4. 広尾デリヴァランス
「セキュリティ解除コード……どうやら核心に近づいてきたみたいじゃん」
モジャコは左手のグーを右手に叩きつけた。
「ふふっ! まさにそのとおり!」
振り返ればコルヴェナがいた——生乾きの状態で。
派手なローズレッドの制服からも縦巻きロールの髪からも水が滴り落ちていた。濡れた左腕を伸ばして、ばばん、とモジャコに指を突きつける。
「今度こそチェックメイトね、モヨコさん!!」
(微妙に名前覚えてもらえた)とモジャコ。
(めげないなあ……)とハル。(あ、次の場所に変わってる……)
スマホの画面の中で、地図の範囲はまた自動で変わって別の場所を示していた。
「さあ、張り切っていきましょうね!!」
コルヴェナは突っ込んできた。モジャコは体勢を整える——が、予想に反し、コルヴェナはモジャコの間合いを擦り抜けた。
「え……あ、しまった!」
モジャコはすぐに意図を理解したが——遅い。コルヴェナはハルに向かって脚を振り上げた。
「きゃっ!」
ハルは身をすくめることしかできない。コルヴェナのハイキックはハルの手をかすめ、スマホとメモリーカードは空中に舞った。
同時に——鈍い金属音が響いたかと思えば、高速で向かってきたデッサのパンチをリグナが両手で受け止めていた。
装甲が焼け焦げたように黒ずんでいる以外、デッサに特段の異常はないようだ。ただ、心なしか目が血走っているようにも見えた。
二人はそのまま建物の上へ跳び上がった。
コルヴェナは空中でスマホとメモリーカードをキャッチした。得意満面に「ずばり策士! アイルを完成させるためなら手段を選ばず!」
だが、その表情はあからさまにフリーズした。「いまのはナシで!!」
何か口を滑らせたらしい。
(アイル?)
攻撃の手を休めないままにモジャコは反芻した。
コルヴェナはモジャコの攻撃をかわしながら雑踏の中を逃げていく。公園へ続く狭い通りだ。
「速力アップで逃げ切らせてもらうわ!」
(だからいわなきゃいいのに)
半透明のガントレットとブーツが右腕と左脚に実体化し、ブーツは紅い電撃をまとって火花を——散らさない。
「ええっ!? なんで!?」
(水没したからだろ……)
コルヴェナの動きが一瞬もたついた。すかさずモジャコはさっと前に出た。
「ふふん! この剛腕のガントレットに敵うと思って——って、あらら!?」
(それはリグナに破壊された)モジャコは遠慮なく腕をとってコルヴェナを投げ飛ばした。
「わっ!!」
スマホがコルヴェナの手を離れ、アスファルトに落ちて転がる。モジャコが飛びつく。「メモリーカードは!? あれだっ!!」
モジャコは尻尾を引っつかんでジシェを飛ばした。
「にょーん」
こうなればヤケクソ。空中を舞うメモリーカードへ。
「させん!」コルヴェナがしぶとくつかみ取った——が、モジャコはすでにコルヴェナの間合いに入ってその腕をつかみにかかっていた。「むぎゃー」
上空でも、リグナとデッサが建物の上を跳び移りながら光弾を撃ち合っていた。
「なぜだ、なぜ貴様のような旧型の失敗作に、ここまでコケにされなければならないのだ?」
「……」
リグナは答えず、とにかく光弾をかわし、あるいは角度を変えて空へ逃がしていく。
「動きがおかしい……」見上げてハルはつぶやいた。
受け身になっているのは周辺に低い建物しかないためだろう。高い位置を取らない限りなかなか自由が利かない。しかし、ここまでに解放されたリグナの力はデッサのそれをもう凌駕しているはずだ。
「ガルバルデが負けることなどあり得ない! わたしが証明してやる!!」
デッサは弾幕に紛れて強引に接近する。リグナは受け止め、撥ね返そうとした。
「……?」思うように体が動かない……。
弾き飛ばされ、アスファルトの地面に激突する。
ハルは急いでスマホのアプリを切り替え、リグナにリモート接続した。落としたせいか通信がもたつく。どうにか確立された接続のなかでコマンド一覧を引き出し、ハルは明らかな異変に気がついた。
使用可能だったはずのコマンドが消えている。
そして、バラバラだったジグソーパズルのピースが頭の中で組み上がった。
ハルは浜町付近で見たメッセージを再表示した——。
その背面拡張コンソールは開放された。三枚のカードを挿入すれば、その能力は解き放たれるだろう。
(——!?)
そんなはずはない——という確信がハルにはある。
最初に見たときメッセージはこうだった——。
彼女の背面拡張コンソールは開放された。三枚のカードを挿入すれば、彼女の能力は解き放たれるだろう。
(—— HER が ITS に変わってる! ここだけじゃない、ほとんど全部だ……!!)
思い当たるところをしらみつぶしに調べていく。そしてリグナの状態が自分の推測したとおりであることがわかって、ハルは愕然とした。
(もっと早く気づいていれば……!!)
