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マトリョーシカのネズミ  作者: 相葉俊貴
13/23

―13― ***塵も積もれば――

 積もった疑念は確信へ、確信は行動になった。友也と結婚してから、宵闇にひっそりと家を抜け出るなどしたことがなかった。とてつもない緊張感だった。

 しかしサインは出た。友也は困っていた。困っていることさえ分かったのなら、あとは尽くすだけだ。フタをするのは凛の仕事だと思った。一人夜の道をゆく。こんな時間に車をはしらせるのは久しぶりだ。行く先――死を埋める先――は決めていた。シャベルは後部座席に積んである。あとは完了させるのみ。

 時折あった街灯は少しずつ数を減らしていき、黒が深くなってくると、外の世界と凛の世界が混じっていく気がしてきた。ぼんやりと凛が車を乗せて走り行く感覚が生まれ、これから行うことのおぞましさがまるで車のせいのような気持ちになる。誰かのせい、そして夜……それらのパーツが凛と友也が出会った頃の記憶を呼び覚ました。


 友也は救世主だった。決して大げさな意味ではなく。

 母の経済的な暴力は、凛の末端を少しずつ腐らせていった。腐敗は次第に心にまで及び、母を、そして社会全てを憎む感情が膨れ上がった。

 誰でもいい、どこでもいい、体の中に留めておくことができなくなりつつある悪意を、殺意という形で発散したかった。檻に入らなくなったら力に変えればいい、それだけは母から学んだことだった。そして凛は夜叉として夜を徘徊し始めた。

 夜は良かった。全てを黒く塗りつぶして限りなく不可視にしてくれる、そういう夜だけがもたらす安寧があった。凛は完全な夜行性生命体となり、狂気だけを持っていた。

 そして別の方向性の夜行性生命体と出くわす。凛を、いや無防備と見える女を、〝体〟と捉える生命体たち。至ってシンプルな凶暴性が服を着て歩いていた。

 三人程度の夜行性生命体に凛は人気のない公園に連れ込まれた。

 体をどうされようが興味はなかった。それよりもようやく殺意を発露する都合よい対象が見つかった気持ちだった。

 しかし凛は無事で、そしてまた三人の夜行性生命体も命を落とすことはなかった。

 友也が現れたからだった。既に鉄鋼関係の仕事についていた友也の体には、実用性にのみ特化したしなやかでたくましい筋肉が武装されていた。

 あっという間に三人の夜行性生命体は唸り声をあげるだけの藻屑になった。

 これで困ったのは三人の夜行性生命体ではなく、凛の方だった。もう殺意を秘めておくことは限界だった。

 凛は背に隠し持っていた狂気、包丁と呼ばれる凶器を手に握り、友也に向かい合った。

 もう凛の脳内には、殺人鬼となり、極刑を受け、この社会から切り離される楽園の姿のイメージしかない。おそらくまだ人らしいかけらが凛の心のうちにあったから、最低限の動機らしきものを求めていたに過ぎなかった。

 人らしいかけらのささやかな抵抗は、ついに発言力を失う。

 凛は自分が本当に呼吸しているのかすらも分からなくなっていた。「ぜっ」と聞こえてくる風切り音が、まさか自分の呼吸器官から生まれた音だとは夢にも思わない。

 剥き出しになる感情と比例して剥き出しになっていく眼球。

 凛は薄ら笑いを浮かべていた。反応ではなく反射による作用に近い。幾重にも渦巻く感情が形を持ったにすぎない。殺す……殺せる。

 駆け出して、狂気を帯びた凶器を突き出す。

 あまりにも直線的なその動作と感情では、友也を仕留めることはできなかった。

 凛の殺意は、ほんの少し友也の服を切り裂いただけで終わった。

 地球が浮き上がり、公園の木々が大回転する。凛は友也に突っ伏されていた。

 体重を乗せられ、男と女の構造がそのまま友也と凛の差となって現れる。

 押さえつけられた凛に勝ち目はなくなっていた。

 目まぐるしく光景が変わりながらも、闇だけは何も変わらず二人を見つめていた。

 ――「鬼」が「おに」と読まれるようになったのは、「隠」の「おん」が転じたものが理由とされている。今ここに闇の黒に隠れし鬼は、その語源をなぞるように一体化した。

「なんでだ」

 耳元で友也が小さくひねり出してきた。黒一色の世界に少しだけ彩色が発生した。しかし、それに応える言語を凛は持ち合わせていなかった。なんでだ、友也は繰り返した。僅かに呼び起こされる人間らしさ。

「ひ……ぜっ……ひ……に……ぜっ……」

「なんだって?」

 押さえつけられる力は少しも緩まずに、友也は凛の中身を引き出そうとする。

「……ぜっ……ひとにぃ……ぜっ……な……り……ぜっ……」

「ハッキリ言え」

「……ひとにぃ! なりたいだけぇ!」

 突然溢れ出た言葉に、つい顔を背けてしまった友也は、凛にかけていた力を緩めてしまった。しかし凛は立ち上がらなかった。立ち上がらずに、両手で顔を覆って、泣いた。

 悲鳴とも絶叫ともつかない凛の声が闇夜にこだまする。

「アアアァァァァーーーーーーーーーーーーーーー!」

 多分それは、魂の振動だった。吐けども吐けども潰えることのないような、震え、叫び。闇を切り裂く鋭い刃が、この広いだけの公園を駆け抜けていった。

 どれぐらい経ったのか。もう何も体内に残っていなかった。飽和していたはずの殺意も、そして願いも。今にして思えば、あれほど目一杯に声をあげたにも関わらず、誰一人様子を見に来る者がいなかったのが不思議だ。夜行性生命体たちの遊び場になるのも頷ける。

 いつの間にか夜行性生命体たちはどこかに消えていた。

 友也は側にいてくれた。片膝を立てて座り、じっと凛を見つめていた。

 凛が〝戻ってきた〟のを見て取ったのか、友也は凛に歩み寄り、黙って凛の手を引いた。その手は、温かかった。冷たく深く横たわる黒い世界に、ぼんやりと光が灯ったようだった。

 友也の顔を見つめる。友也の眉が八の字になっていた。

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