すぐにまたホームのある空間に飛び出せば新宿駅。
「向こうの階段でござる!」頭の上でジシェが指し示す。
「おう」と答えて振り返れば、コルヴェナがボーデに取り囲まれて「ぬぎゃー」
「だいじょぶか!!」
モジャコは加勢しようとする——が。
「ぬわんのっ!!」
コルヴェナはボーデを強引に振り払った——爆発するのもお構いなしに。
……。
力ずくにもほどがある。
ボーデを蹴散らしてホームを通り抜け、いちばん端にある階段から西改札のある空間に駆け上がる。広いコンコースをジシェの指示に従って右手へ進み、階段を今度は駆け降りていく。
「天井が少し高くなった」
非常灯の明かりだけではほとんどわからないが、壁の色がクリームからグレーに変わって重厚感も増す。
「ここからが大江戸線のために造られた部分ってことか」
停止しているエスカレーターをさらに駆け降りれば、「JR新宿駅方面」と書かれた大江戸線新宿西口駅の改札口。入ってすぐの階段を降りればホームだ。
(さすがにしんどくなってきたな)モジャコは口許でつぶやいた。
四ツ谷駅から走りっぱなしで新宿三丁目駅からはボーデの大群相手。こと体力に関してはそうとうの自負はあるが、それでも限界はある。
(あとひと踏ん張り——)
自分にいい聞かせる。
「ゔ」
後ろからコルヴェナの呻き声が聞こえた。「うぎゃー」でも「ふんぎゃー」でもない。
珍しいこともあるもんだ——とボーデをいなしながら肩越しに見返れば、コルヴェナはこめかみから流れ落ちる血を拭い、鮮血に染まったその手を呆然と見つめていた。
「コ、コルヴェナ!」
「……」
けれども呼びかけには答えず、コルヴェナは一気に加速した。押し寄せてくるボーデをかわしていく——まるでそこには何も存在しないかのように。
(やるな!)
モジャコは笑みを浮かべた。(——ということは、こっちも、こんなところでへばってる場合じゃないかな!)
すぐに追いつき、コルヴェナの動きに合わせてボーデを受け流していく。
(水のように……)
誰かとともに道を切り開くときこそ、楙莝流の真骨頂。階段を駆け降り、ホームへ。都庁前駅の方向、緩やかな右カーブの向こうに赤紫の光が見えた。
「アイルの発生装置でござる!」
ホームドアを跳び越え、線路に降り立つ。
ボーデがモジャコを包囲する。間に入ったコルヴェナがガントレットで振り飛ばし、彼女の背後に迫ったボーデをモジャコが撃退する。
すでに、コルヴェナの小型コンソールからは秒読みが聞こえていた——。
ミチルとリグナ、デッサは副都心線の新宿三丁目駅に突入した。
「ボーデがほとんどいない」
ミチルは〈ティアの羽根〉でホバリングしながら周囲の様子を探る。「コハクさんとコルヴェナさんが引きつけてくれてるんだ」
「……」
“コハクさん”とは。
リグナは、だれじゃらほい? と小首を傾げた……。
残存する改六型ボーデを掃討しながら突き進み、長いエスカレーターを駆け上がる。登り切ったところが伊勢丹正面改札で、ちなみに出口専用。
短いエスカレーターと階段、そしてコンコースを駆け抜ける。途中で、副都心線のホームから続く白で統一された空間が、レンガ風のタイルを基調にした落ち着いたものに変わった。都営新宿線の改札を抜けて左手の階段を駆け降り、そのままホームから続くトンネルへ。
トンネルを抜ければ新宿駅だった。
「気配が無くなった」ミチルは警戒する。
