―18― ***月に叢雲――
風は静かだった。本当に穏やかな風は、優しい緑の匂いを運んでくる。
――月に叢雲、花に風。良いことには兎角邪魔が入りやすいものだ。
その反対で悪いことには都合の良い救いが訪れたりする。
凛は懐中電灯も使わずに少女の分の穴を掘り終えた。いつの間にか現れた月光が凛の作業を支えてくれていた。むせぶような死の匂いはそよ風がどこかに運んでくれていた。近くに丈夫そうな太い枝が落ちていたので、テコの原理で簡単に少女を穴に落とした。土を被せてしまうのも呆気なく終わった。さて……どうやって車まで戻ろうか。
いかに月の光が照らしてくれても、さすがにこの森から抜け出るのは難しい。
凛は、近くにあった立派な木に寄りかかった。凛は奇妙なほどに落ち着いていた。目の前の困難よりも、目的を達成できた安堵感の方が強い。
「何もしないって言ったのに、嘘になっちゃったね」大して悪いとも思っていないが。
――――――――――――――――――だよ!》
一度鬼になった者は、もう人間に戻れないのであろうか。友也を殺そうとして鬼になったあの頃から、自分は何も変わっていなかったのだと、凛は納得する。また秘め事が増えてしまった。いったい何にどれだけフタをすれば、幸せでいられるのだろう。
《――――――――――――――――――――だよ!》
ふいに、凛は真横を向いた。何かガサガサという音が聞こえたからだ。
慌てることもなく、凛は懐中電灯を音のした方に向けた。
……犬。ボロボロな体ではあるが、芝犬であった片鱗は分かる。照らされた懐中電灯の光で、その眼には光が宿っていた。暗闇のなかに浮かぶ二つの光点。まばたきもすることなく、じっと凛から目を離さない。飼い犬にはおよそ放てない強い野生の意志を感じる。
「……ねえ。わたしを車まで連れてってくれない?」
凛は自分でも不意に、訊いていた。普通なら野犬を下手に刺激することもないだろうが、凛は捨て鉢になっていたのかもしれない。けれども芝犬はウンでもなければスンともせず、一定の距離を保って凛を見澄ましていた。
ふぅ……と息を吐く。
月影の中では凛の掌は黄色味をしているのか、青白いのか判別はつかなかった。それでも、友也の赤色でないことだけは分かっていた。こんなにも遠くまで来てしまった。凛は月を見上げた。
――満月だった。物静かな、しかし老練の自信に満たされし天満月。そんな月を眺めていたら、何とでもなる気がした。
ふと気づくと、あのボロボロな芝犬が、凛の足元にいた。その視線は凛の顔に向いている。沈黙の中見つめ合う両者。品定めを完了したのか、芝犬は森の奥に向かって歩き出した。凛は食物に値しないと考えたのか、それとも――。
まさかとは思いつつも、凛はこれ以上状況が悪くなるとも思えなかったので、芝犬のあとについていくことにした。
風は未だ穏やかなままだった。




