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Dance in the Sky ~First Step~  作者: 荒井 稔
1/1

~First Step~

『この空に誓うよ~』

 アニメのオープニング曲らしいポップで伸びやかな前奏が流れる。それに合わせ歌詞をつぶやき、レオタード姿の少女は氷のリンクを弾けるように滑走した。両手を広げ、まるで空を飛ぶかのように伸びやかにサークルを描く。

「美空ちゃん、もっと胸を張って!そう、そこからの曲のパートの切り替え、タイミング気をつけて!」

 スケートリンク脇から演技指導のコーチらしき女性が指示を出す。少女はそんな細かい指示など当たり前、とでも言わんばかりにこれでもかと胸を張り、氷上で踊れる喜びをその小さな体いっぱい使って表現した。小さい頃大好きだった魔法少女アニメ『天空閃輝ロイヤルナイツ』のオープニング曲。もう何百何千回と聞いている。パートの切り替えのタイミングはコンマ一秒間違えない自信がある。たとえアイススケート競技の規定で歌声のないインストゥメンタルバージョンの曲であっても少女の耳にはその歌声が響いていた。

 音楽もクライマックスに差し掛かり、一番の見せ場へとリンク対角方向へスピードを上げる少女。右足を大きく振り上げ左足で踏み切る。両手と腰の回転で体をスピンさせる。ダブルアクセル、少女の体は一瞬で二回周り着氷。そのまま両手を広げることができれば技は成功だった。しかし少女はバランスを崩してお尻から硬い氷の上に倒れてしまった。

「惜しかった~もうちょっとでノーミスのだったのに~」

 コーチの女性は両手で頭を抱えた。少女はぺろっと舌を出し、恥ずかしそうにリンクサイドのコーチの元へと引き返していく。

「美空、もう六時が来るわ。そろそろ上がりなさい」

 コーチの背後から少女を迎えにきたのか母親が時計を指差し声をかける。

「え~もう一回、もう一回~!今度やったらジャンプ成功できる気がするんだから。お願い!」

 少女は両手を合わせこすりながら母親に嘆願する。

「しょうがないわね。九月の西日本ブロック大会まであと一月。小学生最後の挑戦。大会本番と一緒、一度きりよ。二度目はないんだからね。気合い入れて滑ってらっしゃい!美希コーチ、お願いします」

『本当はお尻痛いはずなのに、元気ねぇ』

 母親は半分呆れた顔をしつつもコーチに目配せした。ちょうど他の選手も片付けに入っているところなので少女が連続で演技をするのに問題はなさそうだった。

「やった~お母さん、今度は成功させるからばっちり見ててね!」

 少女はぱぁっと顔を輝かせた。母親にいいところを見せようと張り切り、つむじ風のように演技開始地点へと滑って行った。

「あの、舞さん・・・あのことはまだ?」

 美希コーチは音響の調整をしながら小さな声で呟いた。

「・・・」

 母親は一瞬表情を曇らせる。しかし何事もないように悟られないように笑顔で娘に手を振って返した。

「・・・もう大会まであまり時間ないですよ。気持ちを切り替える余裕のあるうちに・・・」

「さぁ、美空!ここは本番滑走よ。気合い入れて!」

 母親は今はノーコメントと言いたいのか、娘に声援を送りコーチの肩を叩いた。コーチは軽くうなづき再生ボタンを押した。再び流れ始めるBGMに氷上の小さなアスリートは心から楽しそうに身を躍らせた。


 サンライズ倉敷。倉敷市街地から南、水島地区との境の山の上にある総合スポーツ施設。美空は毎週日曜日ここのスケートリンクで練習をしている。

 美空が練習を終え帰り支度を済ませたのは夕方六時を過ぎ。外は昼過ぎから降り出した雨が本降りになっていた。スケート場入り口から駐車場までキャーキャーとおどけながらダッシュする美空。火照った体の美空にとってはちょうどいいシャワーのようだ。母親から受け取ったキーのボタンを押す。駐車場にある多数の車のうちの一台がランプを点灯させた。美空はその銀色の軽ワゴン車の助手席に乗り込む。バスタオルで汗と雨とで濡れた頭を気持ちよさそうに拭いた。