ウイルスのような無数のマイクロプログラムがメッセージを書き換え、侵食し、機能の多くを無効化していた。
違う、とハルは否定する。それは正確ではない。むしろ間違っていて、正しくいうのなら、リグナ——というより次世代型ルドゥフレーデ——の本来の防御機能が、無数の抗体を放ち、オーラがリグナに残したメッセージと追加の機能を蝕んでいるのだ。
ハルが背面拡張コンソールを操作しようとして気づいたのは、それがあとから付け足されたものであるということ。
一枚目のカードを見せたとき、リグナははっきり「知らない」と答えたし、自分にはそのカードに対応した装備は拡張機能も含めて存在しないと断言した。なぜなら、リグナは本当に知らなかったからだ。
オーラ・ヴァエッスラに助けられた——とリグナはいっていた。
(すべてはオーラさんが残してくれたもの。だけど、もう失われてしまった……)
リグナはアスファルトの上を転がり、どうにか体勢を立て直して有栖川宮記念公園の入口に飛び込んだ。デッサは構わず突進してくる。乱戦状態のモジャコとコルヴェナが交錯する。
丘の斜面に緑深い森の広がる公園は、広尾駅からいちばん近い、南西の入口から入ったところが池のある庭園になっていて、そこから広場のある東側の高台に向かって大きく傾斜している。散策路が張り巡らされた森の中には野鳥も多く、ちょっとした渓流のせせらぎも感じられる憩いの場所だ。
その公園に入ったところでハルは息を切らして立ち止まった。膝に手を突いて激しく肩を揺らす。
(もっと早く察知できていれば対抗できる手段はあったし、実際に対抗できていたはず……! なのに、リグナちゃんを信じてあげられなかったばかりに手遅れになってしまった……)
改竄されたメッセージを見たのは初めてではない。浜町の緑道で、木漏れ日がつくる光と影の中を走りながら、確かにそのメッセージを見ていた。
けれども、違和感を感じただけで何がおかしいのか調べもせず、しかも、リグナを疑うばかりに三枚のカードを挿入するのもずっとあとになってしまった。
自己嫌悪と後悔に、ハルは黒い霧の中に立っているような感覚に襲われた。
真っ暗闇で何も見えない——というわけではない。
ただ身がすくんで動けないのだ。
そこへ、初夏の風が木々の緑をさやさやと揺らして通り過ぎた。そして、名前も知らない花の香りといっしょにあのときの感覚が急に舞い戻ってハルはびっくりした。
背面拡張コンソールを開いたときに感じたのは違和感ではなく、それを解きほぐす何かだったはずだ。
扉の裏側を見てからさらにその裏側を見たところで、それはもうとっくに知っている表側でしかない。
(怖くても、扉のその向こうを見ろ!)
オープンしたコンソールにあったもの。
それはスリット状のカードの挿入口で、桜の花、朝顔の花、銀杏の葉の意匠が刻まれていた。
(あのロックを施したのはオーラさんだ——こんなときのために。だとしたら、ルジェには絶対に解除できないように、わたしたちになら簡単に外せるようになっているはず)
ハルはまた走りはじめた。
(そうだ、最初は単純に記号としての意味しかないと思っていた)
だけど記号にわざわざ使うだろうか——桜の花、朝顔の花、銀杏の葉を。
(ジシェは『わからない』とはいったけど、『読めない』とはいわなかった)
攻撃をかわす形でリグナは池の中に浮かぶ島に跳び移った。デッサは迷わずライフルの銃口を向けた。
リグナは透明に空の色を映すフィールドを目の前に展開した。
(ノナゴナル・フィールドが弱い……!)ハルは素早くコマンドを打ち込んでいく。(予想が正しければ、ロックの解除方法は暗号化も符号化もされていない。むしろその反対だ……!)
なかば弾かれるようにリグナは対岸に逃れた。応戦しながら斜面を駆け上がる。
ハルは叫んだ。「ジシェ! ジシェ!」
「ぬ!? モジャコ殿!」
「任せろ!!」
モジャコは尻尾をつかんでジシェを放り投げた。自身はそのままコルヴェナを追う。
ジシェは「ぬーん」と、ハルの頭の上に着地した。
ハルは坂道を駆け登りながら、あの読めなかった部分をもとの言語設定で表示した。
「ジシェ! これを声に出して読んで!」
「心得た! イザヨヒノツキヲカサネテマハウヂン、ソノマハウノカズヲ、アナタニアタヘル——でござる!」
つまり——。
十六夜の月を重ねて魔方陣、その魔法の数をあなたに与える。
魔方陣。
もう誰も読めない文字——読まれることのない文字。
もはや紡がれることも伝えられることもない言の葉。
そこに残るのはただのカタチであって、その音色は忘れられてずいぶん久しい。
音になることのない、単なる記号。
けれどもそのカタチの組み合わせには想いが閉じ込められ、重ね合わせることで意味は生まれる。
ハルは何も無い空中に人さし指で弧を描いた。
指先を追って古代の文字が不思議に生まれ、連なり、そして文字の列は円を結ぶ。
円は緩慢に回りはじめる。
同時に新たな文字がその外側に現れ、同心円を成し、さらにそれが繰り返されていく。
異なる文字が異なる順に並び、幾重にも幾重にも回り巡りながら。
やがて、何百何千何万も連ねられた古の文字は激しく輝くのだった!!
