5. 面影橋メモリーズ
ハルは、スマホの地図をスクロールして面影橋停留場の周辺を表示した。
都電荒川線は東西にのびる新目白通りの上を走る区間で、早稲田停留場から西へ少し進んだ後、右折し、明治通りに沿って北上する。その手前、早稲田停留場から一つ目が面影橋停留場だった。
新目白通りの北側には神田川が寄り添うように流れている。地図からはわからないが、停留場のそばにある橋が面影橋なのだろう。
昔は都電にはたくさんの路線があって、都内を縦横無尽に走っていたはずだ。ちょうどあの地下鉄の路線図と同じように。
しかし「じゃんじゃん造られた時代」は「じゃんじゃん壊された時代」でもある。
(無くなっていこうとする路面電車、その停留場の名前には残っていたけれど、そのときにはもう無くなっていた橋。世界から自分が失われていくなかで、オーラさんはそこに想いを預けたのかもしれない——)
いまのところ、それを裏付けるための材料をハルは持っていない。でも頼んだら——たぶん頼まなくても喜んで調べてくれる友達を一人、ハルは知っている。
確かに信じられると思える何かがそこにあって、そして助けてくれる友達がいるのなら、きっとそれは答えなのだろう。
ハルは猛烈な睡魔に襲われた——というよりも思い出した。くたくたの体に路面電車の揺れは毒だ。
「モジャコ、ポジヲくんに三ノ輪まで来てってメールしといてくれる?」
「おう」
電車は夕暮れの下町をのんびりと走っていく。その心地よい揺れにハルはいつの間にか寝息をたてていた。「たぶんわかったと思う……」
「お疲れさん」と、自分に寄りかかったハルにモジャコは声をかけた。
——二人が知り合ったのは、一年生のとき、モジャコのほうから強引に話しかけたことがきっかけだ。そもそも二人は同じ高校に通っていてもクラスは別で、これといった接点も無かった。
紫陽花が雨に濡れる梅雨の日。
モジャコは学食でハルを見つけて「ねえ、メシ付き合ってくれない?」と呼び止めた。ハルは首を傾げつつも「はあ……」と応じた。
「単刀直入にいうと、巫女舞ってどこで習えるのか教えてほしいんだよね」
軽く自己紹介してからモジャコは切り出した。
特に承諾した覚えは無いのだが、モジャコはいつの間にか、子供会のご意見番という立場になっていて、その子供会の女の子たちから、夏祭りで巫女舞をやりたいと駄々をこねられて困っているらしい。
「家が神社だって聞いて、知ってるんじゃないかって思って。あたしなんか、神輿担いどけ、って思っちゃうんだけど、なんか町会の年寄り連中も乗り気になっちゃって」
「そういうことなら、わたしが教えにいってあげるけど? もともと地元のお祭りで子供たちに教えてるし」
「助かる!」モジャコは素直に喜んだ。
「どこでやるの、お祭り?」とハル。
「御霊社っていう小さな神社。けっこう由緒はあるんだけどね」
文京区湯島は御茶ノ水駅の北側に広がる地域で、西は本郷、駅と神田川を挟んで南は千代田区神田駿河台、東は外神田——わかりやすくいえば秋葉原、北から北東は台東区池之端・上野に接する。湯島天神や湯島聖堂がよく知られ、神田明神もごく近い。高台の突端にあるので、周囲には歴史の古い名前を持つ坂も多い(タモリ倶楽部・ブラタモリ参照)。
その湯島の西寄りにある小さな神社が湯島御霊社。
巫女装束も貸してもらうことになって、モジャコは週末に船橋の秋葉神社まで取りに行くことになった。
ところで、モジャコははじめから自分のことを「モジャコ」であると自己紹介している。家族にさえ本名で呼ばれた記憶が無いらしい。そして、ハルはいつの間にか「ミコ」と呼ばれていた。
「——へえ、いいところじゃないの」
車を停めて、モジャコの姉、楙莝瑪瑙はこんもりとした小さな森と、その南に開いた鳥居を見上げた。
秋葉神社のある船橋市高根町は、まわりが住宅地や団地に変わるなか、いまもなお古い集落と田畑の緑を残すところ。地理的には市中央部の丘陵地で、そこへ海老川水系がつくった谷津が入り組む。
青空が高く透き通る梅雨の中休み。
「だね」と、モジャコは頷く。
二人とも、胡桃色の瞳はいつでも何か楽しいことを考えていそうで、茶目っ気を感じる口許も同じ。
一方で瑪瑙の栗色の髪はストレートのロング、爽やかな夏色コーデはお洒落なお姉さんといった雰囲気。モジャコはレギンスにメッシュのスニーカー、パーカーとニットキャップという格好で、ちなみにハルは、高校の制服を除けばこの組み合わせ以外を見たことがない。