 少し遅れて傘をさして舞がゆっくりと歩いてきた。舞はそのまま運転席に乗り込むのかと思いきや、何か考え事をしているのか上の空で自分の車を通り過ぎてしまった。

「お母さん、どこ行くのさ。早く帰ろうよ、もうお腹ぺこぺこだよ」

 それに気づいた美空がピッピと軽くクラクションを鳴らす。はっと我に帰り慌てて引き返し運転席に乗り込んだ。美空から受け取ったキーをハンドル横に差す。しかしなかなかエンジンを掛けようとせず、何か思いつめた顔で俯いていた。

「どしたの?帰らないの?・・・なんかお母さん今日元気ないね」

 キョトンと母親の顔を覗き込む美空。

「大丈夫、私は大丈夫だから。それより・・・美空、後で帰ったら大事な話があるの・・・」[

 その娘の顔を直視できないのか、母親は顔を背けるかのように今度はシートに身体を倒し天井を見上げた。

「???」

 一向に話が見えてこない美空をよそに、舞は車のエンジンを掛けた。ワイパーがうっとおしい雨を払いのけるかのようにせわしなく動き始める。

 二人が帰る家は倉敷の西部を南北に流れる高梁川を渡った玉島地区にある。二号線バイパス霞橋を西に渡り、そこから堤防道を川下に向けて走る。カーナビのモニターに流れるTVアニメを見ている美空。フロントガラスを叩く雨は一向に弱まる様子もない。

 美空が感じた通り、舞は何か考え事をしているのか運転に集中できていなかった。母親の様子とテレビとを交互に見る美空。

 突然、二人の乗る乗用車の目の前、土手に上がる脇道から自転車が飛び出してきた。部活帰りらしき男子中学生は雨に濡れながら帰りを急いでいたからか、安全確認もせず道路側に大きくはみ出して来た。

「危ない!」

 注意力が落ちていた舞は自転車がはみ出して来るのに気がつくのに一瞬遅れた。慌てて強くブレーキを踏み込んでしまう。けたたましい音を上げ滑るタイヤ。二人の乗る軽ワゴンは自転車を避けるようにセンターラインを超え反対車線に飛び出してしまう。慌てて車線に戻そうと舞は反対方向に大きくハンドルを切る。横滑りした車体はさらに制御を失いガードレレールのない土手道を大きくジャンプするように飛び出してしまった。一級河川の高梁川の土手はかなり高く、一軒家の二階近くはある。二人は一瞬ふわっとした浮遊感を感じた。次の瞬間激しい衝撃とともに二人の視界は白いエアバッグに埋め尽くされた。車は横転しながら土手を転がり落ちて行く。車内の二人は洗濯機の中に放り込まれたかのようにもみくちゃにされてしまう。窓という窓は粉々に砕け散り、外の景色が狂ったかのように回り続ける。もはやどっちが上かすらわからない。シートベルトをしているにもかかわらず何度もエアバッグと天井に叩きつけられる二人。悲鳴を上げる余裕すらない。

 土手下の遊歩道にまで派手に転がり落ちた車は裏返しになり止まった。シートベルトから抜け落ちた美空は大きく潰れた天井に横たわっていた。聞こえてくるのは激しく降り続く雨の音だけ。うっすらと目を開けた美空はシートから逆さまにぶら下がる母親と目が合った。舞は血で濡れた手で美空の頰を撫でる。そして何かを呟くように動く唇。遠のく意識、美空はその言葉をはっきりと聞き取ることはできなかった。


「・・・空・・・美空・・・」

 美空は自分を呼ぶ声意識を取り戻した。どこかの病室と思われる白い天井、父親と白衣を着た医師と看護師数名が囲んでいるのが見えた。

「何があったの・・・?ここはどこ?お母さん・・・お母さんは・・・?」

美空は状況が把握できずにいた。そしてどこにも姿の見当たらない母親に言いようのない不安に襲われた。

「今は、いいから、美空はゆっくり寝ていなさい」

 声を詰まらせ美空を抱きしめる父・秀人。

「イヤ、お母さん・・・お母さんには全国大会に出た・・・私のスケートを・・・見てもらうん・・・だから」

 意識が混濁しているのか、脈絡のないことを呟きむりやり起き上がろうとする美空。呼吸が荒くなり心電図モニターが警告音を発した。慌てて医師は美空の手を取り注射を打った。再び緩やかに意識が遠のいて行く美空。


 美空は母親の最後の姿を看取ることはできなかった。身体を動かすことができるようになった2週間後、車椅子で連れられたそこには遺影のみとなった母親が花に囲まれていた。そこに姿がないというだけで実感がわかないのか、悲しみが強すぎるのか、美空は泣き叫ぶことはせず感情のない人形かのように表情を失い、ただただ両目からとめどなく涙を流すだけだった。


