―04― ***犬も歩けば――
野に下る。生き物らしく。
犬がペットと認識されてからの歴史は意外と長く深い。日本では縄文時代から既に犬をペットとする文化があったようだ。もちろん、人に飼われることなく野生する犬もいる。それが野犬。
野犬となった犬は、己の力で餌を見つけ、己の力で交配していく。野生の力を――生きるために生きる力を解放している。生物学上の「生き物」と捉えた時、野犬と飼い犬のどちらが、より「生き物」らしいのだろう。犬は、人間との距離が近い生物であるためか「人間」としての価値観を展開されやすい。「生き物らしく」ある犬、結論を出そうとすれば果てのない議論となるかもしれない。
ここに、一匹の犬がいる。飼い犬であったころの名を、ツラマルという。そしてツラマルは現在、野犬である。野に下り、名は意味をなさなくなった。ツラマルは聡い犬で、野犬となった自分が不用意に人間の領域に踏み込めば、たちまち処分されることを知っている。
――だから、ツラマルは山に住んだ。
そしてツラマルの目論見通り、ツラマルは現在まで殺処分となることを回避し続けている。純粋に野犬でもなく、かといって人に飼われているわけではないツラマルが山で生きていくことは至難であった。
人の作った街には、目に見えない境い目があった。そして人はそれを強く意識する生き物だった。
山は違う。アトランダムに敷かれる他の動物の〝領域〟がツラマルを刺激する。「臭い」がそれを探知させる時もあれば、視覚的なマーキングがなされている時もある。
柴犬らしい艶やかだった毛並み――実りし稲穂のような――は、見るも無惨なボロ雑巾と化した。そのかわり、ツラマルは野生の逞しさを体に宿した。ツラマルの双眸は昏く強い光を放ち、肉体からは無駄な肉が削げ落ちた。ツラマルが犬にとっての老獪となった今も生き残ってこられたのは、ツラマルから生きようという意思がなくならなかったことが主因である。
「生きよう」というより、「山に住む」ことに固執していた。山であれば何でもよいというわけではなかった。この山でなければならなかった。それが完全な野犬と、飼い犬から野犬となった存在の差ともいえた。ツラマルは山に生い茂る木々をかきわけ、ツラマルにしか分からない道を行く。……寝床へ。
寝床には明らかに人体の、それも頭蓋の白骨が土から剥き出していた。