瑪瑙はモジャコの三つ年上で都内の大学に通う。
鳥居をくぐって緩やかな石段を登る。すぐ隣を交通量の多い県道が通っているものの、森の中に入ればその騒がしい音もいくらか遠のく。
モジャコはハルを見つけ、手を振った。「来たよ」
ハルは巫女装束で、社殿の前の石畳を竹箒で掃いていた。白衣と緋袴、足下は赤い鼻緒の草履と白足袋、長い黒髪は檀紙で一つにまとめ水引で結ぶ。
瑪瑙はその姿を見て、グーにした両手をぶんぶん振った。
「やん、かわいいっ♥」
「変な気、起こすなよ……」
お洒落なお姉さん霧散(JM)。
モジャコはひきつつも、はしゃぐ姉をハルに紹介した。「車、出してもらった」
「よろしくね♡ ミコちゃんって呼んでいい?」
「はあ……」
どうしたらいいものだか。
ところで、その視線が瑪瑙とモジャコの髪形を見比べていることに気づき、モジャコはツッコミを入れた。
「顔に出てる、顔に出てる」
「ハイ、すいません」
「血はつながっているらしいよ」
“らしい”というのはどうなんだろうか。
モジャコと瑪瑙が拝礼するのを待ち、ハルは拝殿の横にある建物に案内した。吹き抜けになっているそこでは白衣や緋袴が広げられ、風にそよいでいた。
「小物もあるから、たぶん困ることはないと思うよ」
「ねえねえ、ミコちゃん♡ この建物は、なにに使うものなの?」
両手をグーにぶんぶんぶん。
モジャコどん引き、ハル苦笑い。
「ここは神楽殿、神楽を舞うところです——」
「——お、来たか、来たか!」
声に振り返れば、白いハットにロックンロールな鋭角グラサン、そして派手派手の花柄アロハ——ハイパー神主如月高嶺が歩いてきた。
「おじいちゃんだよ」とハル。
瑪瑙は深々と頭を下げ、ごく自然に礼を述べた。「このたびは妹のために貴重な衣装などをお貸しいただけるということで、本当にありがとうございます」
豹変。
うわー、とモジャコは口をヘの字に曲げた。
「けっこう、けっこう! 年に一度の出番だけで、あとは蔵で眠っているとはもったいない。大いに活用するがよい!」
「でも、初めての子供たちばかりですが、だいじょうぶでしょうか?」猫かぶり持続中。
「やってみないことには、はじまるまい! よい経験になると思うぞ!」
風通しをしていた衣装を手分けして瑪瑙の車に運び、それからモジャコは神楽殿を見上げた。拝殿と同じように、大きくはないけれども、いたるところに細工が施された屋根や柱は立派で、神楽を舞う床も手入れが行き届いている。
見渡せば森の中の小さな境内を風が渡り、木漏れ日が踊る。
「ちょっと見せてもらったりとかできる、巫女舞?」とモジャコ。
「よいではないか! かっかっかっ!」高嶺が答えた。
「ん? 別にいいけど」とハル。
「え!? やん♡ お姉さん、ワクワク♥」
猫かぶり終了。瑪瑙はグーをぶんぶん回した。「どんなの見せてくれるの!?」
巫女舞とは巫女神楽ともいって、巫女による奉納のための舞のこと。神楽歌に合わせ、鈴や榊、扇を手にたおやかに舞う。
「じゃあ『豊栄の舞』のはじまりのほうだけね」
ハルはスマホを操作して神楽殿の床に置いた。スピーカーからは笛や琴の優雅な音色が聞こえてくる。「音質いまいちだけど、我慢してね」
神楽歌が当たり前のようにスマホに入っている時点で、それはもうどうでもいい問題。
何はともあれ、榊を手に、やわらかにしなやかに舞う姿にモジャコは目を奪われた。
こんな感じだけど——とハルは一礼し、曲を止めた。
「やん、ミコちゃん素敵♥ ファンになっちゃう♡」
「はは……」
「そうであろう、そうであろう! かっかっかっ!」
お姉さん大興奮(JM)。
モジャコげんなり、ハル空笑い。
そしてじじいは高笑い。
「素人目でも、いいなって思った」とモジャコ。
「湯島の子供たちには『悠久の舞』を教えてあげるつもりなの。いまの『豊栄の舞』より所作がはっきりしているからわかりやすいし」
「ほんと恩に着る!」
「かっかっかっ! 御囃子の手配もできておるぞ。至れり尽くせりじゃな!」
「へえ!」
——と喜ぶモジャコだったが、ハルは申し訳なさそうに謝った。
「忘れてた、ごめん……」
「あれ、なんで?」
「祭囃子保存会っていう、ほとんど御神酒が目当てのタチの悪いじじいの集団。ま……仕事はちゃんとするから勘弁してあげてね」
「はは……」モジャコは乾いた笑い。「打ち上げの準備はしとくよ」
そして最初の練習日。