 一般病室に移りもう起き上がり動くことはできるようにまで回復した美空。心の傷はまだ癒えていない。事故以来ほとんど喋らなくなっていた。以前はまわりがうっとおしいと思うくらい活発に喋り、表情豊かな十一歳の女の子だったというのが信じられないくらい感情がなくなっていた。お見舞いに来てくれた、親友のマキの前でもそれは変わらなかった。

「ミイちゃん、きっと大丈夫・・・きっと治る。だから・・・」

 マキは美空の乗った車椅子を診察室に押しながら、なんとか美空に元気になってもらおうと声をかけ続ける。

 事故から数週間が過ぎ外傷は回復してきた。ただ一つ、右足の膝から先が動かせなくなっていた。

 マキから車椅子を受け取り診察室に入る秀人。検査の報告、それは美空にとってさらに辛いものとなった。

「検査の結果脊髄に損傷が見られ、右足を動かすことが困難な状況です。元のように歩けるようになる可能性はかなり低いと思います」

 レントゲン写真や、何枚ものカルテを見せ説明する医師。全てに美空は上の空で最後にただ一言「はい・・・」とだけ答えた。心ここに在らず、ただただうつむいて一人車椅子を手で動かし診察室を出た。

「先生、娘はアイススケートをやっているんです・・・なんとか・・・」[

 残った父親は医師にすがるように可能性を求めた。しかし医師は黙ったまま首を横に振った。

 途方にくれ病室に戻った父親は何か様子がおかしいことに気がついた。

「やめて、ミイちゃん!それはとっても大事なものでしょ?」

 中から叫ぶ声が聞こえる。声の主は先に病室に帰っていたマキだ。病室のドアを開けて父親はその有様に言葉を失った。美空のベッドの周り、布団や着替えが巻き散らかされている。そして車椅子からずり落ちそれでもまだ暴れようとする美空。それを抑えようとするマキ。事故以来初めて見せた感情は激しい悲しみ、そして怒りだった。ほんの数週間前スケートリンクで屈託のない笑顔を見せていた美空からは想像できない表情だった。美空の手には愛用のスケートシューズが握られている。医師の説明をおとなしく受け入れたかに見えた美空だったが、もう履く事も叶わないスケートシューズを見て感情が爆発してしまった。

「なんで・・・なんで?なんで・・・!?どうして・・・!」

 美空はそれを力任せに何度も病室の床や壁に叩きつける。それを止めようと腕にしがみつくマキ。スケートシューズのブレードは刃物のように鋭い。ブレードカバーは叩きつけた時外れている。しがみつくマキに当たりでもしたら大変なことになる。とっさに二人の間に割って入り二人を引き離す。自由になった勢いで振り回したスケートシューズのブレードが秀人の頭に当たってしまう。頭を押さえた秀人の手の指の間から赤い血が流れ出した。

「さあ、おとなしくシューズを置いて。落ち着くんだ」

 はっと我に帰る美空。自分のやってしまった事にショックを受け、シューズを手放し震える両手で顔を覆った。

「それは母さんが残してくれた大事なものじゃないのか?」

「もうどうせ滑れないんだから、こんなもの持っていても・・・!それに、私の滑りを・・・見せてあげる、お母さんも・・・もういない・・・」

 大好きだった母親だけでなく、自分が大好きだったフィギュアスケートをすることさえもできなくなってしまったのだ。美空が失ってしまったものはあまりに大きい。

「ねぇお父さん・・・あの日お母さん何か考え事をしていた・・・何か悩んでいた。大事な話があるって言ってた。何かあったの?」

 少し冷静さを取り戻した美空はもう取り返しのつかないあの日の事を思い出した。何か様子のおかしい母親、それが事故を引き起こした原因なのならばその理由を知りたかった。

「・・・」

 秀人は額から流れる血を気にとめず目線を窓の外に向ける。今この事を伝えるべきかためらっている。

「ねぇ!教えて・・・!」

 美空は聞いたところで状況が何ひとつ良くなるわけではない事くらいはわかっている。でも何か一つでも心のモヤモヤを取り除きたい、すがるような気持ちで父親に答えを迫った。

