―06― ***頭隠して――
心を隠せない。自分から心を表すのは下手なのに。排水口にまとわりつく髪の毛の醜悪さ、凛の心情はまさにそれであった。
髪、髪、髪、髪、髪、女の、髪。生きているのか、もしくは……「……ちょっと、凛聞いてる?」絵美が凛に割り入ってきた。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
絵美の訝しそうな顔。凛は慌てて微笑みを繕った。
気を取り直してくれたのか、絵美は店の批評を凛に求めた。
「ここ、いいでしょ。こないだ潤と来たんだ」
潤というのは、絵美の噂の旦那だ。実際に顔を見かけることは多いが、それよりも圧倒的に絵美の話に出てくることの方が多い。
確かに悪い雰囲気ではない。イタリアンを扱っている割には、普通の住宅街に違和感なく溶け込んでいる。イタリアンであると分かるのは、イタリアの国旗を掲げているからで、それがこの店の目印にもなっているようだった。一見、普通の住宅にも見えなくない外観に対して、内装は異世界の感性に溢れていた。全てに白を基調としており、清潔感もある。
こんな心境でなければ、もっとランチを楽しめるのに――そういう思いが、ありありと凛の表情に露われていた。心を隠すくせに、それが上手なわけではない。隠したいのか、それとも……本当は知られたいのか。
「よく見つけたね」
ようやく言葉を見つけて発する。ただの継ぎの役目しかないのは明白である。
「そう! そうなのよ! 偶然、潤とこの辺り散歩して見つけたの! 見つけたらもう! 入るしかないでしょ! そしたらあたり! 店は落ち着いてるし、パスタは美味しいし!」
繋ぎと思った言葉が、思ったより絵美の心を掴んだのか、矢継ぎ早に言葉が飛び出してくる。凛の表情の深層に踏み込むつもりは全くないようだ。
「教えてくれてありがとう。うちの人とも来るね」
そう言うと絵美は満足げな表情をした。
ひとしきりのランチをこなした後、凛は再度トランクの〈髪〉について思案し始めた。
あれは確かに髪だったのか? 長く乱れて伸びる茶がかった糸のような物体。一つどころから伸び行くように見える糸のような物体。やはり髪にしか思えない。もし髪なら、安直だがあの長さなら女性のものだろう。ならなぜ女性の髪が我が家の車に?
――今日は車を使わないで欲しいんだ。
あの友也の言葉は? 髪の持ち主が車にいる……もしくは〝ある〟……のか?
いかに思案しようとも、背景や経緯が分かるわけでもないので、疑問は一点に集約されていく。生きているのか。死んでいるのか。まさか。
「はぁ〜。お腹いっぱい。そろそろ行こうか」
絵美の言葉で再び現実に帰る。今日はある意味で絵美と一緒でよかった。彼女の言葉が度々こちらに引き戻してくれる。
「うん。送って行くよ」
いつまでたっても浮かない言葉と表情。せめて絵美がそのことを問うてくれたら、と小賢しいことを考えてみる。絵美はこんなわたしと一緒にいて気詰まりしたりしないのだろうか。それが狡く浅ましい思考であることも凛は知っていた。
「今日は家事したくないな〜」
絵美はどこまでも日常である。
「わたしは午前中にある程度やっちゃったから、午後は気楽」
髪を忘れるために、絵美の日常に合わせて喋る。
清算を済ませて、結局問題の車に行き着いたのだから、それも無駄な努力だったのだが。
「凛はさすがだよね〜。ほんと、尊敬する。わたし家事、だめ。合わない。毎日同じことの繰り返しとか息つまるわ」
「絵美は働かないの?」
二人は会話を継続しながら車に乗り込んだ。
「働くのはイヤじゃないんだけど……男社会ってのがさ……。あいつらってほんと厚かましいと思わない?」
「厚かましい?」
凛は本心で理解できなかったので訊いた。
「厚かましいわよ。結局女は男の道具、ぐらいでしか考えてないわよ。あいつら。さっきのイタリアンもさ、少しタバコの匂いしたでしょ?」
話がポンポンと飛んでしまうのが絵美の語りぐちだ。もっとも女性全般そうなのかもしれないが。そこに難なく合わせていけるのも女性らしいところか。
「タバコの匂い……? 少ししたかな?」
「したよ! あれ絶対、店主が暇な時間とかにタバコ吸ってるのよ。男は厚かましいから。飲食店でも平気でタバコ吸うとか営業姿勢疑うわ。日本はタバコの販売とかやめたらいいのよ。迷惑ばかりじゃない」
先ほどは店を好評していたはずの絵美が、いつのまにか一転した態度になっている。批判のスケールは国家レベルまで容易に発展した。
絵美との他愛ない話を続けていたら、あっという間に自分らの住む地区に帰り着いた。凛は絵美の家を目指して車を向ける。絵美の家も、凛の家も似たようなサイズ感で、二人の家は共通して穏やかな佇まいだった。
絵美の家の前に車を止めた。人通りといえば、子供連れの主婦か、散歩する近所の老人たちぐらいである。
「ありがとう! それじゃあゴルフバッグ降ろすから、ちょっとこのまま停めてて」
その言葉を聞いて、心の臓が跳ねる。
「あっ、いや、わたしがやるよ」
「いいわよ。それぐらいできるわ」
そういうことではない、凛は今日初めて絵美に濁った感情を抱いた。それぐらいできるなら何故はじめからそう言わないのか。さっきはわたしにさせたじゃないか――、慌てて車から飛び出る凛。
既にトランクに手をかけた絵美の手をとる。
驚いたような目で見られるが気にしてられない。
「いいから。今日トランク散らかってるから、わたしにやらせて」
つい剣幕を込めすぎたせいか、絵美は黙って引いた。
「な、なんだか悪いわね。それじゃあ家のドア開けてくるわ」
ふっ……と息を吐く。絵美の戻らぬうちにゴルフバッグを取り出さねば。髪に気づかれぬように。ぐわぁぁ……今日はいつにも増して、トランクの開放が遅く感じる。早く、速く、はやく。
既に絵美は家のドアに辿り着いている。ガチャガチャと、カンに触る鍵の音が聞こえる。
我が物顔でトランクに居座るゴルフバッグ。その奥には――髪。変わらず。
肩にもかけられる、たいそうな肩ひもを慌てて担ごうとする。
布の擦れる音が手を伝わり、それはまるで骨をかじられるような不快感を伴った。
肩ひもがゴルフバッグから外れていた。凛の心が屹立した。
絵美の気配が近づいてくる。
凛はなりふり構わずにゴルフバッグを両手で担いで取り出した。
「凛?」黙って。黙って、黙って、黙れ。
バタン。絵美が車に戻るすんでで、トランクは外界を遮断した。
「どうしたの?」
「ごめん、絵美のゴルフバッグの肩ひも外れちゃった」
凛なりに顔を取り繕う。
「ああ、いいわよ、そんなの。それよりよっぽどトランク乱れてるのね。こんな慌ててる凛初めて見た」そう言って絵美はトランクを覗き込む仕草をみせた。
「やめてよ!」
思わず大きな声が出た。絵美は想定外だったのか、目を丸くしていた。
「ごめん。見ないから。今日はありがとう」
「あ、いや、ごめん。それじゃあ」
凛は急ぎその場を離れるために、車に飛び乗った。このままだと嗅がれてしまう――凛の思考を支配しているものと、その感情。
ゴルフバッグを脇に呆然とする絵美をよそに、凛は車を〝動〟に切り替えた