——とすれば、それは“魔法陣”だねー。
“魔方陣”は数学界(楽園ともいふ)に存在する、定理と論理によって創り上げられたパズルなので、指先から古代の文字が生まれ連なることはなく、数ヲタの脳内には凄まじい勢いで大量の数字が駆け巡るのだった。
(十六夜の月を重ねる魔方陣——きっと16×16の魔方陣のことだ! だとしたら魔法の数——特別な数は——)
16(16²+1)/2 = 2⁴((2⁴)²+1)/2 = 2³((2⁸+1) = 2¹¹+2³ = 2048+8 = 2056
解説。
魔方陣とはN×Nのマス目の中に1からNの二乗までの数字を並べて、縦・横・斜め、どの方向に足しても等しくなるようにしたもの。
たとえば3×3の魔方陣なら「4 9 2
3 5 7
8 1 6」で、魔法の数は15となる。
この数は魔方陣を完成させなくても求めることができる。1からNまでの自然数の総和は「∑ = N(N+1)/2」なのだから、N×Nの魔方陣に含まれる数の合計——1からNの二乗までの自然数の総和——は「N²(N²+1)/2」である。ここで、N×Nの魔方陣なら魔法の数がN行(または列)分あるわけだから、逆に合計をNで割ってやれば魔法の数が求められる。
つまり、N×Nの魔方陣の魔法の数は「N(N²+1)/2」となる。
——が、以上ひっくるめて、叫び出したくなる衝動に駆られた場合は深く突き詰めないように。
(答えは2056だ……!)
渓流を挟んで光弾を撃ち合いながら、リグナとデッサは斜面を駆け上がった。
もっとも、リグナは防戦に回る一方で被弾する数もどんどん増えていく。
間合いが開く。デッサは光弾を集中させる。
リグナは手のひらを広げた両手を、ただ体の前に構えた。
デッサは口の端で笑った。
「はっ! それが貴様の限界かっ!!」
空間が捩じ切れるような力が渦巻き、リグナは光に包まれる。
スマホの画面の中でようやく接続が確立し、ハルはすばやく数字を入力した。
(間に合わなかった……?)
光の中から——リグナは飛び出した。
向かってくる光弾を片手で平然と左右に弾き飛ばし、左脚から不思議な形の剣を分離した。
「なんだと!?」
そのままのスピードで、リグナはデッサのライフルに剣を振り降ろした。刃はその武骨な重火器を一刀両断した。
「ちっ!」
舌打ちしてデッサは上流側に跳び退いた。暴発しようとするライフルを投げ捨て、背中のロケットランチャーを肩に担ぎトリガーを引く。
が、リグナは気にかけることもなく突き進んできた。スパークする光弾を剣で切り刻む。
デッサは上空へ逃げ、真下に照準を合わせた。
「いない——!?」
「遅い」
空中で背後に回り込んだリグナが蹴り飛ばす。デッサは高台の広場へ一直線に突っ込んだ。
「ふ……ふざけるな!!」デッサは土埃のなか立ち上がってリグナの姿を探した。「くそ、どこだ!?」
「遅いといった」
背後から声がする。
「……!!」
そして気づいたところでもう遅い。
真下から蹴り上げられ、自分の意思とは関係なしにデッサは空へ飛ばされた。
リグナは右脚から分離したクロイツェルを巨大なマシンガンに変形し、軽々と持ち上げ、銃口を真上に向けた。
無数の光弾が襲う。
最後に、同じ高さに跳び上がったリグナは、振りかぶって強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
一直線に飛ばされたデッサは公園の外、道路のアスファルトに激突した。
「あ……」
コルヴェナは呆然とその軌跡を見つめた。その隙にモジャコはメモリカードを持った手を蹴り上げた。「な……!」
「ジシェ!」
「のーん」
ハルにぶん投げられたジシェは、それをつかみ取ってモジャコの頭の上に着地した。
「で——」
周辺は各国の大使館が集まるエリアであり、すでにサイレンやら何やらが騒がしい。というわけで——。
モジャコはコルヴェナの腕を取った。
「あとは任せたっ!」
斜面の下の池に向かってコルヴェナを力いっぱい投げ飛ばす。
「え? え゙え゙ーっ!?」
(せっかく乾いてきたところなのに悪いけど……)
ぼっちゃーん。
有栖川宮記念公園は南西の入口が要だとしたら、右手の南部坂と左手の木下坂に挟まれた扇形をしている。その木下坂へ抜ける小さな出口をハルたちは飛び出した。
坂を少し下って歩道の柵を跳び越え、右手の小路へ。閑静な住宅地の中を駆け抜け、外苑西通りに出る。狭い歩道を人を縫って走れば広尾駅の3番出口。階段を駆け下り西麻布方面と書かれた改札口を通り抜け、そこでようやく立ち止まった。
南北両端にある改札口のうち北側の改札口だ。南側とは違って外苑西通りのどちら側からも下りてこられるし、中目黒方面の1番線へも北千住方面の2番線へも行くことができる。
「どうする?」とモジャコ。
「……」ハルは消耗は激しく息が上がって答えられない。黙ってスマホの画面を見せた。
画面の地図には台東区と荒川区のほぼ全域が表示され、中央付近に目印のピンが立っていた。
台東区と荒川区は、二十三区の中央からやや北東に、隅田川に接して位置する区。
台東区は名前を聞いてもぴんとこない可能性大だが(特に関東以外に在住の場合。いまさらかよ、という話ではあるけれども……)、上野や浅草があるところといえばわかりやすいかもしれない。
荒川区はその北にあって、日暮里や町屋、南千住といった町工場や商店街、住宅地がひしめき合い、いまなお昭和の下町を色濃く残すところ。
目印のピンはその境界付近、荒川区の南千住と台東区の三ノ輪が隣り合うあたりに立っていた。直線距離なら北北東へ一一キロほど、日比谷線の三ノ輪駅が近く、広尾からなら乗り換えなしで行ける。
ところで、それはいままでのアプリではなく、スマホに標準で付いている普通の地図アプリだった。よくわからないが、とりあえず2番線ホームへ。ちょうど電車は出ていったばかりだったので、モジャコはハルをベンチに座らせた。
「むう、だいじょうぶでござるか?」モジャコの頭の上からジシェは心配する。
「ふほしはすめはへいひ……」ハルは答える。
少し休めば平気。ほぼ聞こえない。
駄目だな、とモジャコは諦めて、ベンチの横にある路線図に視線を向けた。(このまま地下鉄で移動するかどうか)
東京には十三の地下鉄路線がある。東京メトロの銀座線、丸ノ内線、日比谷線、東西線、千代田線、有楽町線、半蔵門線、南北線、副都心線、都営地下鉄の浅草線、三田線、新宿線、大江戸線。
ときにわけのわからない方向へ進み、同じ名前の駅だというのは詐欺だと思えるほど乗り換えの不便な駅もあるけれど、縦横無尽に走る地下鉄に乗ればどこへも行けるし、コルヴェナとデッサから察知されないで移動するには好都合だ。
しかしこのまま地下鉄でまっすぐ向かうべきか——?