「もう今さら伝えてもどうにもならない・・・なんの救いになるわけでもない。でも落ち着いて聞いてくれ・・・美空。もう今年で、小学校でスケートは終わりにしてもらおうと思っていたんだ。中学になりさらに競技を続けて行くにはたくさんのお金が必要になってくる。スケートリンク使用料、コーチ料金、衣装代、バッジテスト費用、大会に出ることになるとそれに伴う遠征費・・・すまないが田舎の模型店でしかないうちにはそれだけ出せれる経済的余裕はなかった。今度の西日本ブロック大会が最後の大会になる。だから悔いの残らないよう思いっきり滑ってくれ。そう伝えるはずだったんだ」

 そう言い終わると秀人はうつむき血の混じった涙を床に落とした。

「・・・何それ?・・・じゃあ結局わたしは怪我がなくてもスケート続けることできなかった、ってこと・・・?」

 美空はどうしようもない現実に体を震わせた。どうしようもないやるせなさと怒りが湧き上がってくる。美空はシューズを両手で掴み父親に投げつけんばかりに振りかぶった。

「じゃあなんでもっと早くやめさせてくれなかったのよ?そんなに悩むようになる前にやめさせてくれていたらこんな事故にならなくてすんだ、お母さん死ななくて済んだのに!」

 美空は怒りで我を忘れ再び足もとのシューズをギュッと握りしめ頭上に振りかぶる。もはや美空は怒りのぶつける場所を見失っていた。理不尽な考えだと秀人はわかっている。だが、全ては不甲斐ない親である自分のせいだ、と目を閉じなるがまま身を任せようとした。

 間に割って入ったのはマキだった。マキは全力で、美空の身体が吹っ飛んでしまうくらいほおを張り倒した。

「そんなこと・・・そんなこと言えるわけないでしょ!あんなに楽しそうに滑ってるミイちゃんのことが好きだった。お母さんだって本当は続けさせてあげたかったはずだよ。この事を伝えたらミイちゃんどれだけ傷つくか、って悩み続けてたんだよ。きっと、なんとかしてあげようってがんばっていたんだよ・・・だから、ミイちゃんもうやめて、そんなこと言わないで!いつものミイちゃんに戻って・・・」

 倒れ込んだ美空の体に抱きつき、マキは泣きじゃくった。

「わかってる・・・わかってるよ、マキちゃん。でもわたし悔しい。なんでこんな事になったの・・・」

 美空はあの事故以来、心の中にため込んでいた悲しさを、寂しさを、やるせなさを一度に吐き出した。声を上げ、喉が破れそうなくらい、身体中の水分がなくなってしまうくらい涙を流し泣き続けた。


 一ヶ月後、日常生活はできる程度まで回復していた。美空は退院し自宅療養に入っていた。八月も終わり二学期が始まっていたが、美空は学校に行くでもなく自宅のベッドで横になっていた。ベッド脇には松葉杖が立てかけられている。結局右足だけは障害が残り、自由に動かすことができなくなっていた。それ以外はもう生活できる、学校に行くこともできる。だが美空は何もする気力が湧かなかった。楽しみにしていた九月の西日本ブロック大会も出場をキャンセルした。毎週のように通っていたスケートリンクにももう行くことはない。毎晩ご飯の前お母さんに見てもらっていた振り付けの確認ももうできない。それまでずっとやっていた全ての事がなくなってしまったのだ。

『これからわたしは何をすればいいの・・・?』

 夕方西の空にほっそりとした三日月を見て、ぽっかりと中身が抜けてしまったわたしみたい、とため息をついた。

 心配して暇さえあればお見舞いに来てくれるマキもどうしたら元気になってもらえるか、どうしたら前みたいに笑ってくれるか、少しでも気が紛れればと声をかけ続けていた。

 日課のようにマキは学校帰りプリントを届けに寄っていた。特にする事も思い付かず二人は漫画を読んでいた。

「あれ、何か挟まってる・・・写真?」

 マキは美空から借りた本の間に一枚の写真を見つけた。

「何の写真?見せて」

 そこに写っているものを見たマキは一瞬美空に見せるかどうかためらいながら恐る恐る写真を手渡した。

「・・・お母さん。それと、小さい頃のわたしだ。幼稚園くらいかな。この銀色の模型飛行機・・・」

 どこかの河川敷の広場、緑の芝生に座る母親と、小さな自分。二人は銀色の大きな模型飛行機を挟みピースをしている。

「この飛行機・・・わたし、覚えてる・・・銀色の、お母さんの飛行機だ・・・」

マキはその様子に何かあると、頼まれるでもなく相談を求め秀人を呼びに階段を降りていった。


 美空とマキは夕方、秀人に連れられ高梁川の河川敷の広場に来ていた。車を止めた堤防の上、砂利道から見下ろす広場は綺麗に整地されたサッカー練習場だった。しかし美空にはそれ以外の景色に見覚えがあった。