梅雨の土曜日の午後、前の年に秋葉神社で行われた巫女舞の映像を見てから、さっそく巫女装束に身を包み、中盤の所作を一つだけ舞ってみることになった。
「いきなり?」とモジャコは心配顔。
けれどもハルは「いいの、いいの」と面白そうに笑った。
参加したのは小学校の中学年から高学年までの女の子、八人だった。
基本的にはやってみたいから集まったわけだ。ただ、それほど積極的でなくても誘われるがままに何となく来てしまった子もいれば、映像を最初から最後まで見て、急に気後れしてしまう子もいた。
それが白衣に袖を通して緋袴を履き、千早を羽織って挿頭を髪に通せば気分も高揚するもの。
さらにハルは、夜遅くなるからと、子供たちの親に迎えに来てくれるようにお願いしていた。
なかにはこころよく思わない親もいれば、あからさまに嫌な顔をする親もいた。稽古や準備に時間を取られるし、場合によっては習い事や学習塾を休ませなければならなかったから。でも、巫女装束に身を包んで舞う娘の姿を披露してしまえばもうこっちのもの。
まんざらでもなくなるし、基本的にはすべて愛情の裏返しなので、厳しい親に限って撮った映像をSNSにじゃんじゃんアップロードしまくり、逆に熱心に応援するようになってくれたりもする。
何年も巫女舞をまとめてるからね——とハルは謙遜した。けれども、学年や覚えの速さを見ながら、臨機応変に稽古の順番を変えてみたり、振り付けにアレンジを加えてみたりするのには、モジャコは感心するしかない。
——もっとも、それはハルがいて、モジャコがいたからできたわけで。
女の子たちは隙を見てはモジャコにちょっかいを出す。くすぐったり、モフモフ髪をいじったりする程度のこともあれば、急に抱きついてみたりパンチしてみたりなんてことも。
モジャコは別に何もいわない。適当にあしらうし、攻撃に関してはぜんぶよける。でも女の子どうしに諍いがあるときは、すぐに優しくたしなめる。それでいて何か言い分がありそうなら、どんなことでも最後まで聞いて、たとえば二人の間にもめ事があるのなら三人で思い悩む。
モジャコはちょっとしたアドバイスはしても、どちらが正しいともどちらが間違っているともいわないから、気がつくと、その二人はそもそも何を言い争っていたのかわからなくなる。
そんなモジャコだから、子供たちはどんな悩み事でも、ときに親きょうだいにはいえないことでも話す。
つまり「子供会のご意見番」になるのは当然といえば当然のこと。どうやら当人に自覚はないようだけれども。
そして大人たちの彼女に対する信頼は厚いから、どんなことでもバックアップしてくれるし、それでいて余計な口出しはしない。
祭囃子のメンバー——通称・タチの悪いじじいの集団、正式名称・祭囃子保存会——も集まり、神社の境内に舞台をつくる準備をしていれば、周囲の人たちもいつの間にか自然と巻き込まれていた。もともとお祭りに熱心な町会メンバーはもちろんのこと、日和見を決め込んでいた人たちまで。
最終的には男の子たちの御神輿担ぎまで気合いが入って、夏祭りは大いに盛り上がったのだ。盛り上がり過ぎて、地元の警察にやんわりと叱られるくらいに。
荒川線の電車は夕暮れの下町を、こまめに停留場へ寄りながらのんびりと走っていく。町屋駅前停留場を過ぎれば、あとは停まるごとに車内は空いていくばかりだ。日比谷線の三ノ輪駅に乗り換えられるとしても、三ノ輪橋停留場はやはり終点なのだ。
(今年も——いや、今年はもっと、盛り上がるといいな——)
モジャコは笑みを浮かべて、顔の前に垂れ下がったジシェの尻尾を引っ張った。「もう終点に着くぞ」
ハルの肩も優しく揺する。
「ほえ……」ぽーっとした目でハルは車内を見渡した。「ものすごくよく寝たかも……」
降車ホームで降りて、ハルたちはちょっとしたアーチをくぐった。
停留場は家々が密集した中にあって、左手は商店街のアーケードの入口、右手はその延長のような町筋、正面は古めかしいビルの中を狭い路地が通り抜けていた。
周辺五〇〇メートル四方の地図を表示して、おおむね南北方向の日光街道と東西方向、高架の常磐線が交差するところを中心に据えると、左上の領域にあるのが荒川線の三ノ輪停留場で、そこを含む上半分が荒川区南千住、下半分が台東区三ノ輪。
ただし区境は常磐線よりも少し南にあって、ちょうど日光街道と交差するあたりを頂点に、複雑に入り組みながら山なりに両側へ裾を広げる。地図の左下の領域では左から下へ明治通りが斜めに横切り、日光街道と交わる大関横丁の交差点には地下鉄日比谷線の三ノ輪駅。