その空間にボーデの姿はまったくなく、ただ薄暗い真夜中のホームが横たわっていた。
「ギルレンデがいれば充分だということだろう」デッサがはじめて口を開いた。
階段を駆け登って光沢のある白い壁と黒い床の空間を進む。柱の色が途中から鮮やかな青色に変わる。深く潜っていく長いエスカレーターの手前でデッサは立ち止まった。
降りたところが大江戸線のホームだ。
「ロカから通信だ」デッサは左耳の通信機に意識を集中させた。「円環の形成がはじまった。猶予は三分だ」
ミチルは頷いて、それから動かないデッサを振り返った。「どうしたの?」
「一度は裏切った自分を、コルヴェナはなぜ使いつづけるのだ?」デッサは吐き捨てた。「わたしには理解できない」
身を固めるのは硬質の素材で出来たカーキ色の装甲。両手両足は無骨な黒いブーツとグローブ、背中にはロケットランチャー、肩口には複数の銃口。ブロンドのショートヘアーは濃いオリーブ色の装身具で押さえられ、アクアマリンのように透明な双眸はただ無機質。
——そんな彼女が困惑の言葉を零したので、ミチルは口許に笑みを浮かべた。
「信頼してるから——じゃないのかな?」
「……」
「一時的に乗っ取られたのは不可抗力だし、六一〇〇万光年も離れたこの星で、コルヴェナさんはデッサさんを頼りにしてるんだよ。なにもいわないのは、いわなくてもわかると信じてるからじゃないのかな?」
「……」
止まっているエスカレータを駆け降りる。都庁前駅の方向を見れば、トンネルの向こうに、赤紫色の光を背負って誰かが待ちかまえていた。
「左がノラン、右がユツァだ」デッサが指し示した。
戦闘特化型ヒト型機械兵——ギルレンデ。両方とも見るからに重装備で、堅い装甲をまとって大量の火器を担ぎ、両手にもすでに武器を装着していた。
ノランはローズピンクの瞳で「ひひ」と嫌らしく笑って、空色の髪をかき上げた。
「旧式ガルバルデとルドゥフレーデの失敗作がわざわざ壊されるために来たのか? くく、喜べ、容赦なくいたぶってやるぞ」
一方、ユツァのほうは足下に視線を落としたまま、ぶつぶつと独り言をいっていた。瞳と髪の色はノランと同じだ。
「なぜ俺様がこんな辺境でつまらない任務に当たらなければならないのだ……? 我が主は正しい判断を下しているのか……? 疑問だ……まるで理解できない……」
ノランはただただサディスティック、ユツァは任務が不満でやる気がない。
ほかにもっと適当な個体は無かったのだろうか……?
もっとも、どのみち狭隘な地下空間においてギルレンデの重装備は意味がなく、それどころか機動力を殺ぐだけで文字どおりの重荷でしかない。
ボヒーユの無能さと人望の無さが手に取るようによくわかる。
だが、とデッサ。
「それでも我々が勝つ確率はゼロだ」
——と、彼女は透明なアクアマリンの瞳でリグナを見た。
なぜ勝てなかったのか——?
次世代型ルドゥフレーデ——試作だけに終わり廃棄された失敗作。
すべての能力が中途半端で、単体では何もできない役立たず。
探査・索敵に至っては、人間の感覚を借りなければならないというありさまで、できることといえば人間と共闘することくらい。
すべてにおいてガルバルデのほうが優れている——はずだった。
結果は見てのとおりで、しかも自分はといえば、肝心なところで役に立たないどころか敵に制御を奪われ、味方を裏切る始末。
すべてにおいてガルバルデのほうが優れている——?