「わたし、小さい頃時々お父さんとお母さんに連れられてここに来ていた。うっすらだけど覚えている」

 慣れない松葉杖にフラフラしながら美空はぐるっと見回した。

「ここは六年前、美空が保育園の年長になる頃までうちの店・AOI模型の模型飛行場だったんだ。河川敷運動公園が作られることになって立ち退くことが決まり、その写真は最後のフライトミーティング、お別れ飛行会の時の写真だ」

 秀人はそれだけ言うと河川公園とは反対側に堤防道を降りていった。

「そう、わたしがスケートを始める前、ここでお母さんラジコンの飛行機を飛ばしていた・・・」


『みいもラジコン飛ばす~!』

 五歳くらいの美空はプロポを握り銀色の飛行機を操縦する母親の足に抱きついた。

『ミイちゃんにはまだ無理だけど、じゃあ一つ手伝ってもらおうか』

 舞は操縦したまましゃがみこみ、娘を膝の上に抱きかかえた。

『ママが合図したらこの右側のスティックを思いっきり右に倒して』

『らじゃー!』

 二人羽織状態のまま舞は上空の飛行機を滑走路から大きく左に距離を取る。旋回して機首を手前に向けスロットルを開けスピードを上げた。二人の目の前に差し掛かったタイミングで舞はエレベーターを大きくアップに引いた。機体は一気に真上を向き垂直上昇に入る。

『ミイちゃん、ゴー!』

 言われた通り美空が全開に倒したのはロール方向を操縦するスティック。勢いに乗った機体は機首を上に向け、クルクルッとスピンした。それはまるでアイススケートのスピンジャンプ。銀色の翼が表裏交互に太陽の光を浴び真っ青な空の中キラキラと瞬いている。美空の大きな目にはその光景が焼き付いて離れなかった。


 美空は松葉杖から片手を離し、マキに支えてもらいながら夕焼けに染まった空に手のひらを掲げた。

「あの時の綺麗な飛行機・・・すっかり忘れてた・・・」

 心の中で眠っていた記憶が蘇る。

「美空・・・これが母さんの飛行機だ」

 秀人が台車を引いて土手の上に上がって来た。台車に乗せられていたのは胴体と翼、分解された状態で緩衝材に包まれた大きな模型飛行機。もう何年そのままだったのだろう、緩衝材にはかなりの量のホコリが積もっている。

 ホコリを払い緩衝材を開き、飛行機の部品を取り出し並べる。中身はホコリもなく整備され保管されたままの綺麗な状態だった。何年も眠り続けていた飛行機を組み立てる秀人。あの頃自分が小さかったから大きく見えていたと思っていた飛行機は実際大きく、主翼は大人の秀人が両手を伸ばしてもまだ余るくらい。2メートルはあろうか。夕日を浴びて赤く染まる銀色の翼。それは六年前、舞と美空が最後に飛ばしたあの頃のまま何一つ変わっていなかった。

「Pー51マスタング。太平洋戦争時代のアメリカの戦闘機のスケールモデルだ。十八年くらい前になるかな、元々は俺が作って飛ばしていた機体だ。そして、この飛行機のおかげで俺は母さんと結ばれた」

 夕焼けに染まった西の空に手のひらを飛行機に見立て水平飛行させる秀人。秀人の手のひらに銀色の飛行機が重なって見える。


 十数年前、二〇代半ばの青年・青井秀人は完成したばかりのラジコン飛行機のテスト飛行をしていた。十数人のラジコン愛好家たちの集まりの場である高梁川東岸の河川敷にある模型飛行場。老若様々なクラブメンバーがそれぞれの飛行機を並べている。当時秀人はまだ飛ばし始めたばかりの新人だった。数人のメンバーに見守られ秀人はエンジンを吹かし、銀色の大きな飛行機をランウェイ左端から右方向川上へと滑走させた。スピードが上がり翼が風を掴まえる。