路地を抜けると日光街道で、歩行者専用の信号があった。ハルは携帯大幣をかざした。正確な場所がわからないので反応の強さを確かめていくしかない。
「どうだ?」とモジャコ。
その頭の上からジシェも覗き込む。リグナはぼんやり眼で、ほんじゃらけー、とぼんやり正面の景色を見ていた。
「まだ弱いかも」ハルは答える。
日光街道は交通量が多く、片側二車線の道路をひっきりなしに車が行き交っていた。
信号が変わるのを待って横断歩道を東側へ渡り、光の強さを確認しながら狭い歩道を南へ。昼間は仄めく程度であっても、すでに夕闇に包まれた町にあって携帯大幣の放つ光はかなり明るい。そして常磐線の高架下を抜け、少し行ったところでまぶしいほどになった。
ちょうど荒川区と台東区の区境に当たる地点だが、狭い通りが日光街道と交わる何てこともない場所だ。信号はあるものの歩行者専用のもので、そもそもハルたちのいる側は歩道の柵が続いているから車は出られない。
ただ、そこには「三の輪橋」と記された標柱があって、かつてそこに川が流れ、橋が架かっていたことをささやかに教えてくれていた。
(無くなっていこうとする路面電車、その停留場の名前には残っていたけれど、そのときにはもう無くなっていた橋。オーラさんは、そこに〈追憶のカケラ〉を預けた……)
携帯大幣を高く差し上げれば、虹色にきらめく立体が足下から回転しながら昇ってきた。
正十二面体。
久しぶりに説明すると、正十二面体とはプラトンの立体の一つで、正五角形一二枚からなる正多面体。
立体がキラキラと輝く粒子になって消えると、ハルの手許にはメモリーカードがゆっくりと落ちてきた。大きさも形も広尾で出現したものとまったく同じ。
ただ、色は異なっていた。
「金色でござる」とジシェ。
「本命っぽいな。もしかして、これにセキュリティ解除コードが格納されてる……?」とモジャコ。
ハルは答えずにメモリーカードをじっと見つめていた。すっきりしないものがあったからだ。「これは——」
その言葉を遮るように、急速に接近した何かがハルの手許からメモリーカードとスマホを弾き飛ばした。
コルヴェナだ。
そして飛ばされた二つを、死角から間合いを詰めたデッサがつかみ取った。
「しまった……」モジャコは声を漏らすしかなかった。
もっとも、コルヴェナはいつものとおりに振り返って得意げに、ばびんっ、と指を突きつけた。「ずばり策士!」
モジャコは遠慮なくその腕を取って投げ飛ばした。
「ふんぎゃー」
だがデッサは建物を跳び移りながら、常磐線の高架沿いを西の方向へ逃げていく。リグナが追跡する。コルヴェナも顔面を強打しつつ、どさくさに道路の向こう側へ逃れた。
「あんにゃろ!」モジャコも追いかける。
その背中にハルは叫んだ。「メール!」
モジャコとジシェの上に、ハテナマークがどっさり浮かび上がった。
「……わかった!」
「ぬおっ、以心伝心でござるな! 拙者にはまったくでござる!」ジシェは感嘆の声を上げた。
「ま……まあね!」
モジャコも、実は何のことやらまるでわからなかった……。
路地を抜け、高架沿いの細い通りへ入ったところでコルヴェナの背中が見えた。
「ふふ」コルヴェナは口許で笑った。
周囲の大気がバリバリと震え、球状の何かがいくつも実体化する。
「なんだ!?」
それはちょうどサッカーボールくらいの大きさで、空中をいっせいに高速で向かってきた。
「六型ボーデでござる!」とジシェ。
ちなみに——と説明を加えようとしたものの間に合わない。
モジャコは身を低くして一気に加速した。向かってくるボーデをあしらうようによけていく。
そしてその中の一つを流れのままに右脚でいなし、地面に勢いよく叩きつけた——が、ボーデはバウンドして跳ね返った。
「なんだ……!?」
「ボーデには打撃は効かないでござる!」
「それを早くいえっ!」
「むう」
いちおう説明しようとはしていたんですよ。
高架線の上に跳び上がったリグナは、右脚からクロイツェルを分離してハンドガンに変形した。ボーデを狙う。けれども、ボーデは壁や別の個体にぶつかって跳ね回るものだから簡単にはいかない。
モジャコのポケットの中で携帯電話が震えた。ボーデをかわしながら背面のサブディスプレイを見れば、ハルからメール着信のお知らせ。ああそういうことか——とモジャコはようやく合点がいく。
が、スクロールするメッセージは簡潔に——。
渡しても構わない。
(???)
