―19― ***尾を振る犬は――
誇りを失って、それでも生きて、喜びを与えられて、首輪に繋がれたまま死んでいく。「飼い犬」をそういう偏見に溢れた目で見ていた。凛は母の飼い犬にすらなれなかった。だから「飼い犬」にすらジェラシーがあったのかもしれない。
凛の前を悠然と進む芝犬には誇りの高さを感じた。誇り高く生きて、誰かに媚びるでもなく、誰に尾を振るでもなく、たった一人で生きて、たった一人で死んでいく。誰にも救いを求めない替わりに、誰のせいにもせず闊歩する、人生を。前を行く芝犬のその姿はズタボロで見られたものでは無かったが、美しかった。凛は芝犬に見とれていた。人を殺しても流れなかった涙が、この芝犬を見ていて初めて頰を伝う。
理由は分からなかった。それでも凛の中の幼き少女の部分が、紅涙を絞っていた。
森が突然途絶えた。いや、これは道、と凛はすぐに思い直した。
道なりに光を照らすと、そこに凛の車があった。すっかり〝静〟に成り下がり、森と一体化してしまっている。
凛は芝犬に振り返った。既に芝犬の姿は近くになかった。
くるくると周囲に光をあてる。
少し離れた岩の上に芝犬はいて、現れた時と同じく眼を光らせながら凛を見つめていた。
「ありがとう」凛は声をかけた。
沈黙が降りてくる。しかし凛も言葉はいらなかった。眼と眼を合わせているだけで良かった。やがて「会話を終えた」凛は、車に向かって歩き出した。
凛は妹の幸のことを思い出していた。妹は今頃何をしているのだろう。どこかでのたれ死んでいなければ、であるが。今思えば、妹にもっと優しくしてあげれば良かった。妹と自分の格差は、別に妹がそうしたわけではなかったのだから。
幸という名前も羨ましかった。だから当時、小学校で「幸」と「辛」という字が似ていると教えてもらったから、妹に「辛丸」というあだ名をつけてやった。「丸」はどっから来たか思い出せないが、「ツラマル」という語感は気に入っていた。
ひっそりと母の目の届かぬ時には、妹をツラマルと呼び続けた。母が「さっちゃん」といくら呼んでも中々見向きもしなくなった。妹は「ツラマル」を己の名だと思い込んだのだろうか。
とある時に、自分の妹が〝犬〟で、姉の自分が生物学上の犬ではないと知った時、凛を支えていた柱に大きなクラックがはしった。飼い犬にもなれぬ愚かな人間、それが凛だった。どぶネズミ。言い得て妙である。凛は人に成りたかった。
凛は車に乗り込み、エンジンキーを回す。すぐに〝動〟に切り替わる。
未だに遠くに芝犬が見える。今度はヘッドライトの光を受けて眼が灯っている。
凛は、さよなら、と小さく呟き、アクセルを踏んだ。