「あわてるな、もっと走らせて!ゆっくり機首を上げろよ」

 すぐ後ろに立つサポート役の老人は秀人を諭すように声をかける。言われた通り慎重にじわじわとプロポ(操縦機)のスティックを引いた。十分風を受けた飛行機はゆっくりと地面を離れた。そしてそのまま銀色の機体は白い煙の線を引いてまっすぐ青い空の中へ飛び込んで行く。

「綺麗だ・・・」

 秀人はそう呟いた。

 そして100メートルくらい川上の土手道の上、ジョギングの足を止め空と白い軌跡を見上げ同じ言葉を呟いた大学生くらいの女性がいた。

 秀人は上空、周回コースに入ると舵の感じを確かめながら何度もフィールドに沿って左右に往復させた。

「いい感じじゃないか。まぁワシの設計じゃから当然だがの」

 背後の老人が笑って顎のひげを撫でる。高度が上がり安定した周回コースを周りだすと秀人にも少し余裕が出てきた。少しスピードを出してみよう、とスロットルを軽く開いた。

 土手の上その様子を見上げていた女性が走り始めようとしたその時、頭上を通り過ぎた飛行機がボフッと何か詰まったような音を立てた。

「あら・・・エンジン止まっちゃったみたい。大丈夫かしら・・・」

 再び気がかりで足を止める。

「まっすぐこっちを向けろ、まだ高度はある。無駄な舵を打たず滑空させてできるだけこっちに戻せよ」

 急なトラブルに冷静に指示を出す老人。秀人は緊張してプロポを持つ手に力が入る。プロペラが止まり推力を失った機体をまずは水平に戻す。翼が有る限り揚力があれば滑空することはできる。ゆっくりと舵を切る。速度を失ってしまうと即墜落なギリギリの状態。秀人は大きくできるだけ傾けないよう旋回したつもりだった。だが機体はガクンと傾き速度と高度を失った。手前方向に向きはしたものの滑走路に戻るだけの高度が足りなくなってしまった。水平飛行のままゆっくりと高度を落とし、背の高い葦に捕まり草むらの中へ吸い込まれていった。

「あっちゃ~やっぱり届かなかったか。最終旋回ミスらなければ問題なかったんじゃけどな。まぁ失速させてきりもみ墜落とかさせなかっただけでもよくやった。あそこ草深いぞ。まぁ多分損傷は軽そうじゃ。落下地点指差し、目印覚えたらまっすぐ進め!」 

 言われるまま秀人はプロポを老人に手渡し青ざめた顔で草むらへ走った。

 飛行場の川上はまだ整備されてなく人の身長より高い葦が生い茂っている。「お~い、飛ばしてた人~!わたしも落ちた地点見ましたよ~こっちからも直線で目指すから、交わったところにあるはずよ!」

 土手の上で手を振る女子大学生。秀人も協力感謝~と手を振り返した。お互い草むらに入り姿が見えなくなる。

 必死にジャングルのような草をかき分け突き進む秀人。しかしなかなかたどり着かない。

「お~いこっち!こっちだよ」

 秀人は斜め背後から草の音と声を聞いた。コースがずれていたようだ、危うく行き過ぎるところだった。秀人は声のする方向に向きを変え、再び草をかき分けた。ほんの一〇メートルほどの距離だった、しかし生い茂った草むらの中では全く場所がわからない。声だけを頼りにやっと草むらに沈んだ機体にたどり着いた。さっきの声の主らしき女性が草の間から手を振る。

「良かったね見つかって。特に壊れてないみたいよ」

 機体の下で草の根っこに座り込む女性。

「ありがとう、おかげで助かった。ってそんな格好で草むら入ったら危ないよ。怪我とかしてない?」

 その女性の服装を見て慌てる秀人。ジョギングパンツにTシャツ姿の女性。草むらの中は棘の生えたつたもあるから肌の露出の少ない服でないと怪我をしてしまう。

「う~ん、ちょっと切っちゃったみたい」

 女性はひざにできたいくつもの傷口に唾を塗っていた。

「ああああ~なんで無茶を~」

 秀人は慌てて機体のことなどそっちのけで女性を背負い草むらを抜けた。ラジコンが若い女子に化けた、と驚くクラブ仲間達をよそに自分の車から折りたたみ椅子を広げ女子大生を座らせた。幸いメンバーに医療関係者がいて消毒液や傷薬と絆創膏と一揃いあったため治療にさほど手間はかからなかった。

「そんな大げさにしなくていいのに。逆に治療ありがとうございました。良かったですね、飛行機壊れてなくて。さっき飛ばしてるの見ましたよ。すっごく綺麗で思わず足を止めちゃいました。またランニングしていて飛ばしてたら見せてください。それではお邪魔しました~」