ハテナマーク再びどっさり。
ともかくモジャコは、ニットキャップにしがみついたモモンガもどきを尻尾を引っつかんでぶん投げた。「いったん、こっちへ!」
「みょーん」
もうどうにでもなれってね。
滑空してリグナの背中にひっつく。伝言を聞いて、リグナはモジャコの横に降り立った。
「無理に奪還しなくてもいいことになった。怪しまれない程度に追いかけて戻る」
眠そうな双眸で、なんじゃらほい? とリグナは小首を傾げた。
古の幻獣。
わかったのかどうかはまるでわからないが、リグナは高架線を足がかりにマンションの屋上に躍り出ると、クロイツェルをバズーカに変形して肩に担いだ。
周囲から線状の光が砲口に収束する。
トリガーを引き絞れば、後ろから勢いよく白い光が噴き出した。
同時に放たれた碧い光弾は、一直線に飛んでいってデッサの背中を直撃。激しい電撃に包まれながらデッサは地面に落下した。
「ハンパねーな……」モジャコは呆れる。
手加減がまったくない。
リグナは右脚にクロイツェルを戻し、涼しい顔(といってもいつもそうだけれども)で降り立った。
「デバイスとメディアがどうなったのかは知らない」
あ、そう——とモジャコは意図を理解した。取り戻す必要がないのなら遠慮も忖度もいらないということ。気の毒なのはジシェで、リグナの背中にへばりついたまま目を回していた。
ハルはもとの場所で待っていて「おかえり」と手を振って迎えた。
合流して日比谷線の三ノ輪駅へ歩いていく。
「電車の中でリグナちゃんを調整していたときにこんな一文があったの」
ハルはスマホの画面をモジャコとジシェに見せた。
(ん……んん!?)
何か猛烈な違和感を感じたが、モジャコはとりあえず話を聞くことにした。
画面はメモアプリで、
Twenty second prime is worthless to fluorine.
——と表示されている。
「和訳すると『二二番目の素数はフッ素の役に立たない』。意味不明なところからすると、“二二番目の素数”と“フッ素”がなにかを暗示しているって考えるのが自然だよね」
「はあ……」とモジャコは曖昧に頷いた。
どうして“素数”やら“フッ素”やらの非日常的な言葉を、何の抵抗感もなく受け容れることができるのだろう……。
で、数ヲタいわく「わかりやすいところから」という前置きから「二二番目の素数は七九ね」とのこと。ちっともわかりやすくないが、非数ヲタ(数ヲタニ非ズ)は、素数という単語を聞いた時点でもうお腹いっぱいなので気にしないことにする。
「ただこれ以上はわからなくて、それならフッ素のほうは——って辞書で調べたら『ハロゲン族元素の一つ(中略)元素記号F、原子番号9』で“9”という数字」
「フッ素は〈追憶のカケラ〉を暗示している——?」
ハルはうなずく。
「今度は戻って“七九”のほう。フッ素の考え方を逆に当てはめると、周期表で原子番号79の元素は金」
「“金”が暗示するものはフッ素が暗示する〈追憶のカケラ〉の役には立たない——」
「そしてあのとき出現したのは金色のメモリーカード。まとめると、二二番目の素数は七九で、七九が暗示する金色のメモリーカードはフッ素が暗示する〈追憶のカケラ〉の役に立たない——ということ」
要約すると、金色のメモリーカードは必要ないということ。スマホもすでに追跡されている可能性があるわけで、逆に無傷ならコルヴェナたちに持たせておいたほうが、こちらが向こうの動きを掌握できて好都合かもしれない。
(ん……んん!?)そこまで考えて、モジャコは再び思い悩んだ。(どうやってメールを送信したんだ? いや——)
彼女が持っているスマホにしか見えない物体はいったい何だろうか?