笑わせる。ルドゥフレーデとガルバルデとでは、開発された年代が半世紀も隔たっている。性能がよいのは当然のことだ、自慢することではない。
だが、そんなことに自惚れ、現実を見ようともしなかったのが自分だ。
リグナは変えようのない事実はそのままに受け容れ、それならばどうするべきか、どうあるべきか、ひたむきに考え、無いものは補いあい、手をとりあって歩んできたのだ。
敵うはずがない。ただ、だからといってこのまま諦めるわけにはいかない。
不遜と矜持は隣り合わせだ。慢心を捨て、誠実に歩いていきたい。
自分にもできるだろうか——リグナと同じことを。
——と、勝手にアテレコしてみて、うーん、どうだろ? とミチルは自分で否定した。
丸眼鏡はなんとなーく、デフォルメされたデッサを想像して見た。
こめかみに怒りのマークのSDデッサがリグナに眼をつけている。その後ろには、超極太ゴシック体で「なめんなよ、コラ」という文字が浮かんでいた……。
(絶対に負けは認めないんだろうなー)ミチルは思う。
リグナのほうは、ほんじゃらけー、と我関せず無関心。
デッサは額の髪飾りから小さなカードを取り出した。「正攻法では絶対に勝てない。わたしとリグナを完全にシンクロさせろ」
ミチルはカードを受け取ってゴーグルに挿入した。リグナと同期していた感覚にデッサのものが混じって目が回る——が、目が回って困るほどの運動能力もないのですぐに慣れた。
「いいか?」
デッサはミチルに指を突きつけた。「わたしはガルバルデだ。出来損ないのルドゥフレーデにできて、ガルバルデにできないことなどあるはずがない。おまえを信頼してやる。その代わり全力を尽くせ」
答えを待たずに、デッサはユツァに向かって突っ込んでいった。リグナも続いてノランへ。ノランは、ヒャヒャ、と笑ってリグナの攻撃を軽く受け止めた。
「ぬるい! ぬる過ぎる!!」
すぐに反撃に転じ、ノランはリグナを押しはじめた。
それを、狭隘な空間と駅の構造物を巧みに使ってリグナはかわしていく——が、ノランのたたみかけるような攻撃は激しく、まるで余裕がない。相手が大きく振りかぶったところでようやく懐に入った。
ノラン自身の力を利用して投げ飛ばす。ノランはトンネルの壁面に激突した。ただ、まるでダメージはなく、無感動に首をもたげ、すぐに向かってくる。
攻撃はますます熾烈で、体をかすめた打撃でリグナは吹っ飛ばされた。どうにか柱にぶつかる前にバランスを取り戻し、再びノランに向かっていく。
デッサのほうはユツァに引けを取らず、真正面から頭突きを喰らわせると相手を振り飛ばした。
地面に叩きつけられたユツァはむくりと起き上がって、凝りをほぐすように首を回した。「面倒だが……仕方ない……」
ユツァは高速でデッサに迫った。それを軽く重心を移動しただけでデッサはいなした。ユツァはすぐに体勢を立て直して向かってくる。ダメージはまるでない。
けれどもミチルは驚いた。
(すごい)
出来損ないのルドゥフレーデにできて、ガルバルデにできないことなどあるはずがない——文字どおりに解釈すれば、ただ傲慢なだけの言葉だ。けれども裏を返せば、リグナのやり方を認め、倣ってやろうということであり、そして有言実行するのだから伊達ではない。
(僕も二人の役に立てるように——)
リグナはひたすらノランの攻撃に耐えていた。
「ひひ、弱いヤツをいたぶるのはこの上なく愉快だ!!」
その攻撃が直撃しなくなっていることに、ノランは気づいていなかった。
デッサの通信機を通じて、ミチルの耳にも残り時間が聞こえていた——。
秋葉神社、西の鳥居の前で瑪瑙はバイクを停めた。
「ありがと」とハルはヘルメットを手渡す。
「やん♡ 『ありがと』なんて、お姉さん、嬉しい♥」
「はは……」
苦笑い。
秋葉神社の西方は二車線道路に面していて、正面は大きなマンション、両側も商店のビルに挟まれていた。ただ、明かりが消えてしまえば高い建物も夜の色で、鳥居はずっと昔からそうであったように静かにたたずんでいた。