 無邪気な笑顔で頭を下げる女子大生。その笑顔に秀人は思わずどきっとした。

 頼まれて飛行機を回収してきた老人が何かを察して秀人の背中に肘打ちを入れる。

「・・・あ、あの、ここから遠いの?良かったら送っていくよ」

 思わず女子大生の手を掴まえる秀人。


「こいつのおかげで美空は生まれたようなものだな」

 ちょっと照れ臭そうに舞との馴れ初めを語った秀人は銀色の飛行機のプロペラを指で弾いた。

 銀色の胴体に映る自分の顔を見つめる美空。その奥に母親の顔が見えたような気がした。

「お父さん・・・わたし、この飛行機を飛ばす。わたしがスケート始めたせいで忙しくて飛ばせなくなったんだから。今度はわたしがお母さんの代わりに、この飛行機を飛ばしてあげたい」

 秀人を見上げる美空の顔は夕日に赤く染まっている。事故以来失っていた生気を少し取り戻したように見えた。

「わたしも手伝う、だからやろうよミイちゃん・・・」

 マキもそんな美空の様子がうれしかった。

「こいつの機体名はPー51マスタング、ペットネームは“リトルレディー” 『お嬢さん』という意味だ。美空、今日からお前が次のお嬢さんのパートナーだ。だが、ここまで来るのに先は長いぞ」

「うん」

 銀色の飛行機に並んで座る美空は『よろしくね』と機首を撫で、うっすらと笑った。


玉島の繁華街にあるAOI模型。たくさんの模型の箱が積み重なる店内。カウンター横工作台で銀色の模型飛行機を分解してメカの動きをチェックする秀人。プロポのスティックを動かす。それにリンクして胴体内部にマウントされたサーボモーターに取り付けたアームが左右に半回転する。アームに取り付けたリンケージロッドがその動きを舵に伝え、水平尾翼の動翼部分が大きく上下に動いた。

「こうやってそれぞれの舵をそれぞれにリンクしたサーボが動かして機体の制御を行う。エンジンのスロットルの開け閉めも同じだ」

マキがその構造、システムを見ておぉー、と感心する。もともとこういった機械にも興味あったのか、秀人の説明に耳を傾けていた。

作業台のかたわら、パソコンの前で美空がケーブルで繋がれたプロポと格闘していた。

「なんでそっちに曲がるの?え、いつ逆さまになったの?ああああ~」

画面にはリアルなCGで描かれたフィールド、その中を飛ぶ同じくCGで描かれたラジコン飛行機がフラフラと飛んでいた。CGのモデリングは先日のP-51と同じものだった。銀色の飛行機は制御不能で真っ逆さまに地面に叩きつけられた。

「だからいきなりは無理だって言ったんだ。これが本物だったら機体はバラバラだ。最初はこっちの練習機からきちんと飛ばすんだ」

見かねた秀人はPCのマウスでリセットボタンを押す。画面の中リアルにバラバラになっていた銀色の飛行機は、一瞬で元どおりに戻った。練習用のRCフライトシュミレーターだから何度でもやり直しがきく。現実ではこうはいかない、一度の墜落で全壊ということもある。

秀人はさらに操作して機体を舵の少ないシンプルな練習機に切り替える。

「慌てるな、時間はいくらでもある。ちゃんと練習して母さんの飛行機を飛ばしてやろう」

秀人は美空の頭をなでる。

「うん」

美空は再びプロポを構え練習機を仮想現実の空へと飛ばした。


仮想現実の空は現実の空に変わり、現実の練習機は冬の空を飛んだ。高橋川の河川敷川上にある新しいAOI模型飛行場。車椅子に座り秀人とマキに見守られ、美空は人生初のソロフライトを成功させた。シュミレーターと現実は別物、冬の強い風は不規則に吹き機体を揺さぶる。だが何度も何度もいろいろなシチュエーションを練習した美空はそれに対応して舵を打つ。機体はまるで風が吹いていないかのように安定して真っ直ぐ水平飛行を続けた。