「ん? これ? スペアだよ☆」
ハルは当然のように答えて、恥ずかしそうに照れ笑いした。「えーやだ、もう、またそんな珍しい生き物を見るみたいな顔をしちゃって。さすがにSIMカードはあっちにしか入れてないから、電話はできないよ。フリーのスポットでメールするのが精いっぱい」
問題なのはスマホを二台も持ち歩いていることです……。
日比谷線の三ノ輪駅は昭和通りの地下、大関横丁の交差点から南側にあって、北口にあたる明治通り方面改札は交差点の北東の角に位置していた。きちんと建物のある出入り口で、入ってすぐの改札機にパスモをタッチして階段を降りて行く。
「松が谷の秋葉神社でポジヲくんを待たせてもらいましょ」
踊り場から左手、中目黒方面の1番線ホームへ下りていく。
「このへんにもあるのか、秋葉神社?」とモジャコ。
「入谷駅から少し歩いたとこ。御祭神は、火産霊大神さま、水波能売神さま、埴山比売神さま。明治のころは秋葉原にあって、それが秋葉原の名前になったんだよ」
「へえ、そうなんだ」
入谷駅までは上野方面へ一駅。
中目黒寄りの改札口を抜けて階段を上っていく。地上に出たところが1番出口で、大きな交差点の目の前だった。南南西から北北東へのびる昭和通りに言問通りが十字に交わり、さらに清洲橋通りが南から斜めに合流するところだ。車のヘッドライトは途切れることなく、歩道を行き交う人も多い。
——で。
「まんまと騙されたわ!」
横断歩道を渡ったところでコルヴェナが現れ、びばののんっ、と真っすぐ腕を伸ばして指を突きつけた。
モジャコは本能的に空を振り仰ぎ、すぐに一点を指した。
「あれだ……!」
すかさず、リグナは右脚から分離したクロイツェルをスナイパーライフルに変形し、モジャコの視線の先にある一点に向かってトリガーを引いた。放たれた光弾が何かに当たって乾いた音が響く。
どうやら、ボーデの一つが空から監視していたようだった。
「気づかなかった」とリグナ。
「ふふっ、あなたのスペック、調べさせてもらったわ!」コルヴェナは縦巻きロールの髪を、ふぁさぁっ、と手で揺らした。「ずばり、あなたの探査・索敵能力のレベルは次世代型ではない旧ルドゥフレーデどころか、その前のロンバルデより劣る!」
バリバリと大気が震え、周囲には数十の六型ボーデが散開した。
「広尾のメモリーカード、預かる」
モジャコは視線をそのままに後ろへ手を差し出した。「先に秋葉神社に向かっててくれ。乱戦になりそうだし、デッサがいないのも気になる」
「わかった」ハルは頷き、白いメモリーカードを手渡した。代わりにジシェを頭の上から引き取って路地へ。
「そろそろ決着をつけさせてもらうわ!」
コルヴェナは右腕と左脚に、ガーネット色の電撃をまとった半透明のガントレットとブーツを実体化させた。どうやら修理したようだ。
「いざ、勝負っ!」
指を突きつけて向かってくる。モジャコはその相手をしながら後退していく。
リグナは左脚からメティス・ブレイドを分離した。右手のクロイツェルは自動的にハンドガンへ変形する。
そこへ、ほぼ真上から飛来した光弾が直撃した。
「——!!」リグナは防御することもできずに弾き飛ばされた。
「デッサか!? どこだ!?」モジャコは空を仰いだ。
が、そこには何も無い。
「隙がありましてよ!」
すかさず、コルヴェナはモジャコの間合いに入って脚を飛ばしてくる。ボーデの妨害も苛烈だ。立ち上がったリグナの右肩は激しくスパークしていた。
「おかしい——」
モジャコは攻撃をかわしながら周囲の気配を探った。(空中で静止でもしない限り、あの命中精度は無理だ。なのに真上には誰もいなかった。そもそもミコの解析が正しければ、ルドゥフレーデにもガルバルデにも空を飛ぶ能力はないはず)
ともかく狭い路地を選んで逃げる。
リグナは火花がはじけるのも構わず、ボーデを切り払い、撃ち落としていく。
周囲は古い商店や民家に少し背の高いマンションの入り交じった住宅地で、すぐに人通りも途切れた。
「だいじょうぶか!?」モジャコはリグナを気遣う。
「そうでもないけど、あと二十三発までなら耐えられる」というのがリグナの答え。
「二十二発までどうにか堪えろ!」
「わかった」
リグナは援護に徹してボーデの相手に集中する。そしてコルヴェナが電撃の左脚を繰り出したときには、あうんの呼吸でモジャコとの間に入って撥ね返す。
空からは深い角度で光弾が落ちてくる。弾かれたリグナはそのたびに体から火花を散らす。
コルヴェナは笑った。「いつまで耐えられるかしら!」
ただ、少しずつ、本当に少しずつではあるけれども、リグナが光弾の狙いから外れていっていることに、コルヴェナは気づいていなかった。
別の路地を急ぎながらハルは漆黒の空を見上げた。
(——リグナちゃんは自分のスペックに限界があることも、それがデッサに劣ることもわかっている)
開発された年代が半世紀も隔たっているのなら、これはどうしようもない事実だ。
だから受け容れ、どうすればよいのかを学んでいるのだ——とハルは信じる。
朝顔の花のカードが素早さを、桜の花のカードが防御力を、銀杏の葉のカードは攻撃力を解放した。そしてそのたびにリグナはスピードを加速させた——。
そう考えていたが、いまになってハルが思うのは、やはり三枚のカードは基礎となる能力を解放しただけで、あの加速はモジャコの動きを愚直に学んだ結果なのではないか——ということ。
(そうであるのなら、モジャコと共闘するときこそ、リグナちゃんのスペックは最大限に生きる)
無かったものである以上そもそも「解放」ではなく、オーラによって与えられた可能性をだんだんと、本当に少しずつ目覚めさせてきたものなのだ。
(たぶん、いまここでしか役に立たない能力だと思う。モジャコといるときに生きる力であるのなら、モジャコといないときにはまったく意味がない。でもきっと、次のことはそのときに考えればいい——)
そう信じたい。
——二十二発目の光弾にリグナはたまらず膝を突いた。全身がスパークする。
「ふふっ! これが限界かしら!」
(……それはどうかな!)