リグナはハルの様子を碧い瞳でじぃーっと見つめていた。
だいじょうぶかなー、だいじょうぶかなー。
左に首を傾げ、ちょっとしてから、右に首を傾げ——以下、繰り返し。たぶん心配そう。
そのリグナがモジャコのほうへ向き直って口を開いた。
「早過ぎた」
「?」モジャコは怪訝に首を傾げる。
「距離を考えれば、共鳴が発生するよりも早く行動を開始しているとしか考えられない」
つまり、中距離間を直線的に高速に移動するフォルトヴがあるとはいえ、広尾にコルヴェナたちが出現したタイミングは想定よりも早過ぎる——ということらしい。
「その携帯デバイスが目標物を探査する際には微弱な電波が発生する。すでにそれが探査されていると判断するのが自然だ」
「やっかいだね」
モジャコはポケットから自分の携帯電話——二つ折り・背面サブディスプレイ付き——を取り出した。開いて誰かに電話をかける。「おう、ポジ? いきなりで悪いけど、都電に楽に乗り換えれる地下鉄の駅ってどこ? あー、速い、もっとゆっくり」
話しながら、空いた手でハルのスマホを操作し、路線図と地図を確認する。
都電=都電荒川線。
都電荒川線は新宿区から豊島区、北区、荒川区にかけて、二十三区の北部を走る路面電車で、地下鉄では都営三田線の西巣鴨駅、副都心線の雑司が谷駅、有楽町線の東池袋駅、南北線の王子駅、千代田線の町屋駅、そして日比谷線の三ノ輪駅と乗り換えが可能。
「——ただし、西巣鴨駅は都電荒川線の新庚申塚停留所からは離れている? じゃあ、そこ以外で、なるべく上から見えづらいのは?」
モジャコは目的地が三ノ輪であることを付け加えてから、「上から見えづらい」を「雨に濡れない」に訂正した(意味わかんないし)。
答えは有楽町線の東池袋駅。
「えーと、都電のほうは東池袋四丁目停留所と——。ん? 停留所ではなく停留場? あーそう……」
電話をポケットに突っ込んでから、モジャコは改めて路線図を確認した。横から、なんじゃらほーい、とリグナが覗き込む。
「この路線で直接、行くのではないのか」
「日比谷駅で有楽町線に乗り換える。東池袋駅まで行って、そこから都電。向こうもそろそろこっちの動きを読んでくるだろうし」とモジャコはハルに視線を向ける。「大回りだけど、ちょっとのんびりする時間があってもいいじゃん」
モジャコの答えに「なるほど」とリグナは納得した。
トンネルの向こうから電車が入ってきた。少し歩いて真ん中あたりの車両に乗り込む。空いている席にモジャコはハルを座らせた。
ありがと、と座ってハルはスマホを確かめた。「やっぱり駄目だ……」
「どうした?」モジャコは覗き込む。
スマホの画面は止まっていて何をしても反応しない。しばらくして真っ暗になり、勝手にホーム画面に戻ってしまった。「アプリを起動するとフリーズするの。次の〈追憶のカケラ〉の位置は、あのとき覚えてたからよかったけど……」
それを普通の地図アプリ上でプロットしたのが先ほどのピンの位置らしい。
「ハードの問題だと思う……」
「落とした衝撃?」とモジャコ。
「たぶん……」
「どのみち、これ以上そのアプリケーションに依存するのは危険ではないのか」リグナは指摘する。
「確かに」とジシェも同意する。「リグナ殿の推測を考慮するのであれば」
「そうかもしれないけど……」
「さっきいってたけど、〈追憶のカケラ〉は全部で九個って、なんでわかったの?」
コルヴェナとデッサが現れる直前、ハルは正二十面体を見て〈追憶のカケラ〉の数は全部で九つだといっていた。
——と、瀕死の数ヲタが急に瞳を輝かせたので、モジャコはものすごく嫌な予感がした。
きらり〜ん。
「広義の正多面体が全部で九つだから☆ 要点だけいうとね——」
正多角形とは辺の長さがすべて等しく、内角の大きさもすべて等しい多角形のことであり、ふつう辺が交差しないものを正多角形と呼ぶ。これに対して辺が交差するものを星形正多角形と呼び、星形正多角形まで含めたものは、広義の正多角形といえる。
たとえば星形正五角形——いわゆる五芒星。五本の辺の長さはすべて等しく、五つの内角の大きさもすべて等しい。星形正五角形は、正五角形を『枠』として、その頂点を一つおきに結んで作ることもできるし、正五角形を『芯』として、五本の辺をそれぞれ交わるところまで延ばして作ることもできる。
ここまでが二次元の話。正多角形は無数に存在する。
正多面体とは面がすべて同じ正多角形で、頂点に集まる面の数がすべて等しい多面体のことであり、ふつう面が交差しないものを正多面体を呼ぶ。これに対して面が交差するものを星形正多面体と呼び、星形正多面体を含めたものは、広義の正多面体といえる。