ハルは社務所の鍵を開けて中に入った。拝殿の明かりを灯せば、真っ暗だった境内に柔らかな光が落ちる。
「素敵なところ。きっとずっと大切にされてきたのね♥」
おっしゃるとおりですが、最後の「♥」はなくてもいいです。
ハルは別の鍵を持ち出し、拝殿の前で深く頭を下げた。
扉を開けて中に入る。奥の本殿へ進めば、祭壇の前に小さな鈴が置かれていた。
(小さいころ、舞子おばちゃんに手のひらに乗せてもらったとき、見た目よりすごく重くてびっくりした)
鈴を手に取る。不思議な温もりを伝える重さが「ころん」と音を響かせた。
「あ」
鈴の音に呼応して巾着から光が零れ出す。
“ソニテ”とは古いロートの言葉で“鈴”のこと。
ハルは鈴をもとに戻して外へ出た。携帯大幣を取り出せば、まばゆく輝いていた。
もしそのとき遥か上空にいて、東京の地下を透かして見ることができていたのなら、真夜中の街に重なり、歪な円環が臙脂色に鈍く脈打つのを目の当たりにしていたはずだ。
その円環の東の端でルビー色の光が閃く。光は何かに行く手を阻まれ、激しくスパークする。障壁は厚く、そして何度も復活する。
だが、やがて溢れた光は両側へ一気に進みはじめた。
少しも速度を緩めることなく、瞬く間にその形を創り上げていく。
大江戸線新宿駅構内。
リグナとデッサは、お互いに背中を合わせるような形で何とか膝を突いて起き上がった。二人とも満身創痍で体のあちこちから火花が飛び散り、瞳に力はない。
「もう終わりか!」ノランは嘲笑した。「まあいい、もう飽きたし、ひと思いに破壊してやる!」
「つまらない任務だった……」ぶつぶつとつぶやき、ユツァは首を回した。
すでに抵抗することもしない二人へ同時に突っ込んでくる。
ただ——当然のことながら——リグナもデッサも諦めていたわけではない。それはミチルも同じで、いつの間にか、リグナとデッサはもちろんのこと、ユツァとノランの動きを完全に掌握できて、かつトンネルの向こうまで見渡せる位置に移動していた。
(ここだ……!!)
リグナとデッサの瞳に輝きが戻る。二人はまったく同じ瞬間に相手の攻撃をかすめながら跳び退いた。
「な……!!」
「おい……!!」
激突したノランとユツァはバリバリと電撃に包まれ、線路の上に落下した。
そこを——空中で身を翻したリグナとデッサが高速で突き抜ける。
細いチューブ状のトンネルの先へ。
短い直線区間が急な左カーブへ変わる直前に、赤紫色の光を帯びた輪が浮かんでいた。
「あった!!」ミチルが叫ぶ。
リグナとデッサは同時に跳躍し、その光の輪に脚を伸ばす。
大江戸線新宿西口駅構内。
ボーデの大群の中をモジャコとコルヴェナは走り抜ける。
ホームの先、曲線がきつくなる手前に赤紫色の光を帯びた輪が浮かんでいた。
「あれでござる!!」ジシェが叫ぶ。
モジャコとコルヴェナは迷わずその光の輪に脚を振り降ろした。
次の瞬間、背後から追ってきたルビー色の閃光が、その光の輪の残像に激突した。
「わっ!!」
「むぎゃ!!」
線路の上に身を伏せたすぐ上をバリバリと火花が駆ける。
残影の中央を、空間を引き裂きながらルビー色の光は貫通する。
そして見えないもうひとつに向かって、しかし稲光がそうであるように道を誤りながらジグザグに突き進んでいく。
上空から見下ろしたルビー色の歪な円環は、西の端で激しくスパークしながら結ばれようとしていた。
そこへ、円環の南北で突然に現れたペリドットの光が急速にその輝きを強めると、滑らかに流れるように進みはじめた。
そのきらめきをさらに強めながら加速していく。
円環を越え、蛇行しながらもさらに内側へ——導かれるがままに。
そして二つの光は円環を貫く一条の線を描いた。
ふと、曖昧に別のかたちがそこへ重なり、そして——ふっと消えた。