モジャコはボーデを蹴り返してコルヴェナにぶつけた。
「むぎゃー」
そして——モジャコは空の一点を指した。
「あそこだっ!」
光弾はまるで、何も無い虚空から唐突に放たれているように見えていた。
けれどもモジャコの目は、浅い角度で別の方向から飛んできた光弾が、鏡のようなものに当たり、角度を変えて落ちてくるのを捉えていた。
鏡は光弾がぶつかるまでまったく見えず、なおかつ位置はそのたびに変化した。
ただ不規則を装っていることは明らかで、あとはとにかくパターンを読み、次にどこからどのタイミングで来るのか教えてあげればいい。
ぎりぎりまで耐えてもらわなければならなかったが——。
素早くクロイツェルをライフルに変形し、リグナはその一点を正確に撃ち抜いた。
何かが粉々に砕け散る音が聞こえた。
「な……っ!!」
呆然と天を仰ぐコルヴェナに、モジャコはボーデをぶつけた。そして間合いに入ってぶん投げる。「わぎゅー」
失神したコルヴェナを残して、モジャコとリグナはハルを追った。
「平気か?」モジャコは気遣う。
平気ではない、というのがリグナの身も蓋もない答え。「自己修復中。あとはミコに調整してもらう」
ミコじゃないからねー、とハル心の叫び。
まもなく、古い町並みの一角に石造りの玉垣と、夜風にはためく幟が見えてきた。南側に回り、モジャコは軽く一礼してから鳥居をくぐった。リグナもそれを真似る。
しばらくして、道を挟んだ家屋の陰からコルヴェナが顔を覗かせた。(ふふっ、尾行されているとも知らないで! ずばり策士!)
正面の入口らしいところまで移動して、身を低くしたまま、独特の形状をした門を見上げた。
(トリイっていうのよね、知っているわ。ここを拠点にするつもりね。あのフレームに書かれているのがこの場所の名前かしら、読めないけど?)
鳥居の中央に掲げられた扁額には「矢先稲荷神社」と書かれていた。そしてモジャコとリグナは、とっくに社殿の裏手から塀を乗り越え、抜け出していた。
(これでしばらくは邪魔されないかな?)
モジャコは物陰から様子を窺う。コルヴェナは境内のご神木の陰に隠れていたが、モジャコからは丸見えだった。(うーん、お巡りさんに声かけられそう……)
矢先稲荷神社から北へ道のりで四〇〇メートルほど。松が谷の秋葉神社は、四方を道路で取り囲まれた住宅地の真ん中に祀られていた。
周囲は高い建物ばかりで肩身が狭い。ただ、東西二か所から通じる参道には紋入りの幟が夜風に揺れ、石造りの鳥居には新しい注連縄が飾られ、そこが決して忘れられた場所ではないことを示していた。
東側の鳥居の前でハルが手を振っていた。ジシェはその頭の上。
一礼して三人と一匹で鳥居をくぐった。境内は静かで、灯籠と提灯の柔らかな光が拝殿を照らしていた。
「いらっしゃい」
明かりの残る社務所から、柔和な笑みを浮かべた女性が顔を覗かせた。「高嶺さんから来るかもしれないって聞いていたの」
用意周到だなー、と若干うんざりしつつ、ハルはモジャコたちに紹介した。「近江舞子おばちゃん。ここで宮司をされてるの」
「みんなお腹、空いてるでしょ? あとでおむすび持ってきてあげるからね」
特にモジャコとその上のモモンガもどきが「わーい」と喜ぶ。
境内をあらためて見渡してから、託されたのだろうか——とハルは考えた。
時空の背反に巻き込まれて存在が失われていくなか、オーラが〈ロートの追憶〉を守るために残した可能性——追憶のカケラ。それをいま祖父に代わって探しているのは託されたからなのだろうか——?