正多面体は正二十面体、正十二面体、正八面体、正六面体、正四面体の五つ。正多面体はプラトンの立体ともいう。
星形正多面体は小星形十二面体、大星形十二面体、大十二面体、大二十面体の四つ。前の二つをケプラーの多面体、後の二つをポアンソの多面体ともいう。小星形十二面体と大十二面体は芯が正十二面体で枠が正二十面体、大星形十二面体は芯も枠も正十二面体、大二十面体は芯も枠も正二十面体。
あわせると、広義の正多面体は小星形十二面体、大星形十二面体、大十二面体、大二十面体、正二十面体、正十二面体、正八面体、正六面体、正四面体の九つ。
このうち、ハルたちは小星形十二面体、大星形十二面体、大十二面体、大二十面体、正二十面体に遭遇している——。
「〈追憶のカケラ〉は正多面体のどれかに対応していると考えるのが自然——てことか。だから全部で九個」
モジャコは納得する——が要点っていったい……。“枠”とか“芯”とか“プラトン”とか“ケプラー”とか“ポアンソ”とか……説明に必要ですかね?
えー、ものすごく端折ったのにー、とハル心の叫び。
なお、プラトンは古代ギリシャの哲学者、ヨハネス・ケプラーはドイツの天文学者・数学者、ルイ・ポアンソはフランスの数学者。数学史、大事(JM)。
「——考えてみると、リグナちゃんのノナゴナル・フィールドの“ノナゴナル”は九角形の、という意味だし、それに、調べてみたら“クロイツェル”はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第九番の別名、メティス・ブレイドの“メティス”は火星と木星の間にある九番目の小惑星。そして背面拡張コンソールを開くボタンは、三つの正三角形が四〇度ずつ角度を変えて重なった九つ角の星形だった。共通するのは“9”という数字」
「確実だね」とモジャコは引き取る。「いい方を変えれば、〈追憶のカケラ〉を守る立体には意味があった——。とすると、〈追憶のカケラ〉が残された場所にも意味があるのかもしれない」
「意味……」ハルは繰り返す。「九つの〈追憶のカケラ〉が残された場所の意味……」
「ポジからメールだ」モジャコは携帯電話を開いた。「駅の乗り換えルートがやたら詳しく書いてある。あいつ、なんでこんなに詳しいのかな?」
「さあ?」ハルは苦笑い。
日比谷駅に到着。
メールで受け取ったとおりに改札口を出て、連絡通路と都営三田線改札口の前を通り過ぎる。右へ曲がってエスカレータを下りれば、有楽町線有楽町駅の日比谷方面改札。途中で小さなコンビニに寄っておく。
「ポジってなんでポジなんだっけ?」
「入学して最初の自己紹介で『ポジティブな鉄道ヲタクです』っていってたから、略してポジヲくん」
ホームへ下り、ハルたちはポジヲの乗換案内に従って七号車付近まで移動した。乗車位置案内を確認するまでもない。
「『アイル』って聞いてなんかわかる、ジシェ?」モジャコは頭の上に質問した。「コルヴェナが口滑らせてた。あいつら、それを完成させたいみたいだよ」
「アイルとな? うーむ、見当がつかないでござる」
「I'LL じゃないだろうし」ハルはスマホを操作する。「辞書で軽く調べた感じだと、ISLAND の文語的ないい方で ISLE があるけど、あまり円環には関係なさそう」
青色の帯の電車が入ってきた。乗客が入れ替わり、ちょうど空いた座席に並んで座った。
「ルジェはいつから円環の準備をはじめたの? 直径一〇キロメートルの環状地下空間って、そう簡単に造れるものでもじゃないじゃん。おおっぴらに堂々とやったわけでもないだろうし」
「この星の暦でいえば、一九二三年の九月でござる。このとき、ルジェは〈ロートの追憶〉の位置を特定したと聞く」
「一九二三年九月……」
繰り返して、あ——とモジャコは声をあげた。「関東大震災だ……」
「大地震が〈ロートの追憶〉を揺り動かした……?」ハルも声を漏らす。「そして、それをルジェは感知した……」
「もしかして円環のための地下空間は、あのとき大量に出た瓦礫を使って、しかも、大混乱に紛れて造りはじめたんじゃないの?」
「ありえるかも……」
「で、一九六七年。最初の東京オリンピックが一九六四年、大阪万博が一九七〇年——いろいろなものがじゃんじゃん造られた時代だ。完成させるには、ちょうどいいころだったのかもしれない」