「元日が初飛行とはなかなか縁起がいいな。もうこの分なら卒業までには母さんの飛行機飛ばせるかもな」


小学校の卒業式が終わり、学校を出た美空は秀人に連れられ河川敷飛行場に向かった。マキも両親に連れられて来る。

組み立てられたP-51マスタング・リトルレディー。その傍に並べられる母親・舞の遺影。そっと手を合わせる美空。

「さ、早くお母さんに見せてあげようよ」

美空は母親の遺影を父親に手渡した。

マキは秀人にチェックしてもらいながら飛行準備を始める。マキも熱心に整備技術を習い、一人で組み立てから飛行までできるようになっていた。

フィールド中央、車椅子で待機する美空。背後で舞の遺影を胸に見守る秀人。マキはエンジンをかけ滑走路左端に銀色の飛行機を運び、両手を振る。準備は整った。

「行くよ・・・見てて、お父さん・お母さん」

美空は大きく深呼吸してプロポを構える。背後の父親と、その胸の母親に笑顔を向けた。

『この空に誓うよ~』

背もたれにもたれ空を見上げる、おまじないの言葉を小さく呟く。そして意を決し、スロットルを開いた。エンジン音がひときわ高まる。プロペラに引かれ銀色の機体はフィールドを疾走する。翼が風を捕まえる。ランディングギアが地面を離れんとフワッと浮かぶ。

「あわてるな、もっと走らせて!ゆっくり機首を上げるんだ」

指示を耳に、はやる気持ちを抑えまだエレベーターは引かずレベルキープ、スロットルっをさらに開き機速を上げる。浮力が重力を振り切り機体は完全に地面を離れた。風を感じた美空は機首を引き上げる。銀色の飛行機は真っ直ぐ白い軌跡を残し青空に吸い込まれて行った。

「綺麗・・・」


〜Another Step〜

京都市内を流れる宇治川河川敷、関西模型飛行機スタント飛行競技会会場。流れる音楽をBGMに一機の飛行機が大空を舞い踊る。その一糸乱れぬ見事な飛行は他の競技者を唸らせた。

「くそっ・・・またか、どうして奴に勝てないんだ?」

直前のフライトだったのか、一人の少年が自分の機体を小脇に抱えそのフライトを悔しそうに見上げていた。

陽が傾き始めた頃、競技機のリザルトが発表される。

「スタント飛行オープン部門、二位。颯斗選手」

競技者が円に集まる中、準優勝に呼ばれた少年。だがしかし目をぎゅっと閉じ俯く。その背中を大学生くらいの青年が叩く。

「惜しかったな、前よりはかなり良くなっている。あと一息だ。だがお前にはまだまだ足りないものがあるって事だ。ほら、行くぞ」

青年は少年の頭のキャップごとぐしゃぐしゃと撫でた。そして自分が呼ばれることを確信して少年を連れて表彰台へ向かう。

「第二五回関西模型飛行機スタント競技会オープン部門 、優勝者は・・・」

司会者が呼ぶでもなく、青年はその手を力強く空に掲げた。


「おめでとう慶二くん。やっぱり、ってところね。颯斗も良く頑張ったじゃない」

大会が終わり参加者が機体の片付けをしていた。優勝した青年の元へ先ほどの少年とその母親が挨拶に寄った。

「ありがとうございます。まぁ、まだまだ譲りませんよ。単純に技術だけなら颯斗が上回っているところもありますからね」

青年は自信に満ちた口調で語り胸を張った。連れられた少年は嫌悪の表情で顔を背ける。

「慶二君、次会うのは岡山、笠岡の秋のイベントね。その時はよろしくね」

母親は少年に変わり青年と握手をした。

「春から岡山の実家の方に?では響木先生によろしくお伝えください。じゃあな颯斗、中学校は倉敷だな。まぁせいぜい次に向けて頑張ってくれたまえ。勝つのはこのキングとエクスカリバーだがな」

青年はそっぽを向く少年の手を強引に掴み、自信に満ちた表情でニッと笑い握手した。少年はその手を振りほどく。

「慶二!お前はなんであんな奴に着いて行ったんだ?オレは絶対認めないからな!」

少年はそう叫び青年の顔を睨むと走り去った。

「またな・・・」

青年は残された手を下げ空を見上げた。


春、倉敷の玉島にある中学校。母親に連れられた制服姿の少年は校門の前、咲きかけの桜を見上げていた。

ふと門の前を走り抜けていくお下げ髪の少女。その背中には同級生らしき少女が背負われていた。少年はその少女と目が合う。少女も少年と目が合う。それは一瞬の事。少女たちは立ち止まることなく走り去って行った。

そして 美空と颯斗、二人の軌道が交わった。




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