拝礼してから、ハルとジシェを残して、モジャコとリグナは東側の鳥居から外に出た。
周囲は民家が密集した住宅地だ。道もほとんどが一方通行で狭く、人通りはない。
少し歩いてモジャコは南の空に視線を向けた。ちょうど矢先稲荷神社の上空高く、透明な鏡のようなものが浮かんでいた。
(やっぱりか……)モジャコは思案する。(まだスペアはあった)
鏡は複雑ではあるけれども一定の軌道を一定の速度で移動している。
「見えるか?」とモジャコは尋ねた。
「見えない」
断言。見えないもーん。
モジャコに見えるのは目が慣れたからであって、それでもほとんど夜空に溶け込み、ときどきわからなくなる。さてどうするか——と思案していると、リグナは額の髪飾りを分離して手渡した。
自動的に変形してゴーグルになる。着けろということだろう。
「あわ……」
装着すると、モジャコは目が眩う気がした。見えている景色は変わらないのに、乗り物酔いをしたときのように気持ち悪いのだ。すぐに外してリグナに返す。
「シンクロできるのに」たぶん残念そうに、リグナはゴーグルをもとに戻した。「でも、フィジカルが強いとリバウンドも大きいし」
どうやら、それを装着すれば感覚を同期できるらしいが、身体能力が高いと反発も大きいようだ。
「お」と、誰かを見つけてモジャコは手を振った。「こっち、こっち!」
「こんばんはー」遠くで丸眼鏡の誰かが振り返した。
俊徳ミチル、通称ポジヲ。ハルとモジャコの同級生。
「来たよ」
「悪いね、急に」とモジャコ。
別にだいじょうぶだよ——と答えて、ミチルは遠くを指した。「それで、あの空中に浮かんでいる三つの鏡はなんなの?」
「……!! 見えるのか!? ていうか、三つ……!?」
モジャコは驚いてリグナと顔を見合わせた——というのをやりたかったのだが、リグナはミチルをじぃっと見つめていた。
だれじゃらほい?
「ミコとあたしの同級生のポジヲだよ」と紹介してあげる。
それはともかく、モジャコはあらためて遠く神社の上空を睨みつけ、ようやく鏡が増えていることに気がついた。
「ポジ、スポーツ得意だっけ?」
「走るのも投げるのも蹴るのも絶望的」
「お、それなら——」
と、リグナを見れば、なんじゃらほい? とモジャコを見つめ返した。
それをさっきやりたかったんだけどねー。
モジャコに指で「それそれ」といわれて、リグナはようやく額の髪飾りを分離し、ミチルに手渡した。促されるがままに、ミチルは変形したゴーグルを装着してみる。
「あー、なんか不思議な感じがする」というのが感想。
——と、リグナの眼の焦点が急激に定まった。空の一点に視線を据えたまま、リグナはクロイツェルをスナイパーライフルに変形した。
(見えるようになったのか……)モジャコは口許でつぶやいた。
発射された光弾は鏡の中心を貫いた。さらにもう一発も命中させる。
「すご!!」モジャコは感心するしかない。手で制して指示を投げる。「三つ目はちょい待ち。で、ノナゴナル・フィールド。ポジはあそこに集中しといて」
まもなく、残りの鏡が閃いたかと思えば、電撃の光弾が一直線に向かってきた。リグナが展開した透明な多角形の平面が弾き返し、瞬間的にバリバリと空気が震えて視界が真っ白になる。
「どっから飛んでくるのか、見えたか!?」
ミチルとリグナは同時に頷いた。
少し戻った十字路で東の空をミチルは指さした。低く連なる民家の屋根の上に、遠くスカイツリーが半分ほどその姿を見せていた。高さ六三四メートルの先端まで直線距離で二五〇〇メートルほど。
当然ながら、そこに誰かが立っているといわれてもモジャコにはまったく見えない。
リグナはクロイツェルをバズーカに変形して肩に担ぐと、迷わずトリガーを引いた。
緩い放物線を描いて飛んでいった光弾は、過たず何かに着弾した。
スパークするその何かが塔のてっぺんから落下していくのだけは、モジャコにもかろうじて見えた。