ポジヲのメールによれば、有楽町駅から東池袋駅までは一七分。ハルはコンビニで買ったスポーツドリンクに口を付けた。横から「ほい」とモジャコが何かを差し出す。一枚どう、と板ガムを勧めるような感じだが、桜の花に「都」のマークの赤い箱、都こんぶであった。
「出た……」
「出た?」
ボンタンアメと並び、流行るでもなく廃れるでもなく、なぜか存在しつづける駄菓子。少なくとも子供に好評であるという話は聞いたことがない。しかし、原材料が原材料なので、夏場のミネラル補給にぜひどうぞ。
(九つの〈追憶のカケラ〉を残された場所の意味——共通点)
ハルは考える。(そういえば、一つ目の〈追憶のカケラ〉があったのはコックさんの菊屋橋交差点で、二つ目の〈追憶のカケラ〉があったのは銀座の三原橋交差点の近くだった……)
何気なく見上げた信号の標識にはそれぞれ「菊屋橋」「三原橋」と書かれていた。
地図アプリを起動して、ハルは三つ目の〈追憶のカケラ〉があった神田に移動した。中央通りと、ビルとビルの隙間のような細く真っすぐな小路とが交わる場所で、すぐ南側には室町四丁目交差点、北側には今川橋交差点。
これは——とさらに浜町と広尾へ地図を移動すれば、四つ目が見つかったすぐ東には浜町中ノ橋交差点があり、五つ目が見つかったのはまさに広尾橋交差点である。
(〈追憶のカケラ〉は、名前が『橋』で終わる交差点に残された……!)
——が、地図の見える範囲を広げて、ハルは言葉を失った。
広尾駅の真上、南北に走る外苑西通りは少し南で明治通りと交わっている。その交差点の名前は天現寺橋交差点。そしてそこから東へ、明治通りから麻布通りへと首都高速2号目黒線に沿ってたどっていけば、四の橋交差点、古川橋交差点、三の橋交差点、二の橋交差点、新一の橋交差点、一の橋交差点と続く。
神田の今川橋交差点からも左へスクロールしていけば、竜閑橋交差点、鎌倉橋交差点、神田橋交差点、一ツ橋交差点、竹橋交差点、俎橋交差点と連続する。
つまりそんな交差点はいくらでもあるということ。
そもそも〈追憶のカケラ〉があった場所と交差点が一致しているのは、一つ目の菊屋橋交差点と五つ目の広尾橋交差点だけ。名前が「橋」で終わる交差点またはその近く、と条件を広げれば、それぞれ三原橋交差点と今川橋交差点の近くだった二つ目と三つ目はクリアできるとしても、四つ目は浜町中ノ橋交差点の隣の交差点であって論理が破綻する。
(……)
電車はちょうど飯田橋駅を出発したところだった。ドアの上でスクロールする表示を見れば、次は江戸川橋駅と案内されていた。
(飯田橋駅、江戸川橋駅……)と繰り返し、ハルはスマホの画面に地下鉄の路線図を表示した。水道橋駅、曙橋駅、日本橋駅、京橋駅、竹橋駅、新橋駅、赤羽橋駅、浅草橋駅、本所吾妻橋駅——。
(それもそうか。川が流れていれば橋もつくられるし、橋ができれば目印としてわかりやすいからその場所の名前になっていくだろうし……。あれ……?)
何かひっかかるものを感じる。だけどそれが何なのか、ハルにはわからなかった。
東池袋駅は有楽町線だけのシンプルな駅。階段を上って雑司が谷方面と表示された改札を抜け、3番出口から地上に出る。
確かに、そこはポジヲがいっていたように首都高速5号池袋線の高架下で、側道のような狭い道路を挟み、都電の停留場は目と鼻の先だった。ほどなく電車がやってくる。
「都電に乗るの、初めてかも」とハル。
「町屋で乗り換えるとき毎日見てるけど、あたしもほとんど乗った記憶がないかな」とモジャコ。
ハルとモジャコが通う高校は葛飾区内にある。最寄り駅は京成線のお花茶屋という駅で、湯島からの場合、東京メトロの千代田線で町屋まで行って京成線に乗り換えることになる。船橋市高根町からの場合、バスで船橋駅まで出て、京成船橋駅から京成線。
「拙者も初めてでござる」とジシェ。
それはそうだろう。
休日の午後、夕暮れも近い都電荒川線は思いのほか混み合っていて、ハルたちはポジヲのお勧めポイントであるところの後ろのほうへ移動した。一両だけの小さな電車、進行方向とは反対側の運転席の横。ハルはリグナの背面拡張コンソールを開いてチューニングをはじめた。
「リグナって今日までどうしてたの?」手を動かしたまま背中越しに質問する。
「電源が入っていなかった」
「どこで?」
リグナはくるんと向き直ってハルの巾着を指さした。スマホを寄越せということらしい。
貸してほしいのーん。
手渡すと、地図アプリを起動して秋葉原付近を拡大した。背中に装備されているコンソールに、自分で表示したほうが早くはなかろうか……?
