―02― ***火のないところに――
「今日は車を使わないで欲しいんだ」
起き抜けに友也がそう言いだしたことから、全ては始まった。
「それはいいけど……どうかしたの? 今日も通勤に使う?」
三枝家には車が一台しかなく、それを凛と友也は共有して使用していた。基本的に家にいる時間の長い凛の方が車を使用する頻度は高い。
「いや、今日はバスで行くよ。昨日会社からたくさん資料を持って帰ってきていてね。車に乗せっぱなしなんだ」スーツを着ながら友也はそう言った。
「それならわたしが昼間に片付けておこうか?」凛は友也の着るコートの上着を手に、友也の準備を見守る。
「いやそれは大丈夫。今置いてある順序のままにしておきたい。凛の運転が荒いって言ってるわけじゃないんだけど、車を動かして下手に資料がごちゃまぜになると困るから」慣れた手つきでネクタイを締めながら、友也は鏡と喋った。
「わかったわ。今日は車をつかわないでおくわね」凛は友也に上着を着せた。
「ごめん。おれがしっかり片付けておけば良かっただけなのに」
「気にしないで。そもそも今日は家でゆっくりしてようと思ってたから」
そうして朝の夫婦の会話が終わる頃には、友也はいつもの出勤スタイルに成り代わっていた。二人の間に子はないので、凛にとっての慌ただしい朝はそれで終わる。
「行ってきます。なるだけ早く帰るから」
――この言葉。これが凛の幸せが体現されたもので、凛が何をしてでも守りたいものだった。
行ってきます。
行ってらっしゃい――わたしのところから。
ただいま。
おかえりなさい――わたしのところへと。
凛は自分のペースで家事を始める。鼻歌も合わせると家事は楽しみも併せ持った存在に格上げされる。――ルンルンルン、ルンルンルン。凛は余念の無い家事を行うことに不平不満を感じたことはない。ハードで、休みもなく、対価が払われるわけでもない業務……友人の絵美は家事をそう揶揄する。「――しかもそれが当たり前だと思ってるのよ、うちのだんな」と鼻を膨らませる絵美に、一応、無言で頷く素ぶりだけは見せる凛。しかし心のうちでは「当たり前」と思ってもらえることこそが幸せじゃないかしら、と静かに反駁している。
凛のお腹が機械的に振動しはじめた。エプロンのポケットをまさぐり、凛は携帯電話を取り出した。
『今日ひま? ランチしない?』
絵美からのメッセージ。端的に用件を伝えてくるのは絵美らしいところだった。
『いいよ。どこにしよっか?』
絵美と凛は旧来の友人関係ではない。凛たちがこの区画に越してきてからの友人で、付き合いの短さの割にはフランクな関係性であった。同級生であったことや、お互いまだ子供がいないことから、凛たちが打ち解けるのに時間はかからなかった。むしろ、性格が相反するところが妙に心地よく、結婚前の知り合いよりもくだけた関係を築けていた。
『やった。そんじゃ悪いんだけど、お昼に駅まで迎えに来てくれない?』
大切なことが後出しになるのも、絵美らしいところだ。凛たちが住まうこの地区は、数年前に区画整理されたものの、駅からの距離はそこそこある立地であった。何かしらの理由で駅にいる(着く?)絵美が、駅からの足に凛を連想して、それならそのままランチも、と思考したのが透ける。
昼下がりに主婦友とランチ――、これも凛の望んだ理想の一つ。その理想をこともなげにもたらしてくれる絵美に好感を持ちこそすれ、悪感情を抱いたことはない。だから、普段なら絵美のお願いなんて簡単に引き受ける。しかしいまは。
――今日は車を使わないで欲しいんだ。
友也の言葉が頭をよぎる。言われた時は約束ごととも思わなかったほどだが、改めると、抽象的な割に強制力を感じる。幾ばくか逡巡して、凛は携帯電話を操作した。
『わかった。迎えに行く。詳細な時間決まったら連絡して』
――内緒で。――内緒なら。――秘めてしまえば。
理由が書類の不要な混乱なら、多分友也に内緒でなんとかなる。
『やた! そんじゃ十二時半に東口でおねが~い(〃ω〃)これで解決えみちゃんねる』
年齢を推察されかねないネタを放り込むあたり、とても絵美らしい。
友也に内緒で――、些事であろうが、その一事が、胸にじくじくと嫌なものを滲ませる。
――だよ!》
凛はかぶりを振った。わたしは違う。




