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マトリョーシカのネズミ  作者: 相葉俊貴
20/23

―20― ***明日は明日の――

 風に吹かれて、少しだけ虚しい気持ちになった。

 ツラマルは姉を見送った。多分もう二度と会うこともない。

 寝床で休んでいたツラマルのもとに、風にのった懐かしい匂いが運ばれてきた時には驚いた。姉の匂いだとすぐに気がついた。もしかしたら迎えに来たのかも――そう思った。

 風に導かれて、ツラマルは森を駆け抜けた。夜の森を不用意に動くのは危険もあることを知っていたけれど、それでも姉に会いたかった。どれだけ野生を得ても、野犬として生きてきたにしても、家族がかけがえのない存在であることには変わらなかったから。

 森の切れ目に到達したツラマルが目にしたのは、静かな車だけだった。しかしそこには姉の匂いが残っていた。またすぐに一陣の風がふく。姉と何者かの〝死〟がないまぜになった不思議な匂いだった。ツラマルは匂いに向かって歩き出した。

 そしてツラマルは姉と邂逅を果たす。しばらくぶりの姉は随分と母に似ていて驚いた。

 そしてツラマルの望みとは裏腹に、姉はツラマルのことが判別できず、迎えに来たわけでもなかったことを知る。


 姉を見送ったのち、ツラマルはゆっくりと寝床に向かった。頭蓋が迎えてくれる。


 数年前に家を出ていった姉が戻ってきた時、ツラマルは嬉しかった。また三人で暮らしていけるのだと思った。だからなぜ張り詰めた空気になったのか分からなかった。遺伝子のどこかに刻まれた、危機に対応しようとするセンサーが非常事態を告げていた。

 姉と母は言葉の暴力をぶつけ合い、そして次第に暴力の応酬は物理的になった。

 その姿を見ていると、ツラマルは次第に興奮してきた。なぜそんな感情になるのか分からなかったが、細胞のひとつひとつが闘いに魅惑されていく。

 凛の額からピッと赤い血が飛んだとき、我慢の限界に達した。

 ツラマルは母に突進した。〝族〟の頂点への挑戦。

 ツラマルの中の〝生〟が歓喜している。――そうだ、そうやって生きるんだ。

 手や足は駆け抜けるためにあるんだ。牙と爪は獲物を仕留めるためにあるんだ。

 俺はそういう生物なのだ。

 ツラマルの予想外の攻撃に母は怯んだ。母の悲鳴、なんて心地よいんだ。

 凛の母は大きく勘違いしていた。たかが人間一人が、脈々と引き継がれた生き物に宿る本能を書き換えることなど、できるわけが無かった。雄は雌にならないし、人と犬は姉妹にはならないし、子は母の玩具ではなかった。輪ゴムを延々とぐるぐる捻り続ければ、いつかは捻じ切れて、それまで蓄積された力がまとめて放出されることを理解していなかった。


 母の手には凛の暴力に対抗するためのフライパンが握られていた。ツラマルの襲撃に咄嗟に振られたフライパンに横っ面を弾かれる。ツラマルは床に転がった。意識を断ち切られるほどの衝撃に、足が痙攣する。飼い犬に手を噛まれる……、母は許せなかったろう。次にツラマルに向き合った母は、夜叉になっていた。

 夜叉になった母は、ツラマルの息の根を止めるべくその全体重をツラマルに乗せた。

 涎がツラマルの口から溢れ、涎は泡になり始めた。暗闇が近づいてくる……。

 ツラマルが生き物としての活動を終えようとしたその時、ドッという衝撃が響いた。

 夜叉が母の体から抜けで行く。それに伴って、母から〝生〟も抜け出て行った。

 母の背には深々と包丁が突き刺さっていた。どさりと倒れこむ圧倒的な死の存在感。

 姉が肩で息をしながら、死体となった母とツラマルを見下ろしていた。

 それから姉の行動は早かった。もしかしたら最初からそのつもりだったのかもしれない。

 風呂場で母を解体していく姉には、もはや何の表情も読み取れなかった。時折、母の肉片を取り出して、フライパンで炙った。炙った肉片はツラマルにくれた。あまり美味しいとは思えなかったが、肉らしさは良かった。日が昇っても、作業は続いた。ツラマルは満腹になっていたので、リビングで横になっていた。


 真っ赤になった風呂場から姉が出てきた。姉は四角い移動できる箱みたいなものを引いていて、そんなサイズで母が納まるのだと感心した。

 姉が帰ってきた時の車に母を乗せ、ツラマルと母と姉は家を離れた。

「この車、友也に借りたの」と姉はツラマルに説明したが、その言葉の意味合いをツラマルが理解できるわけがなかった。姉が出て行ってからの数年間で、姉にも色々あったのだろうことだけは分かった。山に着いて姉は母を埋めた。

「それじゃあね。ツラマル。元気でね」姉はそう言ってツラマルは山に置き去りにされた。そしてあの時を再現するように、姉は再びツラマルを置いていった。


 ツラマルは頭蓋になった母に寄り添い、そして眠りについた。きっとツラマルはそれほど残っていない生の時間をここで費やし、そして死んでいくのだろう。家族の尊さを、野犬たちは知らない。自分は知っている。

 飼い犬として受けた優しさも、野犬として生きた美しさも経験したツラマルはきっと名前の通り〝幸せ〟だった。優しい眠りが訪れる。

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