「ここ」
JR秋葉原駅は、南北に走る高架の山手線と京浜東北線の上を、さらに高い高架で中央・総武緩行線が東西にまたぐ駅。東側には、山手線・京浜東北線と並行する昭和通りの地下に日比谷線の駅があって、さらにこの二つの間には、つくばエクスプレスの終着駅が地下にある。
リグナが指したのはJR線が交差する位置を基準とすれば北東、中央改札口北側の、山手線の高架とヨドバシカメラに挟まれた広場——そのど真ん中だった。
「もしかして埋まってた?」
「……」
熟考する。ぼんやり眼のリグナの無地背景には明朝体で「考え中……考え中……」が横スクロール。で——。
「わからない。大量の堆積物が上にあって、起動してすぐは身動きがとれなかった」
それを一般に埋まっていたという……。
電車は古い住宅街の中をのんびりと走っていく。飛鳥山停留場からは飛鳥山を巻く坂道を下る。道路の真ん中を走る区間で、文字どおりの路面電車。王子駅前停留場では降りる人も乗る人も多く、ようやく空いた席に並んで落ち着いた。
ハルは地図アプリを起動した。いまいる王子駅周辺が表示される。自然と名前が「橋」で終わる交差点に視線が向かう。画面の範囲内では音無橋、紅葉橋、そして溝田橋という交差点が目に入った。すぐそばを流れる石神井川の橋から借りた名前だろう。
(船橋は確か、舟を並べて川を渡れるようにした橋が名前の由来だったっけ?)
正解。市内を流れる海老川の、その名も「海老川橋」のレリーフに刻まれている。ちなみに海老川には、もうどうしたいのかよくわからない「船橋橋」という名前の橋があったりもする。
(川が流れていれば橋もつくられるし、橋ができれば目印としてわかりやすいから、その場所の名前になっていくだろうし)
あれ? ——とハルは思った。(菊屋橋に橋あったっけ……?)
見た記憶はまったく無かった。ハルは慌てて地図をスクロールした。浅草通りとかっぱ橋道具街通りの交わる菊屋橋交差点の周囲に橋は無いし、それどころか川が流れていなかった。
地図上を広尾へ移動する。有栖川宮記念公園から西へ続く通りと外苑西通りの交わる広尾橋交差点も同じで、そして銀座の三原橋交差点にも、神田の今川橋交差点にも、浜町の浜町中ノ橋交差点にも、橋など無いし、まして川らしい流れも存在しなかった。
(それがそこに生きた人たちの記憶にほかならないのなら、ひとたび与えられた名前は簡単には変わらない。無くなってしまった橋の名前を残す場所——交差点に〈追憶のカケラ〉は隠された……?)
でも——と神田の今川橋交差点に戻り、中央通りと直交する道路をたどって左下へスクロールする。首都高速都心環状線にぶつかった突き当たりが竜閑橋交差点で、さらに左へ進めば、鎌倉橋交差点、神田橋交差点、一ツ橋交差点、俎橋交差点と続く。
首都高のジャンクションを挟んで離れた竹橋交差点だけ、近くにお濠に架かる橋があるものの、ほかの交差点には対応しそうな橋は無い。
つまりそれでもなお、該当する交差点はたくさんある。
(無くなってしまった橋の名前を残す交差点なんて珍しくない)
けれどもまた、あれ——と何かすっきりしないものが残る。首都高の脇にちらちらと見えるブルーのふち取りはなんだろうか。
首都高速都心環状線に沿って右方向へ戻っていく。新常盤橋交差点、常盤橋交差点、呉服橋交差点、日本橋交差点——とたどったところでようやく、もやもやの正体にハルは気がついた。
日本橋——道がはじまるところ。
高速道路の高架下にある日本橋はニュースでもよく取り上げられる風景だ。
ほとんど重なっていてわかりづらいが、縮尺を大きくすれば道路の真下に川の流れが見えてくる。そしてそこに日本橋は確かに存在していた。広尾の天現寺橋から東へも、よく確認すれば道路は川の真上を通り、そこに架かる橋を隠していた。
つまり、条件に当てはまる場所はやはり少ない。
(無くなってしまった橋の名前を残す交差点……)
しかし、これではもとに戻っただけであって、四つ目の〈追憶のカケラ〉が見つかった場所を説明できない、という問題を解決していない。
〈追憶のカケラ〉が出現した場所と交差点が一致しているのは、一つ目の菊屋橋交差点と五つ目の広尾橋交差点だけ。またはその近く——というオプションをつければ、それぞれ三原橋交差点と今川橋交差点の近くだった二つ目と三つ目はクリアできるとしても、四つ目は浜町中ノ橋交差点の隣の交差点だったから、論理が破綻する。
ハルはもう一度、地図に浜町付近を表示した。
浜町中ノ橋交差点は、東西の新大橋通りと南北の清洲橋通りがクロスするところ。〈追憶のカケラ〉が見つかったのはその一つ西の交差点。南東の角にタワーマンションと一体になった複合ビルがそびえる一方、北側は緑が多く、道路中央の緑道が白いアーチで出迎えていたところだ。
その緑道は北へしばらく行ったところで終わっている——が、よくよく見ればその先も、周囲とは異なる区割が延々と続いていた。
一・五キロメートルの距離を神田川まで一直線に。区割の両側が一方通行の道路であるのも同じで、より正確には、それは交差点の南にある首都高の出入り口からずっとだった。
ハルには、それが水路の痕跡のようにしか見えなかった。そしてもしそうであるのなら、〈追憶のカケラ〉が見つかったあの交差点にこそ、橋が架かっていたと考えたほうがよっぽど自然だ。
(交差点にその名前を残して消えた橋があったところ——そこに〈追憶のカケラ〉は隠された……!)
どういうわけか、名前は隣の交差点に残ったことになるものの、この論理は四つ目、浜町の〈追憶のカケラ〉が出現した場所を説明できるし、ほかの〈追憶のカケラ〉の見つかったところとも矛盾しない。
二つ目、銀座の〈追憶のカケラ〉が見つかった場所は、地図で見れば一方通行の道路と交差し、その道路は南北一キロメートルに渡って続いている。両側の街区はほかに比べると狭く、不自然に感じる。
三つ目、神田の〈追憶のカケラ〉が見つかった場所は、中央通りと、ビルとビルの隙間のような極端に細い小路とが交わるところ。小路は東西に延々と続き、けっこうな違和感を覚える。
ハルは胸の高鳴りを感じながら、台東区と荒川区の境界、三ノ輪付近に地図をスクロールした。
画面の中には下町らしい雑然とした町並みが広がっていた。そこに川らしい流れは無く、橋も無い。
しかし——名前が「橋」で終わる交差点も存在しなかった。
(え……?)ハルは言葉を失った。(間違っている……?)
ふりだしに戻ってしまったことになる。
ただ、手がかりを失って途方に暮れているのかといえばそうでもなく、むしろ、やっぱりかという思いがちらつく。正しいはずだとは思ったけれども、確信をもっていえるほどではなかったから。
銀座の二つ目にしろ、神田の三つ目にしろ、浜町の四つ目にしろ、どの場所も意識して見たから川か水路の痕跡だろうと推測できたのであって、何も考えずに地図を眺めてもわからない。同時に、まさかそこにしか橋が無かったはずもなく、その場所を選んだ必然性がない。
そして五〇年前であること——。
モジャコがいったように、いろいろなものがじゃんじゃん造られた時代だ。一般家庭にも自動車が普及し、道路の整備が進んだのもこの時代であって、信号機はまだ設置されていく途上だったはず。交差点の名前は信号機の標識にあるわけだから、それを頼りに〈追憶のカケラ〉を残す場所を決めた——というロジックはどうしても弱い。
ただ一方で、完全に間違っているとも思えないのだ。
何かが足りない……。
ため息を吐いてハルは電車の天井を見上げた。
電車は夕暮れの下町をのんびりと走っていく。時間もどこかゆっくりと流れているような気さえする。
「どうした?」とモジャコは視線だけ向けた。
ジシェが車窓を楽しんでいるので首を動かさないようにしてあげているらしい。ときどき尻尾が顔の前に落ちてくる。
「なんか、いいところまで行ったんだけどなー、って感じ」
「無理するのはいいけど、無理し過ぎないように。だいぶバテてるじゃん」
「我ながらここまで体力無いとはね……」苦笑いしてハルは両手を広げた。
どこかをぼんやり見つめていたリグナがとだしぬけに、「それ」とスマホを要求した。
「ハイハイ」とハルは手渡した。
もう慣れました。
「スタミナ勝負はあたしに任しといて」鼻の頭がくすぐったいので、モジャコはジシェの尻尾をお腹の下に戻した。「まだいくらでも動けるし」
「ありがと」素直に感謝する。
実際にはとんでもないことに巻き込んでしまったのではないか、という後ろめたさをハルはずっと抱えていた。
けれども困ったときは頼れ、遠慮したらもう友達じゃない——という趣旨のご忠言を、これよりは多少穏やかな表現で(ただし真顔で)過去にいわれたことがあるので口には出さなかった。
二人の友情はどんなものよりも固い——かどうかはわからないが、そう信じるのは自分たちの勝手ではないか、というのが共通認識だ。
誰に抗議しているのかは知らない。
リグナは地図アプリを三次元表示に切り替え、ほいほいほーい、とスマホ本体を傾けたり、頭上に掲げてみたりしていた。
たぶん楽しそう。
(さっきはなにを見てたんだろ……?)
ちょっとまえリグナはどこかを眺めていた。どうやら窓の上、天井近くに貼られた地下鉄の路線図のようだ。
(なんか地下鉄に乗ってばかりかも)
十三色で描かれた路線図。
都電荒川線の電車に掲示された路線図は東京都交通局のもので、東京メトロの九つの路線より都営の四つの路線のほうが太い線で表現されている。
(銀座線で秋葉原の末広町駅から稲荷町駅、田原町駅から浅草駅、浅草線で浅草駅から東銀座駅——)
視線でオレンジのライン、ローズのライン——と追っていく。再びオレンジの銀座線で銀座から三越前、バイオレットの半蔵門線で三越前から水天宮前、ライトグリーンの都営新宿線で浜町から神保町、ブルーの都営三田線で神保町から日比谷、シルバーの日比谷線で日比谷と広尾を往復、イエローの有楽町線で有楽町から東池袋。全部で十三の路線のうち、いつの間にか七つの路線に乗ったことになる。
(きょう一日でコンプリートしたりとか)
まさかね——とすぐに頭の中で否定して苦笑いする。
「もっとたくさんあった」とリグナはスマホを返してきた。
「はい?」
聞き返そうとして、ドアの鴨居の部分にある都電荒川線だけの路線図が目に留まった。
すべての停留場が直線状に表示されている。
左から二つ目は面影橋停留場、そしていちばん右、この電車の終点は三ノ輪橋停留場。